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第76話 【2年前】(53)
一緒に二度精を出すと、サキは腰が砕けてふらふらになったレンをバスルームへ運び、丁寧に全身を洗った。今度こそ、体に力の入らないレンはされるがままで、サキは体の奥から足指の間まで思う存分洗い立てた。
バスタオルに包んでベッドへ運び、座らせてドライヤーをかけると服を着せる。ぽけっとしたレンの世話を焼くのは楽しくてたまらなかった。
それが終わると腰に巻いたバスタオルを外し、自分も服を着る。眠そうな顔でぼんやりしているレンに、サキは声をかけた。
「ちょっと人と会う約束があって出かけなきゃならないんだが、お前はどうする? 疲れたなら寝ていていいし、話を聞きたかったら一緒に行こう」
レンは小首をかしげて考えると、サキの顔を見上げた。
「オレが一緒に行ったら、薫さんは迷惑?」
「いや、むしろ一緒に来てくれれば嬉しいんだが、体が辛いなら……」
レンからタカトオに情報が流れる可能性はゼロではない。それでも、サキはレンを自分の懐に入れる決断をしていた。レンを疑うより、そのトラウマにできる限り寄り添い、父親に対抗できる力をもつよう育てた方が、結果的にはいいだろうと思ったのだ。
待っていると、レンは考え込んだまま答えた。
「オレも行く」
「ここから30分ぐらい歩くけどいいか?」
「うん」
何かを決めることができるというのは、いい兆候だ。タカトオのような男に虐げられても、レンは自分で物事を判断し、おどおどした態度は取らない。すらりと気高く伸びた背筋は、見る者すべてを魅了する確かなカリスマ性を秘めている。サキを見る、この真っすぐな目。まだレンの真の姿は何かの折に垣間見えるだけだが、サキはレンが力を自在に使うところが見たかった。
こうした善良な本質を育てたのは、おそらく母親と祖母だ。人格の基礎ができてからタカトオが彼の人生に乱入したのは、ある意味幸いだったとはいえる。
「約束の時間は7時だ。ちょっと腹ごしらえしてから出かけよう」
「わかった」
レンはうなずくと、ベッドから降り、足を踏み出した。途端にカクンと膝が折れる。サキは咄嗟に抱き抱えて支えてやった。
「ほんとに大丈夫か?」
「ん……」
ほんのり染まった頬で目を伏せ、レンは恥ずかしそうな顔をする。
「今何時?」
「まだ5時半だ。焦らなくていい。それとも……」
耳元でからかう。
「もっと足腰立たなくなるまでシた方がよかったか?」
かぁっと赤くなる耳を軽く食んでやると、レンはサキを押しのけ、壁を伝って一生懸命キッチンへ向かっていく。
「あ、歩けるから、大丈夫」
もそもそ言う背中が可愛い。あぁダメだ。そういうことを言うと、きっとレンはむっとする。
「多分酒が入る席だから、空きっ腹はまずいと思う」
何食わぬ顔を装い、サキもキッチンへ向かう。冷蔵庫をのぞきこんでいるレンは、中にある物を真剣に見ている。しばらく悩んで、プリンを引っ張り出す。嬉しそうな横顔。スーパーにあるプリンをありったけ買い占めてやりたくなる。
「プリン以外にも、何か食べておくといいんじゃないか?」
はっと気づいた顔でレンが見上げた。こいつ、プリン見たら他のことを全部忘れたな?
