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第82話 【2年前】(59)
風は凪いでいた。
良くないことだとタカトオは思った。風は強い方がいい。船の帆は、風をはらんでいるべきだ。軽快に海の上を滑っていけるように。
気温は高く、動くと汗がじわりとワイシャツに染みる。
今日はやめようかという漠然とした考えが頭をよぎる。こうした違和感や虫の知らせを、今の東京の人間は大切にする。安全は結局のところ、自分なりの用心でしかない。「安全そうだ」と感じるかどうかが全てだ。
しかし、タカトオは顔をしかめてその考えを振り払った。馬鹿らしい。風が止まったぐらいで。
もう3年に渡って腹心となっている部下が、部屋のチャイムを2度鳴らして入ってきた。
「準備完了です」
余計なことを言わない男だ。それは特筆すべき長所だった。必要なこと以外は一切しゃべらない。それが大事だ。
タカトオはワイシャツの上にジャケットを羽織った。報告では、立川でトラブルが起こっている。物資をくすねている奴が捕まったのだが、逃げ出して仲間を集めたという。そいつは支援物資にとどまらず、クスリも荷物から抜いていたらしい。人の物をくすねておいて、露見すれば反乱を試みるとは。
こうしたことはよくある。数年前に捕まえた運び屋は、若いくせに知恵も度胸もなかなかだった。押さえつけられながらも一人前にタカトオを睨み上げた。そいつは一週間拷問した後、薫の組織に潜り込ませてある。
他人が思い通りにならないという者は、配慮と工夫が足りない。思い通りになるのではない。思い通りにするのだ。それがタカトオの人生哲学であり、信念だった。
クスリは盗んではならない。それがわからない者には、ルールを徹底して教えるべきだ。二度と逆らおうという気が起きないように。
こちらの思い通りにできない者は、非常に手がかかる。教えた通りにできない者は価値のない無能であり、エネルギーを注ぐ必要はない。
とはいえ一番どうにもならないのは、単に無能なだけでなく、反抗したいから反抗するといった、感情だけで物事を処理する息子だった。ああいう行き当たりばったりな者は度し難いほど愚かだ。さらに腹立たしいのは、あの子が他人と深い人間関係を作ることに奇妙に長けているということだった。
他人の心を緩ませること自体は悪くない。しかしそれを有効に活用するのではなく、仲良しこよしで他人の言うことを信用し、不確定要素をいとも簡単に受け入れることは良くない。感情に頼って生きることは、本能のままに生きる動物と同じであり、最善を見つけられない知能指数の低い者がすることなのだ。
嘆かわしいことだ。
薫もそうだ。あれほど優秀な者も、感情に振り回される時がある。現在の日本において、あれは己の復讐心を押さえ、国家を率いるリーダーとなるべき男ではある。だからこそ、そうした男を私怨に狂わせるよう追い詰めるのは、楽しくてたまらない。
あの子は元来、情で他人に訴えかけて動かし、感情を重んじるところがある。確かに論理的に思考する能力は優れている。だが感情という要素を行動原理の中心に据えている限り、あれは勝てない。
そして最大の問題は、あれが自らの能力に対して思い上がっているということだ。おそらく私怨でタカトオを殺しても、この地域の事後処理は簡単だとタカをくくっているのだろう。だからこそ、迷わずにやってきた。
昨日の脱出劇にしても、薫は怜が虐げられていると見るや、あの子を連れてさっさと出ていった。今頃は、どこぞに隠れて怜を可愛がっているのだろうか。
タカトオは心の中で薫を嗤いながら部屋を出た。
結局のところ、薫も自分の息子も若いのだ。こちらの思惑に乗せられ、あの2人は感情で動く。そうした「軽さ」のせいで、あの子たちはタカトオの手の平の上で易々と踊らされる。
あれではだめだ。私を出し抜き、私を本当の意味で蔑むことが必要だ。薫の母親のように。あの女は最高だった。真の意味で私を蔑むことができた。なのにへらへら笑ってばかりいるボンクラを愛してダメになった。
