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第74話 【2年前】(51)
バスルームを出ると、サキは当たり前のようにドライヤーでレンの頭を乾かした。スイッチを切ると、昼下がりの部屋は静まり返る。街の喧噪が微かに聞こえてくるだけの空間は、眠くなるような穏やかな気配に満ちていた。
レンの後ろから、サキは2人が脱ぎ捨てた服をまめに拾ってビニール袋に入れている。
「……コインランドリーってどこだ?」
どうやら、盛り上がってセックスするよりも洗濯の方が気になるらしい。レンはデスクで場所を確認した。
「えぇと……5階」
「……行ってきていいか?」
「いってらっしゃ~い」
レンは、サキの変な行動に段々慣れてきていた。人質生活ではほぼ24時間一緒だったし、元々図書館にいた時から肌は合っている。
サキが汚れた服を持っていそいそ部屋を出ていくと、レンは傷パッドを交換し、それから冷蔵庫に頭を突っ込んだ。麦茶を一気飲みし、さっきスーパーで大量に調達した食料の中からプリンを引っ張り出す。
プラスチックのスプーンでもこもこ食べていると、サキが戻ってきた。レンが食べている光景を見て、目を丸くする。
「何食べてるんだ?」
「プリン」
「うんまぁ、見ればわかるが」
何でそんな変な顔するんだろうと思いながら、レンはサキを見上げた。もう何年も食べられなかったプリンは懐かしくて、食べられるのが嬉しくてたまらない。
「……プリン好きなのか?」
「うん。薫さんも食べる?」
「いや……お前がひとりで食べてくれ」
「そう」
変なの。サキは隣の椅子に座って麦茶を飲みながら、口を動かすレンを眺めている。レンは3連プリンを瞬く間に食べ終わり、生クリームの入ったプリンに手を伸ばした。
「お前、一気にそんなに食べて大丈夫か?」
「なんかスーパーにいっぱいあったから」
「もしかして全種類買ってきたのか?」
「まさか。3種類だけ」
「……そうか」
それだけ言うと、サキは頬杖をついて、レンがプリンを食べるのを見守った。
「薫さんは?」
「俺は……プリンはいい……見てるだけで腹が一杯になった」
ふ~ん。
そっと手が伸び、レンの頬を親指が掠める。口の横についたプリンを拭い、サキは甘い目で微笑んだ。
「こうやって2人でいないと、わからないところって多いんだな」
「そうだね」
プラスチックのスプーンを咥えたまま、レンは答える。薫さんが身だしなみ大好きだなんて知らなかったし。
サキはゆったりと立ち上がり、ビニール袋のひとつを持ってベッドへ行くと、それをサイドテーブルに置いてごろりと横たわった。ガサガサと何かを出すと、静かになる。
真剣にプリンの底を漁っていたレンは、顔を上げた。ひっくり返ったサキは本をぱらぱらめくっている。
「本?」
「ん~、スーパーの横に本屋がくっついてただろ? なんか……本屋見ると買わないといけない気分になるんだよな」
買い物の後どこかに行っていたのは、本屋だったのか。
「何ていう本?」
「カンピシ」
「??」
よくわからないけれど、多分難しいんだろうとレンは思った。サキの足の裏がこちらを向いてフラフラしている。背が高いからベッドからはみ出てる。レンにはそれが無性に可愛いと思えた。
誰かの世話をするのは好きだけど、世話されるのは楽しくない薫さん。あいつの所にいた時も、薫さんは適当な料理を作って気持ちを鎮めてくれたし、髪を撫でて胸に抱き込み、落ち着かせてくれた。図書館でも、料理の本をバカにしなかったし、レンが椅子から落っこちないようにして一緒に寝ていた。
プリンを食べてる時は邪魔しないでいてくれる。興味ないだけかもしれないけど、でも少なくとも文句は言わないし、バカにしたりもしない。
会話がなくても、この空間はものすごく居心地がいい。無理に考え事をしたり、気を遣ったりしなくても、別にかまわない感じだった。プリンが甘いとか、麦茶を飲むとすっきりするとか、そういう感覚はずっとなかった。食べないと死んじゃう、という考えしかなかった。
プリン、おいしい。
不意に泣きたい気分になった。
あんな父親、もう二度と会いたくない。
薫さんと、ずっと一緒にいたい。いさせてくれたら、の話だけど。
空になったプリンの容器を流しに持っていって、レンは洗おうかどうしようか迷った。向こうから声がする。
「後で洗うから、置いておいてくれ」
なんで薫さんはオレのこと、こんなに大事にしてくれるんだろ。自分なんてちっぽけなのに。薫さんの敵の子供なのに。
離れたくない。この人を大事にしないと、きっと死ぬほど後悔する。薫さんの役に立ちたいし、頑張って、隣じゃなくてもせめて後ろからついて行くぐらいにはなりたい。
タカトオの言っていたことを断片的に思い出す。
──奴に愛されるなどとは──
──甘やかし陥落させて──
──私を倒すまで、奴はお前を大切にするだろう──
そんなわけない。薫さんはオレの爪を切るのが好きで、プリンを食べててもバカにしないで優しく見てくれた。
多分、部屋に入ってすぐにがっつかなかったのは、セックスより先に、オレのことを気遣ったからで。本を読んでいるのは、リラックスしたかったから。多分。大丈夫。
プリン食べたの、変だったかな。
子供っぽかった?
どうしよう……なんでプリン食べたかったんだろう。
「怜?」
名前を呼ばれて、レンは我に返った。いつの間にか流しの縁をぎゅっと握っていた。右手の傷が引き攣るように痛い。
流しを離れて、右手を動かしてみる。大丈夫、なんてことない。
大丈夫。オレは薫さんのそばにいてもいい。薫さんが許してくれる限り。
多分、大丈夫。
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