フロントから借りておいた道具の中からヤカンを出して、サキはお湯を沸かし始めた。まぁインスタントラーメンでも食べておくさ。
「プリン以外……」
レンが呟きながらチーズを引っ張り出す。
「俺が作ってやる。なんでもいいか?」
「あ、うん」
「お前はプリンを食べてていい」
優しくチーズを取り上げ、頬に軽くキスしてやると、レンは顔を輝かせた。スプーンを持っていそいそとテーブルへ向かうのを、サキはのんびり眺める。
お湯が沸くと、サキはインスタントラーメンを2袋放り込み、麺がほぐれるのを待ってチーズを入れる。それを使い捨ての丼によそい、卵を一個ずつ割り入れる。
テーブルまで持っていってやると、レンはスプーンを咥えたまま、ラーメンを覗き込んだ。
「チーズ入れたの?」
「あぁ。多分うまい」
「へぇ~」
なんの媚も考えていないからこそ出てくる表情や仕草がいい。割り箸で卵黄を割りながら、サキはそんなことばかり考える。
ラーメンはおいしかった。今この瞬間、どんなに適当な食事でも、きっとおいしいと感じられる。
レンはプリンを1個食べ終えると、ラーメンを食べ始めた。
「ほんとだ。おいしい。オレ生卵ほとんど食べたことないけど、あったかいラーメンにこうやって入れたらおいしいんだね」
「そうだな」
食べ始めると、レンは無言で一生懸命食べる。
タカトオのところは相当なストレスだったのだろう。2人でこのホテルに入ってから、レンが少しあどけなくなっていることにサキは気づいていた。
今日、明日でタカトオの影響が抜けるわけはない。それはわかっている。長期戦になるだろう。肝心なのは途中でタカトオに引き戻されないことだ。ただそれでも、前橋へ来た目的に取り掛かる前に、聞いておかなければならないことがある。
「出かける前に聞いておきたいんだが」
スープまで飲み終えたレンに、サキは何気ない感じを装って聞いた。
「もし俺がタカトオを排除するのに成功した場合、お前は……東京北を仕切りたいと思うか?」
紙の丼を持ったまま、レンはきょとんとした顔をした。それからびっくりした顔になる。
「え? それって、あいつが殺されたらオレは薫さんを恨んで敵を取るだろうってこと?」
「いや、俺はあまり勢力を拡大したくないんだ。だから父親の後釜として、お前が北の治安を仕切りたいという野心はあるだろうかと」
「考えてもみなかったなぁ」
レンはそれだけを言うと、丼の底を覗き込んだ。
「なんか、どうでもいいって感じ。オレが北に行ったら、薫さんと会えないの?」
「そういうことじゃない。奴がいなくなれば、東京はひとつの地域としてまとめてしまえる。最終的には、地方自治体や国家機関を復活させ、戦前と同じ統治機構に任せてしまいたいんだ。治安を取り戻して公的な機関に引き継ぎをしたら、俺も解放される。その作業の北半分をやりたいという考えはあるかどうか、と」
不意にレンの目に影が差した。
「……決着がついたら、サキさんは『政府』を仕切り、国家を手に入れるってこと?」
声が硬く強張り、冷たささえ漂っている。変な反応だ。『国家を手に入れる』?
「いや、それは関係ない。『政府』に昔馴染みがいて、仕事を頼まれてはいるんだが、そんな大したことは考えていないし、できもしない」
「でも決着がついたら、サキさんは東京からいなくなる?」
「そういうんじゃなくて……」
レンは自分を『サキさん』と呼んだ。右手の拳を握る左手。妙に飛躍した会話。これは……まずいかもしれない。タカトオに何か吹き込まれている。しばらく考え、サキは慎重に言葉を選んで話した。
「決着は正直、どうでもいい。決着がついてもつかなくても、俺がこの先、どこでどんな仕事をしようとも、お前を手放したくない。だから、お前はどうかと聞いてみただけだ。俺が奴を狩ることができたなら、お前は俺から去ってしまうんだろうか。それが聞きたかった」
レンの目が見開かれた。うっすらと涙が浮かぶ。
「オ、オレが用済みになったら、いらなくなるっていうことじゃない?」
「俺はお前にずっと一緒にいて欲しいし、そもそも利用しているわけじゃない。……奴に何か言われたか?」
「……」
唇をぎゅっと噛み、レンは下を向いた。サキはそっと肩を抱き寄せる。
「お前は、ただお前のままでいいんだ。たったそれだけで、お前は俺にとって大切な存在だ。用済みになることなんかない。実は、北半分の作業が面倒くさくて、他の人に頼もうかと思ってここに来たんだ。だから、お前に確認しておきたかった」
ぱっと顔をあげ、レンは目を丸くして聞いた。
「面倒くさい?」
「そう。俺は、もし東京北の組織を解体させるのに成功したら、その後の事務作業が面倒だっていう考えしかない。それをお前に押し付けるのもなぁと思ったんで、ここに来た。交渉事なんで、ハッタリやウソは混ざるかもしれないが、俺の本心はそこだ。お前に積極的に北の作業をされると、俺が困る。ずっとお前にこうやってくっついて、お前が嬉しそうにプリンを食べるのを見るっていう一番大事なことが待ってるのに」
「プリン」
それだけ答えて、レンは居心地が悪そうにサキの腕の中でもぞもぞ動いた。指先で顎を支えて仰向かせ、目を覗き込んで言う。
「お前は嫌か? 俺と一緒にいるのは」
「嫌じゃない!」
「そうか。それは嬉しい」
瞼に口づけ、頬をすり合わせて抱き締めると、レンの体から力が抜けた。
「出かけよう。知らない街をお前と歩くのは楽しみなんだ。怜」
言葉を出さないまま、レンがこくんと頷いた。少しずつ説得して信頼してもらう以外にはないだろう。まぁ、時間はたくさんある。
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