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第73話 【2年前】(50)

 ちゃぷんという音に、サキはハッと目を覚ました。しまった、いつ寝たんだ俺は?  バスタブの中で、自分はレンをしっかり抱え込んでいる。お湯の中で拘束じみたことをやってしまった。目の前のうなじを見る。レンは腕の中でくうくう寝ていた。  知らず、笑みがこぼれる。  怒って叩き起こしたりしないでくれたんだな。  首筋がやっぱり綺麗で、サキはそこに頬を当てた。抱え込んだ肌全体が温かい。いつまでもこうしていたいが、ぬるくなったお湯の中では、そろそろまずい。  レンが身じろぎをし、顔を上げる。ほわぁと可愛いアクビをすると、レンは首を傾けてこちらを向いた。 「薫さん、寝られた?」 「すまん、変な格好でいきなり寝て。首大丈夫か?」 「なんともない。ていうか、そろそろ上がらない?」 「だな」  引っ張って栓を抜くと、サキは立ち上がり、レンが立ち上がるのを手伝った。 「……そういえば、薫さん頭洗ってなくない?」 「適当に洗う」 「ねぇオレ洗ってもいい?」 「は?」  何を言っているのかわからず、サキはレンの顔を見た。 「えっ、薫さんオレの頭楽しそうに洗ってたのに、自分が洗ってもらうのは嫌なの?」 「……うん」 「なんで?!」  なんでと言われても。自分の手の中にレンがいて、うっとりした顔をするのは堪らなく幸せを感じるが、してもらうのは別に魅力的だとは思わなかった。 「いや……楽しくない……」  一瞬呆れた顔をしたレンは、気を取り直したように言った。 「じゃあヒゲ剃りは?」  それは……。 「頭を洗ってもらうより嫌だ」 「えぇ??」  実際、自分が何もせず座り込み、何かをしてもらうというのは想像がつかない。レンはしばらく考えてから言った。 「わかった。後でオレの足の爪を切ってもいいから、頭洗わせて」 「……足の爪は切りたい」 「うん」 「……」  目の前で、レンが噴き出しそうな顔をした。 「薫さんさぁ、なんでそんな途方に暮れた顔するわけ? お返しにオレだって何かしたいのに」 「お返しなんかいらない」  しばらくサキの顔を見ていたレンは、ついに噴き出した。サキの頬に手を伸ばして、軽くキスしてくれる。その仕草がサキにはとても好ましく見えた。 「わかった。薫さんは、オレの身だしなみを整えるのが好きなだけってこと?」 「うん」 「オレにしてもらうのは嫌?」 「嫌っていうか……楽しくない」  くすくす笑うと、レンはサキの額に自分の額をくっつけた。 「しょうがないなぁ。薫さんは」  優しい声。今まで誰にも受け入れられなかったものを肯定された気がして、サキはレンをぎゅうぎゅう抱き締めた。 「ちょ、薫さん力が強いって」 「あ~、こんなの絶対手放せないだろ」 「わかったわかったから薫さん、……なんでこんな状況で告白されてんの?」 「なぁ怜、お前のナカ洗っていいか?」 「はぁあ?!」  顔を離し、真剣な目でお願いする。レンの顔がみるみるうちに真っ赤になった。 「ダメか」 「ダメに決まってる! そんな……恥ずかしいこと」  横を向いて目を伏せた顔は、本人の意に反してひどく蠱惑的で、サキは思わず首筋に唇を当て、舌先で舐めた。 「んっ、ちょっと、なし崩しにしたって、ダメなものは、あふっ、ダメって」  軽く噛むと、レンは鼻にかかった声をあげた。こうやって誘惑すれば、洗わせてくれるだろうか。楽しくなって、サキはそのまま音を立てて首から鎖骨までを吸う。 「ん、や、かおるさ、んっ」 「ほら、な?」 「な? じゃない。ダメなものはダメ」 「……」  むすっとした顔にも、レンは動じなかった。 「まずオレがそっちの洗面台でヒゲを剃るから、薫さんは頭を洗う。で、その後カーテン閉めてオレがこっちで色々洗うから、薫さんはヒゲを剃る」 「……なんでそんな、てきぱき段取りするんだ」 「だって恥ずかしいでしょ?」 「恥ずかしくないだろ、もっと恥ずかしいことするんだから」 「それとこれとは別。オレは! 嫌なの!」  しぶしぶサキは手を離した。できれば奥まで洗って、恥ずかしさに悶絶するレンが見たいんだが。レンはさっさとバスタブから出ると、洗面台の鏡を覗き込んでいる。  温かい体が腕の中からいなくなって、サキは仕方なくシャンプーを手に取った。さっさと洗わないと、これ以上しつこくして嫌われるのも困る。  レンはシェービング剤を顔に塗りながら、サキをちらりと見た。 「薫さんもそんなふうに拗ねるんだ……」 「別に拗ねてない」  含み笑いをしながら、レンはカミソリでヒゲ剃りを始める。産毛みたいに柔らかくて薄いのに、本人は気になるらしい。 「……ねぇ薫さん」 「なんだ」  下を向き目をつぶって頭を洗いながら答える。 「まぁ、心の準備ができたら、次は頑張ってみるけど」 「ほんとか?!」  思わず顔を上げる。真っ赤な顔がこっちを向いて、もそもそ言った。 「心の準備ができたらね。だからその、いきなりは……」 「わかった」  サキは浮かれた心で頭を洗った。次のことを考えるのはすごくいい。2人でできることが──たとえ恥ずかしくて他人に言えないことでも──増やしていけるのは楽しいことだ。  レンの心の中の景色を、明るいものに塗り替えていけたら。  次、それはきっとすぐに来る。2人は当たり前のようにそう考えながら、バスルームでのひと時を一緒に過ごした。

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