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ep.11

「おめでとうございます。妊娠8週目です」  産婦人科医は人の気も知らないでにっこりと超音波写真をくれた。  全く悪阻(つわり)のなかったアーチボルドが妊娠に気付いたのはかなり後になってからだった。  やたらと毎日眠くて、風邪でもないのに気怠く、体温が高い日が続き、回り回ってようやくそこへ考えが辿り着いて恐る恐る病院を訪れたらすでにお腹の子は二頭身でヒトらしき姿をしていた。 「柊一の赤ちゃん……本当に出来ちゃった……」  医師に告げられた瞬間、確かにショックを受けた。なのになぜかその写真を眺めていると喜びの方がどんどん強くなってゆく。  まだ19歳であるとか、大学生であるとか、色んなものを無視して、馬鹿みたいに、本当に好きな男との子どもを宿したことがただ嬉しかった──。  柊一にその写真を見せてやると大声を上げて飛び跳ね、喜び回って最後にはボロボロと泣いていた。  そのあまりにも激しい情緒不安定さに突然アーチボルドは不安を覚えたのか、急な冷静さを取り戻す。 「本当に現実を理解してる? お前の子どもを俺が妊娠しちゃってるんだよ?」 「うん! すごい、すごいっ嬉しい! こんなの奇跡みたい。当然産んでくれるんだよねっ俺とアーチーの赤ちゃんだよ! すごいすごいっ、俺とアーチーの家族第一号だぁっ」 「おい、話を……」 「結婚しよアーチー! 愛してる!!」  浮かれた男は茫然として固まっているアーチボルドにキスすると愛しそうにその身体を優しく抱き締めた。  真剣に悩むことのが馬鹿らしくて、アーチボルドはあきらめるようにその胸の中で目を瞑り「いいよ」といとも簡単にあっさりと返事をしてしまった。  子ども同士でこんな事を決めて、周りの大人たちが反対するに決まっているのに、もうそんなものどうにでもなれと思うくらいにアーチボルドはとっくにこの男に心底惚れていた。  柊一の両親は未成年の妊娠と結婚報告に当然猛反対していたらしいが、柊一にはすでに二人兄姉がいたのでいざとなったら樹神家を出て今すぐ働くと言ってのけた。 「お前みたいな世間知らずの坊ちゃんは大学を最後まで出てからちゃんと就職してくれ。でないと俺と子どもが路頭に迷う」とアーチボルドに別の意味で猛反対され、渋々柊一は親に再び頭を下げるしかなくなった。  一緒に頭を下げに樹神家にアーチボルドが恐る恐る訪れると、家族全員がその美貌に圧倒され、柊一が悪い薬か何かを盛って犯罪まがいに無理矢理妊娠させたのではないかと物凄く真っ黒な妄想を募らせ、深々と柊一の両親に謝罪されてしまい、アーチボルドは必死にその誤解を解いた。  一方、喜勝はというと二人からの報告を聞くや否や青筋を立てて柊一を再び殴り飛ばした。  アーチボルドは一切それに口も手も挟む事なく部屋の隅に転がって行く柊一を静かに目だけで追った。 「ちょっとお! 少しは助けてっ」とデジャヴに嘆く柊一に悟りを開いた僧のような視線を送る。 「アーチーの赤ちゃんでしょう? 絶対絶対可愛いわよぉっ、やだ〜っ、どうしよう〜」と、紫乃は意外と呑気で陽気な反応だった。  それはアーチーが以前のように苦しんでおらず、最近はずっと顔色も良く、いつからか柔和で穏やかな表情をするようになっていたからだ。  今は本当に柊一のことを心から愛しているのだと紫乃はちゃんと理解していた。  アーチボルドはイギリスで施設を退所した後、実父から罪滅ぼし半ばの支援をずっと受けており、日本へ来てから金銭面で生活に困ることはなかったため、大学を休学しつつも最後まで通い、きちんと卒業して我が子を育てるつもりでいた。  あの時自分が殺してしまった命の分も何倍にして、この子に全身全霊で尽くそうと決めた──。  名前は何がいいかなぁと、まだ細胞からヒトになったくらいの我が子の写真を眺めながらアーチボルドの部屋で柊一は足をばたつかせていた。 「気が早い、お前が思うほど簡単には産まれないんだぞ」 「わかってるって、十月十日。会えるのは来年だよな」 ──そうじゃなくて、命は必ずしも絶対じゃないんだ。とアーチボルドは暗く悲しい過去を思い出していた。 「お前に……話してないことがたくさんあるんだ」  アーチボルドは青い瞳を揺らして俯いていた。 「──うん。けど、いいよ。アーチーが話したい時に話して。嫌なら死ぬまで話さなくていい」  その言葉に思わずアーチボルドは目を見開いて柊一を見た。  いつもみんなの前で明るい表情を絶やさない柊一にも、軽く人に触れられたくない暗くて辛い過去の一つや二つあったのかもしれないとアーチボルドはその奥深く優しい彼の笑顔から悟った。 「ありがとう、柊一……」  妊娠がわかったため、アーチボルドは空手部を退部せざるを得なくなった。もちろん喜勝からの稽古も暫く一切なしだ。  妊娠初期はとにかく身体に過度な負荷をかけてはいけないと医師に告げられ、アーチボルドは運動制限がかかった毎日にストレスを感じていた。 「空手がしたい……ランニングがしたい、滝のように汗をかきたい〜っ」  リビングの和室に転がりながらアーチボルドが唸っていると紫乃が見かねてそばへやって来た。 「あらそう、じゃあ好きになさい。お腹の子がやめてって泣いてもその子にはどうすることもできないものね、どんなに苦しくてもあなたに付き合うしかないもの、可哀想だけど仕方ないわね」  寝転がるアーチボルドの頭側にしゃがんでこちらを見ている紫乃を半べそをかいたアーチボルドが見上げる。 「──うう……」 「アーチー、欲張りはダメよ。大切なものはたくさんは持てないの。あなたが今一番大切にしないといけないものは何?」 「……赤、ちゃん……」 「なら我慢できる。私の知ってる可愛いアーチーは我慢強くて心優しい子よ。ゆっくりここでヨガでもなさい、意外と汗かくから」  そう言って紫乃はアーチボルドへパッケージに入ったDVDを渡した。アーチボルドはそれを素直に受け取りそのタイトルにギョッとする。 「ま、マタニティヨガ……マタニティ……」  あまりの言葉の強さにアーチボルドは目眩を覚えた。DVDケースがカタカタと音を立てて震えている。 「こんなものは自覚が何より大切よ。あなたはもうお母さんなんだからね」 「おかあさん……」  久しぶりにその言葉を口にした──  アーチボルドにとってその言葉の対象は常に実の母一人のことで最後にそう呼んだのも、もうずっとずっと昔のことだ──  アーチボルドはお腹に手を当てて「俺が……この子の……」と呟いた。  不思議だった──  いまいちピンとこなくて、でも口にすると胸が熱くなってそして少し、照れくさくもなった── 「柊一との赤ちゃん……俺しか守れない──俺が守らなきゃ……」  いそいそとDVDをデッキに入れるアーチボルドの後ろ姿を愛しそうに紫乃は眺めて夕飯の支度に取り掛かった。

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