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第77話 【2年前】(54)

 指定されていたのは、繁華街から少し外れた小料理屋だった。昼間、電話で渡りをつけた時に場所は調べてある。  暗い裏通りに温かみのある光を投げかけている店を見つけ、サキはカラカラと引き戸を開けた。カウンターの向こうから、中年の女将が笑顔を投げる。いらっしゃいませ、という明るい声は、今の東京でほとんど聞くことのできないものだった。 「すみません。合田さんにお会いする約束で来たのですが」 「あぁ、ご案内いたしますね」  女将の娘だろうか、若い女性が厨房からこちらへ出てきた。彼女もまた快活な挨拶を述べると、奥にひとつだけある個室へ案内してくれる。  個室の中では、50代ぐらいとおぼしき男がひとり、焼き鳥を肴に日本酒をやっていた。ポロシャツにスラックスという服装は、知らない者が見ればごく普通に見える。ただの会社員が休みの日に飲みに来ているという風情。  だが彼は、群馬全体の秩序を仕切っている男だった。地方自治体と『政府』、戦前からのヤクザ組織と戦後台頭した武装組織、すべての勢力のバランスを操って調整し、大規模な抗争が起こる前に事を収める。元は麻薬取締官だったという話だが、現在、群馬の治安が平和に保たれているのはこの男の手腕によるところが大きい。  2人を見ると、男は顔をほころばせた。 「よく来たな。まぁ座ってくれ」 「恐れ入ります」  サキは男の向かいに座り、店の女性が差し出すおしぼりを受け取った。レンも見様見真似でぺこりと頭を下げてサキの隣に座る。 「この度は、突然ご連絡を差し上げることになってしまって申し訳ありません。お会いしてくださって感謝しております」 「いや、僕も一度会っておきたかったのでね。こちらこそ光栄だ。佐木君、か。噂はかねがね聞いている」 「いえ、合田さんのようにはうまくいっておりませんよ。現に今回も高遠から無様に逃げてきた次第で。こちらにいるのは私のグループのメンバーなのですが、一緒に高遠に囚われておりました。同席してもよろしいでしょうか」 「構わんよ。名前は?」 「あ、あの、怜です。よろしくお願いします」  合田は目を細め、緊張しているレンを見た。 「若いのに大変だねぇ。派手な脱出劇についてはこちらにも情報が来ている。ご苦労さま」 「ありがとうございます」  紹介を済ませると、合田は店の女性を呼んだ。 「君たち、酒は?」 「私は飲めますが、今朝からかなり動いておりますので、あまり多くは……怜、お前は?」 「あの、オレ、えっと私も、ちょっとだけなら多分、大丈夫だと思います」 「そうか。この土地の酒でいいかな?」 「はい」  合田は酒の他にいくつか肴を注文し、前橋までの移動、ホテルの場所、そうした当たり障りのない雑談を交わした。お通しを知らないレンは、サキの隣で小さな器に入った夏野菜を見つめてじっとしている。  酒と焼き鳥が来ると、合田とサキは一献注ぎあった。まごつくレンにはサキが注いでやる。合田も礼儀作法にはこだわらない方らしく、猪口をひょいと上げて乾杯の仕草をすると、ゆったり楽しむように酒を飲んだ。  しばらく適当な話が続いた後、話は自然とタカトオのことになった。 「どうかね? 佐木君は今回直接顔を合わせたんだろう?」 「野心や狡猾さは相変わらずでした。元々、あの男とは少し因縁がありまして、個人的にかなり昔から知ってはいるのですが……。久しぶりに会った奴は他人を虐げ支配することに慣れが出てきています。今は私に対してその支配欲が向いていますが、ここで私が折れることがあれば、合田さんにも影響が及ぶものと考えています」 「やはりな……最初にあの男が埼玉に現われたときよりも、最近は支配の拡大を急いているように見える。