74 / 181

第74話 【2年前】(51)

 バスルームを出ると、サキは当たり前のようにドライヤーでレンの頭を乾かした。スイッチを切ると、昼下がりの部屋は静まり返る。街の喧噪が微かに聞こえてくるだけの空間は、眠くなるような穏やかな気配に満ちていた。  レンの後ろから、サキは2人が脱ぎ捨てた服をまめに拾ってビニール袋に入れている。 「……コインランドリーってどこだ?」  どうやら、盛り上がってセックスするよりも洗濯の方が気になるらしい。レンはデスクで場所を確認した。 「えぇと……5階」 「……行ってきていいか?」 「いってらっしゃ~い」  レンは、サキの変な行動に段々慣れてきていた。人質生活ではほぼ24時間一緒だったし、元々図書館にいた時から肌は合っている。  サキが汚れた服を持っていそいそ部屋を出ていくと、レンは傷パッドを交換し、それから冷蔵庫に頭を突っ込んだ。麦茶を一気飲みし、さっきスーパーで大量に調達した食料の中からプリンを引っ張り出す。  プラスチックのスプーンでもこもこ食べていると、サキが戻ってきた。レンが食べている光景を見て、目を丸くする。 「何食べてるんだ?」 「プリン」 「うんまぁ、見ればわかるが」  何でそんな変な顔するんだろうと思いながら、レンはサキを見上げた。もう何年も食べられなかったプリンは懐かしくて、食べられるのが嬉しくてたまらない。 「……プリン好きなのか?」 「うん。薫さんも食べる?」 「いや……お前がひとりで食べてくれ」 「そう」  変なの。サキは隣の椅子に座って麦茶を飲みながら、口を動かすレンを眺めている。レンは3連プリンを瞬く間に食べ終わり、生クリームの入ったプリンに手を伸ばした。 「お前、一気にそんなに食べて大丈夫か?」 「なんかスーパーにいっぱいあったから」 「もしかして全種類買ってきたのか?」 「まさか。3種類だけ」 「……そうか」  それだけ言うと、サキは頬杖をついて、レンがプリンを食べるのを見守った。 「薫さんは?」 「俺は……プリンはいい……見てるだけで腹が一杯になった」  ふ~ん。  そっと手が伸び、レンの頬を親指が掠める。口の横についたプリンを拭い、サキは甘い目で微笑んだ。 「こうやって2人でいないと、わからないところって多いんだな」 「そうだね」  プラスチックのスプーンを咥えたまま、レンは答える。薫さんが身だしなみ大好きだなんて知らなかったし。  サキはゆったりと立ち上がり、ビニール袋のひとつを持ってベッドへ行くと、それをサイドテーブルに置いてごろりと横たわった。ガサガサと何かを出すと、静かになる。  真剣にプリンの底を漁っていたレンは、顔を上げた。ひっくり返ったサキは本をぱらぱらめくっている。 「本?」 「ん~、スーパーの横に本屋がくっついてただろ? なんか……本屋見ると買わないといけない気分になるんだよな」  買い物の後どこかに行っていたのは、本屋だったのか。 「何ていう本?」 「カンピシ」 「??」  よくわからないけれど、多分難しいんだろうとレンは思った。サキの足の裏がこちらを向いてフラフラしている。背が高いからベッドからはみ出てる。レンにはそれが無性に可愛いと思えた。  誰かの世話をするのは好きだけど、世話されるのは楽しくない薫さん。あいつの所にいた時も、薫さんは適当な料理を作って気持ちを鎮めてくれたし、髪を撫でて胸に抱き込み、落ち着かせてくれた。図書館でも、料理の本をバカにしなかったし、レンが椅子から落っこちないようにして一緒に寝ていた。  プリンを食べてる時は邪魔しないでいてくれる。興味ないだけかもしれないけど、でも少なくとも文句は言わないし、バカにしたりもしない。  会話がなくても、この空間はものすごく居心地がいい。無理に考え事をしたり、気を遣ったりしなくても、別にかまわない感じだった。プリンが甘いとか、麦茶を飲むとすっきりするとか、そういう感覚はずっとなかった。食べないと死んじゃう、という考えしかなかった。  プリン、おいしい。  不意に泣きたい気分になった。  あんな父親、もう二度と会いたくない。  薫さんと、ずっと一緒にいたい。いさせてくれたら、の話だけど。  空になったプリンの容器を流しに持っていって、レンは洗おうかどうしようか迷った。向こうから声がする。 「後で洗うから、置いておいてくれ」  なんで薫さんはオレのこと、こんなに大事にしてくれるんだろ。自分なんてちっぽけなのに。薫さんの敵の子供なのに。  離れたくない。この人を大事にしないと、きっと死ぬほど後悔する。薫さんの役に立ちたいし、頑張って、隣じゃなくてもせめて後ろからついて行くぐらいにはなりたい。  タカトオの言っていたことを断片的に思い出す。 ──奴に愛されるなどとは── ──甘やかし陥落させて── ──私を倒すまで、奴はお前を大切にするだろう──  そんなわけない。薫さんはオレの爪を切るのが好きで、プリンを食べててもバカにしないで優しく見てくれた。  多分、部屋に入ってすぐにがっつかなかったのは、セックスより先に、オレのことを気遣ったからで。本を読んでいるのは、リラックスしたかったから。多分。大丈夫。  プリン食べたの、変だったかな。  子供っぽかった?  どうしよう……なんでプリン食べたかったんだろう。 「怜?」  名前を呼ばれて、レンは我に返った。いつの間にか流しの縁をぎゅっと握っていた。右手の傷が引き攣るように痛い。  流しを離れて、右手を動かしてみる。大丈夫、なんてことない。  大丈夫。オレは薫さんのそばにいてもいい。薫さんが許してくれる限り。  多分、大丈夫。

ともだちにシェアしよう!