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ep.5

 どうやって無事に家まで辿り着けたのか、アーチボルドには分からなかった──。  隣で眠る男に気づかれぬよう息を殺して、重い体を引き摺るように動かして進み、裸足のまま外に飛び出した。  そこがどこなのかわからぬまま携帯アプリでタクシーを呼び、運転手に行き先を告げると共にアーチボルドは意識を失った。  次に目を覚ましたのは、タクシーの開いたドアの向こうから喜勝が青い顔をして自分の肩を揺らしながら名を呼んでいた時だった。  アーチボルドは胃の中が空になっても延々と吐き続け、2階にある自室に行くこともままならず、客間に紫乃が敷いてくれた布団に潜って全身に残る恐ろしいαの匂いをどうにか消し去りたくて、大好きな家の匂いがする上布団を強く抱きしめ続けた。  喜勝と紫乃の二人はお互いに口を開くことなく、我が子同然であるアーチボルドの全てを無神経に踏み躙った顔も知らないαに怒りを強く募らせていた。  鬼の形相に近い喜勝に至っては、βといえど己の実力を持ってすればいかなる強靭なαであったとしても簡単に半殺しにしかねないほどの気配を纏っており、可愛い我が子を傷付けた非道なαに対し、かつて抱いたことのないほどの強い殺意を孕ませていた──。  紫乃からアフターピルを受け取ったアーチボルドは震える両手でグラスを握りしめ、何かを口にするのを喉が拒絶するのか、一度ではうまく飲み込めずに三度目にしてようやく飲み込むことができた。  それでも喉を通る異物の感覚が受け付けないのか、顔を歪めて喉を押さえながらアーチボルドは激しく咳き込んだ。  紫乃は傷付いてすっかり疲れ切ったアーチボルドを可愛い幼な子にしてやるみたいにゆっくりと頭を撫で、震える肩を何度も何度も優しくさすってやる。  紫乃の体温や匂いにようやく張り詰めていた緊張から解放されたのか、アーチボルドは突然子どもにでも戻ったように激しく肩を揺らし、大きく嗚咽を上げて泣き始めた。  こんなにもひどく弱った姿のアーチボルドなど、かつて一度も二人は見たことがなかった。それほどにアーチボルドは強くあることを何よりも望んでいたし、それをずっと貫き続けていた──。  そんな彼の当たり前だった日常は今やすでに影ひとつなく、強さとは全く反対側でひどく傷付き、ひとり壊れそうになっていたのだ──。  ホストファミリーの二人だけが知るアーチボルドの過去はひどく悲惨で恐ろしいものだった──。  名家に生まれたアーチボルドが第二次性徴期を迎えた頃、その性がΩだと判明した途端、父親は簡単にアーチボルドを手放した。  実父の弟である叔父夫婦には子どもがおらず、養子として引き取られたアーチボルドはそこで叔父から数年に渡っておぞましい性的虐待を受け続けていたのだ。  叔父はαではあるものの、流石に血の繋がった甥のアーチボルドを番にするという横行にまでは至らなかったが、幼い頃から少女のように美しいΩのアーチボルドに異常なまでの性的興奮を覚え、大人としてあるまじき欲望の牙を向け続け、13歳の時にとうとうアーチボルドは叔父の子どもを身籠ってしまった。  アーチボルドの精神は限界をはるかに超えて粉々に破綻し、妊娠を知ったその日に自殺を図るも未遂に終わり、叔父の残忍な犯行はようやく世間の知ることとなり、司法で裁かれる運びとなった──。  アーチボルドは叔父の家から安全な児童養護施設に保護されることとなり、ようやく子どもとしての当然の権利と安全と、ごく日常的で平穏で安息な暮らしを送れることとなった。  自殺未遂と共にお腹の子は流産し、アーチボルドはそれ以来αの友達すら作らず、αというだけで嫌悪し、敵意を向け、自衛のためにネットで柔道や空手、剣道の真似事を始め、独学ながらも少しずつ体得していった。  