タカトオを見る時、薫は結婚前のあれの母親と同じ目をする。いい目だ。人を心底蔑む目。しかしまだ足りない。
成長した薫を初めて見た時のことを思い出す。
中央軍事病院に入ってすぐの頃だ。コットンシャツにジーンズという変哲のない服が、かえって薫を目立たせていた。均整のとれた体からは、若く溌剌としたエネルギーが立ち上っていた。
大きなボストンバッグを持ち、受付の者と話していた薫は、奥からやってきた母親にすぐに気づき、そちらへ顔を上げた。理知的な眼差しが、その場の状況をすべて捉えていた。
親子は本当によく似ていた。
階段を下りながらタカトオは考える。
離れた場所から歩み寄る親子は、際立って美しかった。人間の存在そのものの基盤が愛情であることを疑いもしない顔だった。親子は言葉を交わす。着替えだろうか。ボストンバッグを渡しながら、薫は励ますような目で母に微笑みかけた。
世界で最も善良なものを壊すことができたら。
そう思った時、タカトオの体は興奮で震えた。今もはっきり覚えている。あの家族を、考え得る限り一番残酷な方法で壊してやりたい。薫をひとり残してやったら、あの子はどんな顔をするだろう。あの知性と愛情にあふれた目が、刃のように自分を蔑む光景を想像する。強烈な快感で足が震えた。
あの子の感情を操り、煽り、論理的な思考を奪ってやりたい。ねじ伏せ、血塗れの手で頬をなぞってやりたい。渾身の力で睨み上げる目を、タカトオは渇望していた。
足りない。もっと、もっと欲しい。どんな人間を抱いてもタカトオは満足しなかった。母親を殺し、家族をすべて奪ったのに、薫はまだ狂わない。なぜだ。友情だの、仲間だの、そうしたくだらないものを、まだ薫は大切にしている。復讐に対する熱量が圧倒的に足りない。
強烈な感情を押さえ込み世界を統べる者になれ。体の中で沸騰する怒りと、王として君臨するための絶対的な冷静さ。その両極を制してこそ、あの子は私を本当の意味で蔑むことができる。
1階の広いロビーを、タカトオは悠然と突っ切っていく。
怜。息子はきっと薫を変えるだろう。怜に薫を裏切らせることができたら、今度こそ薫は我々親子を追い詰めるために鬼になるという予感があった。直接裏切らせることができなくても、薫が怜を本気で愛せばいい。追い詰めて追い詰めて、もう一度、薫の世界を壊してやったら。
怜が薫に心から蔑まれるのもいい。薫が怜を愛すれば愛するほど、裏切られた時の傷は深くなる。
息子と薫がセックスをしている光景が鮮明に浮かび、タカトオは思わず立ち止まった。腹心の部下が一緒に立ち止まり、黙って待つ。
欲望が痛いほど張り詰めている。深呼吸して、気を散らせる。
数十年溜め込んだ煮え立つような欲望を、タカトオは誰にも見せる気はなかった。
蕩けきった顔で薫に抱かれる自分の息子が、父親と同じように、いや、できれば父親以上に薫に蔑まれることを、タカトオは最近よく妄想する。
人間を切り裂く憎しみの目で、全霊をかけて自分たちを蔑む薫を生み出すために、息子は大事にしなければな。すべてを薫と怜から奪ってこそ、これから建てる自分の王国には価値が生まれる。
そうだ。こんなところで欲望を感じるなど、あってはならない。私の計画はまだ先が長い。あの子たちのように感情に流されては失敗する。感情や欲望は無意識の海に沈め、決して表面に浮かんでこさせるべきではない。無意識下にあるものさえコントロールしてこそ、物事はうまくいく。
人生の矛盾。感情を排除しようとすればするほど、人は感情以外のことを考えられなくなる。タカトオは自分がどんな表情をしているかに気付かぬまま歩いて行く。
微かな笑みが、タカトオの顔を不気味に彩る。薫が狂ったように自分を蔑む目が見られたら。そのエクスタシーの瞬間にこそ、タカトオの人生は成就するのだ。
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