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第68話 【2年前】(45)

 レンは、サキが南に戻るのだとばかり思っていた。だがサキは無言のまま、猛スピードで北へ向かっている。 「戻らないんですか?」 「ん? あぁいや、今日は戻らない。行かないといけない場所があるから、多分戻るのは明日だな……。落ち着いたら計画を話す」  埼玉県に入ると、サキは車のスピードを落とした。この辺はもう、マスクを常にしている必要はない。駅へ近づくと、戦前とあまり変わらない通勤・通学風景が広がっていた。変わったのは、日雇い労働者の群れや道端で寝ている者が増えたことだ。適当なコンビニの駐車場に車を止めると、サキは道を行く人たちをじっと観察した。 「お金あるんですか?」 「いや? ない。これから調達する」 「調達?」  しばらくすると、スーツ姿の若い女性が歩いてきた。人の良さそうな顔で、ゆっくりした歩調だった。 「よし。怜。具合が悪いふりしろ。スマホを借りる」 「はぁ」  サキはさっさと車を降りると、その女性に近づいていった。レンはやつれたような顔を装い、腹を押さえてよたよた車を降りる。無理に動いているという感じだ。 「すみません」  穏やかな声で、サキは女性に話しかけた。 「大変申し訳ありません、連れの具合が悪くて知り合いにちょっと連絡したいのですが、お電話をお借りしてもよろしいでしょうか?」  一瞬、女性は警戒の顔つきになった。疑いの目でサキを見上げる。レンは駐車場の真ん中で、腹の痛みに耐えきれなくなったように膝をついてうずくまった。サキはレンを見て心配そうな顔をし、女性に向き直った。 「知り合いに医者がおりまして、あまり遠くないんです。スマホが壊れてしまって……。電話を一本かけさせて頂ければ、本当にありがたいのですが」  怪しさ全開で見上げてくる顔に、にっこり笑う。汗臭いのはわかっているが、そこはどうしようもない。むしろ紳士的に近づかないようにすれば、信用してもらえる可能性が高くなる。  女性は鞄を守るように体の後ろに回した。それからスマホを取り出し、できるだけ離れた所から無言で手を伸ばす。 「ありがとうございます」  サキはスマホを受け取ると、番号を入れて電話をかけ始めた。具合の悪いふりをしながら、レンはそれを盗み見る。  この人、電話帳を覚えてるのか?  相手が出ると、サキはレンの方に近づいてきた。様子を見て説明するといった感じだ。  レンの脇に膝をつき、心配を装って顔を覗きこみながら、サキは女性に聞こえないように低い声で話した。 「俺だ。佐木だ。……このスマホの位置情報出るか? よし、15分後、青で。とりあえず現金と車、足のつかないスマホを頼む。また連絡する」  電話を切ると、サキは素早く通話履歴を削除し、立ち上がった。 「本当に助かりました。待っていれば、来てもらえそうです」  明るい声でお礼を言い、輝くような笑顔を見せると、女性はサキの顔にぽけっと見とれた。口の中でもごもごと、どういたしまして、とか何とか言っている。  薫さん、なんだかんだで自分の顔がいいって知ってるんだな……。内心呆れながら、レンはわざと呻いた。 「大丈夫か? 車に戻って助手席で休んだ方がいい。本当に、助かりました。お呼び止めしてしまって申し訳ありません」  サキはもう一度にっこり笑い、レンの方へ戻ってきた。背中をさすり、助け起こす。 「歩けるか? 無理はするなよ。ゆっくり……どうして出てきたんだ。心配だな……」  レンを気遣うあまり、もう女性のことは意識から抜けている。そんな演技をしながらサキはレンの体を支えて車へ向かう。  彼女は心配そうな顔をすると、軽く会釈をして自分の生活に戻っていった。 「振り向くなよ。そのまま車に戻れ」  サキが低い声で言う。  よたよたしながらレンが助手席に座ると、サキはドアを閉めて運転席に回った。再び無言で道路を見張る。  コンビニの店員や客に不審に思われないよう、レンは助手席を倒し、横になった。  暇を持て余し、レンは車の天井を見る。脱出の時、タカトオは一切姿を現さなかった。奴は6階で寝ているところを襲撃されたわけで、1階に来るには時間がかかる。それはわかっているけれど、自分の目で奴の状態を確認できなかったせいで、不安はそのまま胃の中に留まっていた。  ステアリングに両腕と顎を載せて外を見ているサキが、こちらを見ないまま言う。 「眠かったら寝ていていいぞ。朝早かったからな。今のうちに体力を温存しておいた方がいいかもしれない。これからけっこう動くから」 「どこに行くんです?」 「群馬まで遠出だ。前橋で用事を済ませて、おそらくそこで一泊。帰るのは明日だ」 「前橋?」 「あぁ、そこでちょっと……早いな。もう来たか」  思わず、レンはシートから起き上がった。どこかの店の物らしき青いショッピングバッグをぶら下げた、ホームレス風の男が歩道をふらふらしている。  サキは車を降り、男に近づいていった。一言、二言話をすると、サキはそれを受け取り、男はのんびりと来た道を戻っていった。  運転席に戻ると、サキはバッグに頭を突っ込み、スマホと車の鍵、それにメモを取り出した。鍵をポケットに突っ込みながらメモを開く。近くの駐車場の地図が描かれている。ダッシュボードにメモを一旦置くと、サキは現金を出してざっと数え、一万円札を一枚、ひょいとレンに渡した。 「よし。これで、コンビニで何か買える。とりあえず……オレンジ系の炭酸とツナマヨのおにぎり頼む。俺は車の場所を検索する」 「え? 薫さん炭酸とか飲むんだ」 「俺を何だと思ってるんだ。お前も好きな物買ってこい。食べたら出るぞ」 「は~い」  たったそれだけで、レンはなんだか楽しくなった。チームリーダーではない、敵と対峙する厳しい男でもない、こういう日常のサキを見ると、ひどくそわそわする。レンは具合が悪いふりをしていたのを忘れて、車を降りた。 「あ、しまったお前具合が悪いんだった。トイレ寄って青い顔で買い物するんだぞ」  薫さんもちょっと油断してる。  レンは笑いをこらえてポケットにお札を突っ込むと、適当に腹を押さえてコンビニへ入っていった。

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