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第101話 三鷹にて(1)

 暖房が効きすぎてる。  大きな部屋の片隅で、男は顔をしかめた。  誰もが好きな時に風呂に入れるわけじゃないし、洗濯なんか贅沢だ。歯ブラシはめったに手に入らない。きれいな水は有限で、お湯を沸かす電気も有限。  部屋の中には匂いがあふれていた。すえたような汗と脂の匂い、安いアルコールの匂い、誰かの足の匂い、にんにくや焦げた焼き鳥の匂い。ありとあらゆる悪臭が混ざり合っている。男はそれを感じないように、感覚を遮断しようと鼻の奥に意識を集めた。  高遠は自分が水と電気を好きなだけ使えることを誇示しているつもりらしい。この根城は、冬は暖房、夏は冷房が効きすぎている。  左にいた奴が、一歩こちらに寄った。髪の毛から皮脂の嫌な匂いが漂ってくる。もう一度顔をしかめたが、男は結局動かなかった。この部屋には人が大量にいる。部屋全体が臭いのだ、一歩離れたところで意味はない。  このマンション最上階に出入りするようになってから2年間、ずっと男はこの部屋を嫌悪していた。ぴしりと揃ったCDも、高いオーディオ機器も、ガラスのテーブルも、本革のソファーも、何もかもが嫌だった。  ここは汚水の匂いがする。この部屋の主がひとりでいる時でさえ、悪臭は消えないだろう。なぜなら、部屋の主の魂そのものから悪臭がしているからだ。  高遠は、薄汚れた人間たちを軽蔑するような目でソファーに座っていた。有力者たちは高遠を取り囲むように座っているが、それ以外は壁際に思い思いに立ち、会合の始まりを待っている。この部屋に入る時にはボディチェックを受けなければならず、丸腰でいなければならないというのも落ち着かない。 「おい誰か、須川に連絡しろ」  ソファーから声が上がった。新参の派閥トップ、奥村だ。男は溜息をついた。須川は毎回遅刻してくる。わざとやっているというのが、全員の共通認識だった。高遠をイライラさせ、それを馬鹿にしたように見る。そうした、自分たちの支配者の神経を逆なですることに大胆な奴というのは、不思議と人望があるものだ。  城下の街で、須川は人気があった。情報は須川に集まる。高遠も、奥村も、だから須川を殺せずにいる。  男はスマホをポケットから出した。どうしても来なければ、自分が呼び出さなければならない。  その時、玄関のドアが開く音がした。全員がそちらを見る。  須川は刺すような視線の束をものともせず、悠然とリビングに入ってきた。身長は180センチ程度、30代前半だろうか。男ぶりがよく、体つきも均整がとれている。  高遠を横目で見て鼻で笑うと、須川はこちらへやってきた。スマホをしまいこむポケットを見下ろし、一言「すまんな」と言った須川は、楽しそうに男に笑いかけた。 「また遅刻かよ。いい加減にしないと撃ち殺されるぞ」 「はっ、あんな下手くそ野郎、どうせ撃ったって俺には当たらない」  男は溜息をついた。あからさまに高遠を馬鹿にする態度を取っても、須川には妙な愛嬌がある。なぜか須川は男を気に入っていて、いつの間にか男は須川の面倒をみる役になってしまっていた。 「始めろ」  高遠が宣言すると、ソファーでは今月のアガリの報告が始まった。高遠の気に食わない数字であれば、容赦のない叱責が待っている。各派閥の人間たちには緊張感が漂っていた。  それを半笑いで眺めていた須川は、ふと身を屈め、男の耳元に口を近づけた。 「なぁ、今日は面白いことが起こるぜ」 「黙ってろ」  向こうで奥村が顔を上げ、こちらを睨んでいる。飼い犬の躾もできないとあれば、あいつの評価も下がる。  須川は気にするふうもなく、男の耳元で囁いた。 「これを見逃すテはない。特等席で見られるなんてラッキーだ。お前も楽しめ。……多分、お前が一番楽しめる」 「黙れってば」  言ってから、男はふと考えた。自分が一番楽しめる? 何を言ってるんだ?  目が合うと、須川はキザっぽくウインクし、ニヤリと笑った。 「カリカリすんな。マジで今日は最高になるぜ。もうすぐこの部屋に爆弾が落ちる。楽しめよ、タケ」  昔のあだ名で呼ばれ、男は今度こそ、露骨に顔をしかめた。 「竹田、だ。何度言えばわかる、その呼び方やめろ」  須川は竹田の肩をなだめるように叩き、不敵な笑みを浮かべたままソファーを見つめていた。竹田のことなど、もう意識にない。  竹田は溜息をつき、高遠を見た。  爆弾ね。あいつの頭に誰か落としてくれよ。そうしたら、世界は少しはマシになる。  ふと、竹田は気づいた。  須川はいつも体臭がしない。これだけ近くに寄ってきているのに、口臭も、汗や皮脂の匂いもしない。シャツもジーンズもよれよれだが、それは洗いざらしだからだ。  この1年、自分がそれに気づかなかったことを竹田は不思議に思った。  そういえば……こいつの正体が何なのか、噂ばかりで『事実』がない。2年前の例の抗争から半年以上経った頃、須川はふらりと『政府』出身者の派閥トップである時田のところに現れた。有能ではあったので、瞬く間に時田の直属の部下に上り詰めたが、時田も手綱を握り切れず、1年前にこっちの派閥の預かりとなった。  噂は色々だ。2年以上前に中央線南で見たことがあるとか、高遠の弱みを握っている昔馴染みだとか、『政府』出身なんじゃないかとか、あるいはただ東京の外から流れてきたんだとか、群馬の合田の配下だったとか、神奈川の江藤のスパイだとか。  どんな話を振られても、須川はニヤニヤ笑うだけで否定も肯定もしなかった。一番突拍子もない噂は、死んだ佐木の知り合いだったというものだ。  誰も知らない情報をどこかから仕入れてくる、謎の男。  匂いのしない男。  竹田は隣にいる須川の正体を考えながら、何かを──須川の言う『爆弾』を、部屋の片隅に突っ立って待ち続けた。

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