君はどう思う? 奴は本気で独裁制を狙っていると思うか?」 「ええ。間違いなくそうでしょう。現時点において、すでに『政府』にもかなり食い込んでいる。どこかで誰かが止めなければ、奴は『政府』の実権を握り、実質的な専制君主制を制度として作りかねません。さらに言えば、ああいう組織は頭だけを切り落としても次の者が出てきてしまう。現に派閥争いは激化しているという報告が来ています。徹底して組織そのものを解体させる必要があり、そう考えると……奴の首をはねるだけでは足りない。」  合田が徳利を差し出し、サキはそれを受けた。レンにも徳利を差し出し、合田は柔らかく尋ねる。 「どうかね? 話は退屈だろう?」  だが実のところ、レンに飽きた様子はなかった。箸を持ったまま、レンは2人の会話を驚くほど集中して聞いていたのだ。徳利の注ぎ口をしばらく見つめたレンは、自分の猪口にやっと気づいたように、焦ってそれを差し出した。 「焼き鳥が冷める。2人とも食べてくれ。県内の地鶏が好きでね」 「あの、いただきます」  礼儀正しく言うと、レンはしばらく考え、箸を置いて串に手を伸ばした。一口食べ、目を輝かせて合田を見る。 「おいしい……」 「そうだろう? 東京にはまだ流通していないだろうから、ここで食べていくといい」 「ありがとうございます」  レンは少しほっとした顔になった。サキはレンに微笑みかけると、会話を続けた。 「今回こちらに伺ったのも、今後の関東全体について一度腹を割ってお話しさせて頂きたいと思ったからです」 「まぁそうだろうな。やはり若いと、やることが速くていいね」 「いえ拙速にすぎるのではないかと、ずっと考えてはおります」  サキも焼き鳥を口に運び、日本酒を飲む。 「どうだろう。僕は拙速だとは思わない。拙速なのは高遠だと思うね。強引に中央線を爆破して君のところに侵入したわけだろう?」 「えぇ。守りに徹するつもりだったのですが。実は、そのことでお願いがありまして」 「何だね?」  合田の目が微かに光った。情報網の精密さとバランス感覚、そして先読みの胆力は関東随一の男だ。おそらく自分の考えはお見通しだろうとサキは思った。 「明日、私は調布に戻るのですが……ただ戻るのでは面白くない」 「ふむ」 「私は統括ペンダントを南に置いてきている。高遠の部下は必死でそれを手に入れようとしていて、私と共同統括をしている江藤が防衛している状態です。部下たちはおそらく、ペンダントを今夜中に見つけることはできない。私の配下からの報告によれば、現時点で高遠は私が南に戻れないように中央線を警戒しつつ、部下に侵攻の準備をさせている。明日、準備が整い次第、奴は実際に侵攻を始める」 「確証は?」 「明日、私自身がまず高遠を攻撃する。私がまだ北にいると奴が気づく形で」 「そうか。攻撃を受け、高遠は今なら南を獲りに行けると踏む」 「そうです。奴は私と江藤の連携を舐めてかかっている。私が車で北に逃げたという報告は奴に行っていると思うのですが、明日、私は南に戻らず、実際に奴のシマの中で抗争を始める」 「で? 僕の役割は?」  面白がっている口調で合田が聞く。 「高遠が南に入った後で、背後を叩いて頂きたい。奴が自軍を動かすタイミングで埼玉へ侵入し、一気に関越自動車道を抜けて東京北を脅かして頂ければと思って伺いました。埼玉は一切の攻撃をせず、あなたを素通りさせます。指示は出してある」  レンが、まじまじとサキを見ている。合田も驚いた顔でサキを眺めた。埼玉全域はタカトオの支配下じゃなかったか?  サキはにやりと笑った。 「実のところ、埼玉の実権は骨抜きなんですよ。統括ペンダントを持っているのは高遠ですが、それぞれの地域における復興事業は各地域に住んでいる者が協議して進めている。支援物資や補助金は高遠の転売とピンハネが多いので生活は苦しいですが、もはや誰も高遠なんて相手にしちゃいない。