高校生の時に交換留学で日本に行き、本物の空手を喜勝から学ぶとその魅力にますます取り憑かれ、大きくなったら嫌な思い出ばかりしかない母国から遠く離れ、自分の過去を知る者が誰もいない日本で暮らす決意をしていた。 ──なのに、あの時とまるで同じ。  αの自分勝手な欲望で凌辱され、人としての感情も尊厳も奪われ、自分の全てを支配して性的玩具みたいに扱われ──。  精神安定剤で眠ったはずのアーチボルドは叔父と被さって夢に現れる柊一に恐怖し、うなされ目を覚ますたびに足首を確認し、あるはずのない手形の跡の幻覚を見た。  その度にアーチボルドは嗚咽をあげて泣き出し、心配で眠ることができない紫乃が、隣に並べた布団から飛び出してきてはその震える体を優しく抱きとめてやった。  翌朝、柊一は突然喜勝の家に現れた──。  門の前で顔を合わせるや否や、喜勝は柊一の顔を思いきり殴りつけ、柊一の大きな身体は簡単に門前の道路に転がった。  喜勝は若い柊一より小柄で線も細い上、歳もかなり違う。なのに魔法でも使ったみたいに一瞬にして柊一を簡単にのした。  口の端から血を流して、道路に尻餅をついている柊一の胸元を喜勝は鷲掴みにして今度は庭に引き摺り倒した。  柊一にしてみれば、たかがβの年寄り──。  その喜勝が上から柊一を鋭い顔つきで見下ろし、隙を見せれば簡単に首の骨でも折られそうなほど全身からあからさまな殺意を感じた。 ──それは最早αの持つオーラと遜色なかった。 「ここへ何しに来た──。アーチーじゃないが、私だってここまでαという獰猛な生き物を憎んだ覚えがないよ」 「……あいつ、ちゃんと帰ってこれた……んですか?」 「──それが君の遺言か?」  喜勝は温度のない声を出し、柊一が視線を外そうものなら簡単に息の根を止めてしまいそうなほどの達眼で告げた。 「俺……あんな真似をするつもりなかったんです……。あいつがやたら俺に反抗的だから腹が立って……意地になったっていうか……」  その至極つまらない言い訳に喜勝はさらに激昂して声を荒げた。 「意地だと?! 君がしたことは単なる身勝手な犯罪だぞ! つまらないαのプライドを傷付けられて、アーチーの心を無視してあの子の全てをどこまでも踏み躙った! 同じ目に遭いたいのなら今すぐ私がその全身の骨を一本残らず折ってやる!!」  喜勝に顎を強く掴まれ、柊一は覚悟したのか抵抗せずに静かに目を瞑った。その時玄関の引き戸が開く音がして喜勝は音のする方を振り返った。 「し、師匠……や、やめて……」  紫乃がその肩を支えながら青白い顔をしたアーチボルドが引き戸にもたれかかり、掠れた声で必死に喜勝を止めた。 「俺なんか……のせいで、師匠……空手……出来なくなる……嫌だ……」  アーチボルドはボロボロと泣きながら喜勝に想いを伝えると、その場に力尽きて膝を付いた。 「アーチー!」  喜勝が柊一から簡単に手を離し、崩れ落ちたアーチボルドの傍へ寄ると、信頼する父親に縋るようにアーチボルドは喜勝を見上げ、その手をぎゅっと掴んだ。 「俺ね……日本で空手教えたい……から、師匠にはもっともっと……俺の師匠でいて欲しい」  儚いながらも優しい笑みを浮かべてアーチボルドは喜勝に告げた。  喜勝は自身の怒りを戒めるように大きく深呼吸してからその震える肩を抱き寄せ、アーチボルドが聞かせてくれた未来の夢に「そうか……」と、微笑み返し、何度も優しく背中をさすってやる。  大好きな腕の中でアーチボルドは安堵したのか、ようやく涙が落ち着いた目を瞑り、喜勝の背中に両の手を回した。  アーチボルドはゆっくり瞼を開き、柊一を怒りよりも強い悲しみを孕んだ青い瞳でじっと見つめた。 「頼むからもう、俺の前に現れないでくれ──」

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