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第16話

もう一つの約束は、リオンを捨てて 作家“カイリ”として生きることだった。 僕はあの人とは違う。 この数ヶ月間、カイリと生活を共にして来て カイリの絵の癖、こだわり、色使い、ものの見方… その全てを隣で見て来た僕ならば、 カイリを名乗ったところでそれがバレるような失態は犯さない。 絶対に。 カイリのスケッチブックには、この先世に出て売れたであろう下書きが それはもう数え切れないほど出て来た。 僕はカイリだ。 日の目を浴びられなかったこの子たちを 必ず世に送り出してみせる。 この世で僕と言う存在を知っているのはカイリただ1人だった。 そしてカイリも同じ。 少なくともこのヨーロッパという芸術国で彼を知っている人物はいない。 いくら通い慣れているといえども、絵具屋の店員は僕は愚か、カイリの顔すら覚えるつもりはなかっただろうから。 それならば、僕がカイリを名乗ったところで 誰もわからないだろう。 僕はただ、ひたすらに 愛した人の残した線に色をつけていった。 “カイリ”の作品は次々に賞を受賞。 海外からも熱狂的なコレクターが現れて “カイリ”の絵は瞬く間に世に広まった。 いつかこの絵たちが、カイリの帰りを待つ恋人や、 カイリを産み、育てて来た故郷の人たちのもとへ届けばと祈りを込めて、今日も僕は描き続ける。 でも、それができるのも今日が最期。 カイリの残したスケッチブックの絵は 一枚を残して全て完成させてしまった。 ついに、この日が来てしまった。 カイリが残した最期の絵を見て、僕は息が止まりそうになった。 だって だってこれは──。 「……僕の…、寝顔とか…っ、いつの間に…。」 目を閉じて、うっすらと微笑んでいるのは紛れもなく僕の顔をしていた。 鏡なんてまともに見たことはないけれど、 いつだってカイリと会話を交わす時、その瞳に映っていたのと同じ顔。 それはどこまでも幸せそうに カイリの隣で生きていられることを嬉しむ自分の姿だった。 もっと他に… 描くものくらいたくさんあったはずだろ…。 どうして僕なんか。 「………カイリ……っ、うぅ……。」 久しぶりに流す涙だった。 久しぶりに“カイリ”ではない僕自身に戻ってしまっていた。 カイリの残したものは、“カイリ”として 全て完成させなければいけない。 それが僕をアトリエに連れ込んだせいで人生に早すぎる終幕を迎えてしまった最愛の人への、せめてもの償いだった。 でも僕には、こんな絵は描けないよ。 僕は自分のことをこんなに綺麗だとは 昔も今も思えないから。 だから、ごめんね。カイリ。 この絵は完成させるけど 君の思い描くものとは違ってしまうと思う。 最後まで君の力になれない無能な僕で ごめんなさい。 僕は筆を握った。 使う色は 青、黄色、それから── 「………赤、切らしてたのか。」

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