俺は『相談役』として、図書館の書庫でずっと仕事をしていた。まぁ一番最近、高遠の手に落ちたさいたま市は、まだ奴の影響が強いので手が出せませんでしたけど」 「まいったな」  合田が呟いた。 「埼玉県に『相談役』がいるらしいことは知っていたが、それは君だったのか。……ここへ来るまでに、君は相当長期に渡って色々な策を張り巡らせていたんだな。しかし……私がわざわざ君につく意味はないんじゃないかね?」  サキが徳利を持ち上げると、合田が応じた。澄んだ酒がとくとくと流れるのをじっと見ながら、サキは続ける。 「あなたにお願いというのは、他でもない。我々が南で高遠を足止めしている間に、奴の根城に侵入して、東京北の統括ペンダントを奪って頂きたいのです」  今度こそ、合田の目が大きく開いた。 「君は命がけで高遠と奴の組織を押さえ込んでおきながら、東京北の統括権を僕に譲るというのかね?」 「そうです。そして物事がきちんと進めば、埼玉県の調整もお願いしたい。私は勢力の拡大には興味がない。『政府』の昔馴染みからは、成田に戻って仕事をしてほしいという要請を受けています。まぁそれも、派閥争いの調整程度の仕事にしかならないでしょうが。  高遠は南に侵入する際、おそらく統括ペンダントを隠してくる。その辺は賭けなんですが……。直観的に、奴は南に統括ペンダントを持ち込んでこないと読んでいます」 「なぜだね?」 「奴が私に殺されたがっているからですよ」  サキが笑うと、合田はわからないという顔をした。猪口を口に持っていき、サキは酒を煽る。すっきりした喉越しの酒を味わいながら、じっと考える。 「あの男は私の両親と弟を殺した。そうした因縁を考えれば、私が奴に復讐しようと執着するのは、よくある物語だ。だが実際には逆です。私には東京南に住む人たちに対する責任がある。それに友人にも恵まれた。復讐しようという気は、そもそもあまりなかった。それなのに、奴はどういうわけか、私に復讐される情景にいつまでも恍惚と浸っている。  だから……私が奴を殺しても、探している物は見つからない。私は奴のねぐらを蹂躙し、望む物を探すハメになる。私自身の意志と関係なく、奴に執着させられる。どうもそういう不気味なことを奴は考えているんじゃないかと。  合田さん、あなたなら金庫にたどり着くまでの人材を確保できるでしょう。奴の金庫は、根城の6階、リビングのCDラックの後ろです。部屋全体のサイズを考えて、CDの厚みの後ろに何かがある」 「そこまで考えて君は人質になったのか?」 「あまり深く考えてはいませんでしたが、結果的に色々なことがわかりました。奴もそうした駆け引き込みで、私を捕えたのでしょう。いい気分ではないが、お互いの本性を暴きあうにはいい機会でした。ちなみに暗証番号はおそらく……0913か、その数字の組み合わせです」  合田が酒を煽り、サキに尋ねる。 「もしかして」 「俺の誕生日ですよ」  何かに気付いた顔をしたが、合田は何も言わなかった。そう、それはまるで……。 「合田さんは、ペンダントを取ってくださって構わない。私の狙いは、それと一緒に隠されている物の方です」 「何かね」 「ペアの指輪……両親の形見です」  今度こそ、合田は隠微な笑みを浮かべた。 「なるほど。奴の性癖はなかなか歪んでいる。君も大変だな」 「いい気持ちはしませんが、とにかく、私は指輪さえ取り返せればそれでいい」  合田は含み笑いをしながら焼き鳥を食べた。 「君の狙いは指輪だけ、か。少々出来過ぎな感はあるが……まぁ、君が失敗した時のために、私はあくまでも『東京北がお留守になったという情報を掴んで』動くことにさせてもらうよ。埼玉の連中も、市街地は色々と物騒だとはいえ『高速道路は管轄外』だということだし。  