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第92話 【2年前】(69)
図書館で爆発が起こった時、レンはちょうど、宿泊所を出て坂を下りている最中だった。
東から夜はすでに始まっていたが、図書館の建物は昏い街の中で浮かび上がるように照らし出されていた。
「あれ、やばくないか?」
隣にいる新規メンバーの男が呟く。輸送メンバーが何人か撃たれたため、人員の組み換えでタケは他の車に乗り、レンの車には、宿泊所で軽傷の手当てを受けた者が来ていた。
「やばそうですね……」
激しく嫌な予感がした。状況はどうなっている? 薫さんはまだ屋上だろうか。
耳に突き刺さるように、緊急用の回線に着信が入った。助手席の男がスマホを開く。サキが緊迫した声で命令を出した。
『図書館に火をつけられた。全員退避。これは命令だ。絶対に、誰も図書館に入るな!』
「えっ」
後部から看護師が顔を突き出す。レンは自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。今のメッセージは、おそらく自分に宛てたものだ。慌ただしくサキが指示を飛ばすのが聞こえてきている。
『輸送チームは何台寄越せる?!』
『現時点で5台です。宿泊所で動ける者に総動員をかけます』
レンはアクセルを踏み込んだ。現時点で5台。その中に自分の車も入っている。
『よし。繰り返す。絶対に、誰も図書館に入るな』
念を押すように厳しく命令を出すサキの声は、この車の中で直接自分に詰め寄っているようにレンには感じられた。サキはなおも命令を続けている。
『手が空いている者はすべて図書館周辺に集合、タカトオに突破された。奴は図書館の近くに潜んでいる。狩り出せ!!』
なんで。なんであいつが図書館の近くにいる? 改めて、レンはタカトオが怖くなった。作戦の細部を聞かされていないせいで、タカトオの出現は唐突で、しかも不気味なものに感じられる。あの攻防戦から、どうやって気づかれずに図書館まで来たんだろう? 自分はエトウに詰められた時に、タカトオの考えを正確に読んだはず。サキとエトウは敵の動きを丁寧に封じていた。
勝てないんだろうか。薫さんでさえ。
書庫の中に立つサキを思い出す。少しカビくさい本の匂いに包まれ、腕を組んで書架に寄りかかっていたサキ。迷宮の中を自在に歩く『司書』。知を愛する静かな王は、本と共に焼け落ちるんだろうか。
必死で車を運転しながら、レンは唇を噛みしめた。
高台から見える限り、火の回りは速そうだ。最近は雨が降っていない。サキが心配でならなかった。口の中がカラカラに乾き、ステアリングを握る手が震える。サキのことだ。チーム全員の退避を優先し、自分を最後にするに違いない。
せめて近くにいたかったのに。
昼間エトウに、自分はサキを愛していると啖呵を切った。裏切り者であることを越えて、この感情だけは変わらないと。なのに、それを証明する手段はサキ自身にさえ封じられている。死なないで欲しいと心から願う男のために、自分は何もできない。
レンは車のスピードを上げた。
平地の街並みを通り、橋を渡る。味方があちこちから図書館に向かって走っている。戦後、信号はただの飾りにすぎなくなった。太陽が沈み暗くなった街で、レンの車を止めようとする光はない。レンはただサキのことだけを想いながら、ひたむきに道を進んだ。
数分後、間引きされた建物の間から図書館が見えた。公立マーケット側から炎が吹き出ている。大きな図書館は足元から照らされ、ぬっと夜にそびえていた。バリケードにしていた1メートル四方ほどのコンクリートブロックのひとつが、車に押し込まれるように公立マーケットにめりこんでいる。
あそこは昔、ガラス張りの広い閲覧室だった。コンパネや建材などで補強して封鎖し、さらに外側に何重にもバリケードを設置してあったのに、どうやらバリケードをいくつかすり抜けて突進したらしい。炎は舐めるように図書館の南外壁を駆け上がっていて、公立マーケットの中も炎の海になっているのが見えた。
「輸送チーム! こっちだ」
誰かが怒鳴っている。レンは窓を開けながらスピードを落とし、周囲の警戒に当たっている味方に声をかけた。
「怪我人はどこですか?」
「屋上から、西側の壁を伝ってどんどん下りてきている。そちらで指示を仰いでくれ」
「わかりました」
レンは西へ図書館を回り込んだ。視界に人だかりが見えてくる。バンもすでに数台到着していた。
エンジンを切らないまま、レンと残りの2人は車から降りた。チームリーダーのミヤギがレンに手招きしている。
「どうなりました?」
「怪我人がまだ下りてくる。たぶん残り10人程度。それ以外に退避を待っているのは屋上にあと30人程度。ロープを増やして対応している。トリアージが終わるまで待て」
「わかりました」
返事をして、上を見上げる。薫さんはどこだろう。スマホで呼び出したいのをこらえて、シルエットで見分けようとレンは目を細めた。
サキは真ん中辺りにいた。狙撃銃で周囲を警戒している。夜を背景に、南の炎に照らされてその厳しい顔が見えていた。
部下の誰かがサキに声をかける。サキはスコープから目を外して何か答え、双眼鏡で周囲の障害物を確認している。
あいつを探してる。
レンはぼんやりと思った。あいつに入り込まれるなんて、思いもよらなかった。車で突っ込まれるなんて、作戦にどんな穴があったんだ?
「火が回る! 急げ! ロープもっと探してこい」
散発的に銃声が響いた。
「タカトオだ! いたぞ」
「こっちだ!」
誰かが怒鳴り、数人が走りだす。
「やめろ撃つな! 味方だ」
「おい北から敵が来るぞ」
情報が錯綜している。これは……。そう思った瞬間、屋上からサキの声が響いた。
「全員よく聞け!」
すべての者が動きを止める。ひとりひとりを見据える強い目で、サキが呼びかける。
「いいか。今必要なことは、これまでと変わらない。全員落ち着いて行動すること。各自勝手に動かず、まずチームリーダーの所へ戻れ。もうすぐ北から、エトウが援軍を率いて戻ってくる。同士撃ちにならないように、きちんとチームリーダーの指示に従い、持ち場を離れるな。図書館なんか、所詮建物だ。生きている限り、やり直しはきく。まず、お互い助け合って生きのびることを考えろ。絶対に、誰も、図書館に入るな」
最後の最後に、サキは真っすぐにレンを見た。絶対に、お前は、書庫に入るな。
図書館の上と下で、2人はほんのわずか見つめ合った。
怜。頼むから行かないでくれ。ここにいてくれ。
わかってる。わかってるけど。
ずきんと右手が痛んだ。いつの間にか右手を硬く握っていたのだ。しかも拳が誰かを殴らないように、左手が渾身の力で押さえ込んでいる。
意識した途端、どくん、どくんと脈打つような痛みが右手から心臓へ走り始めた。
こめかみがガンガンする。動くな。動くな!
思わず目をつぶる。誰かにハンマーで殴られているようだ。こめかみにナイフを突き刺して血を抜いたら、この強烈な苛立ちは鎮まるだろうか。そう思うほど頭の中が破裂しそうだった。
自分は無価値だ。何ひとつできず、薫さんが屋上で図書館と共に焼け落ちるのを待っているだけだ。宿命的な裏切り者、生涯の敵である父親に抵抗もできないバカ。
「タカトオだ! 図書館に入る気か?!」
誰かが叫んだ。
それが引き金だった。
サキが諦めたように目を閉じたのと、レンが倒れこむように走り出したのとは同時だった。
オレは、最後にあなたの役に立ちたかったんだ。すべてを懸けて、あなたのために。
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