君と高遠の私怨が絡んだ抗争は、高みの見物といこう。最終的に漁夫の利を得ることに成功したなら、その時に手に入った物の中で私が『要らない物』を君に報酬として送るという形で」 「えぇ、それで結構です。明日、こちらからは何も言わない。あなたは『独自の情報網』を持っていらっしゃるわけですから」  ニヤリと笑い、合田は猪口を煽った。サキが酒を注ぐ。レンはちびちびと酒を飲みながら黙って話を聞いていたが、男どもの陰謀がひと段落したのを見てとると、おずおずと声を出した。 「あの、ちょっとトイレに行ってきてもいいですか?」  合田が手を振って方向を教えた。サキも微笑む。 「行っておいで。わからなければ女将に聞くといい」 「行ってきます」  レンは立ち上がると静かに出ていった。  その背中を2人は何気ないふうで見送った。数秒の沈黙の後、合田が呟く。 「レン……さいたま市のレンかね?」 「そうです」  驚いた顔で、合田はサキを見つめた。 「例の?」 「ええ」 「大丈夫なのかね?」 「さぁ。まだわかりません。ただ、彼自身は非常に善良な本質を持っていると思います」 「殺し合ったとかいう2人のリーダーは、両方とも責任感は強かった。色恋で見境をなくすようなタイプではなかった」 「ええ。おそらく2人とも、高遠の手の者に殺された」 「ではなおさら、そうしたでっちあげを『あり得る』物語に仕立てた存在は危険ではないかね?」  肘をテーブルにつき、サキは軽く身を乗り出した。互いに顔を近づけると、サキは静かに囁く。 「ここだけの話ですが……怜は、高遠の隠し子です」  ぎょっとした顔で、合田はサキを見返した。 「そんなものがいたのか」 「ええ。高遠が不遇を囲っていた間、10代の怜は虐待を受けていた。その後、高遠が権力を握る過程で、あちこちで貢物として、あるいは駒として使われてきたようです。かなりトラウマを抱えていて、父親を憎んでいる」 「ふ~む。あの一件は不本意だったと?」 「本人が気づかぬうちに渦中に放り込まれていたというのが真相のようです」  合田の目が細くなった。 「なるほど。君は彼を取り込んで隠し玉として使うつもりか」 「いえ? むしろ私が彼に取り込まれつつあります。あの子は……育てればおそらく父親以上の逸材だ」  合田はからかうようにサキを見返し、腕を組んで考え込んだ。 「どこまでやるつもりだ?」 「徹底的に」 「北は?」 「それは先ほど申し上げた通り、合田さんに事後処理はお任せします。怜は、できれば『政府』の方へ連れて行きたいのですが……本人がどうしたいかは、まだはっきりしていない」 「毒は抑え切れると考えているのかね」 「まぁそうですね。ただ、私に何かあれば彼の後見を引き受けてくださらないかと。これは私の個人的なお願いです。……今回の一件で高遠か私、どちらかが倒れる。その後の東京の覇権争い、処理に失敗すれば怜が巻き込まれることになる」 「わかった。引き受けよう。もっとも……それには条件がある」 「何でしょう」 「高遠とあの子がきっちり切り分けられたと確認できることだ」 「そうですね。少しでも疑いがあるなら、合田さんの考えで動いて頂いて構いません。あくまでも、これは私の個人的なお願いですので。一言申し添えておきますが、あの親子が組むことになれば、この国はおそらく……」 「君が見込んだ子だ。独裁者の息子として覚醒すれば、父親以上に厄介な存在になる。……そうか。切り分けられていなくても後見を引き受け、あの子を父親の勢力下から引き離すというのも、ありかもしれないな」 「もし私に何かあれば」 「考えておこう」  合田は何事もなかったように徳利の中身をサキの猪口に注ぎ、空になったのに気づくと女将を呼んだ。

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