102 / 181
第102話 三鷹にて(2)
それは、文字通り『爆弾』だった。
この2年、誰も考えていなかったことが起こったのだ。タケ──竹田は自分が植えた種が思いもよらないところで芽を吹いたことに驚愕した。それは想像を遥かに超え、艶やかに咲いていたのだ。一体、自分の知らないところで何が起こったのだろう。
最初、それは静かに来た。警備のひとりが高遠のところに入ってくると、耳打ちをしたのだ。
だが次の瞬間、『爆弾』の効果は劇的な変化を高遠にもたらした。
高遠は警備の言葉にぎょっとした顔をし、それから考え込んだ。次に、追い払うように手を振った。警備が理解して自分の持ち場に戻ろうとした時、玄関ドアが開く音がした。
誰もがそちらを見た。
高遠もだ。睨むように、高遠は部屋の入口をじっと見ていた。
そこに、怜が立っていた。
まるでスポットライトを浴びているかのように、怜はその汚水溜まりのような場所では異質だった。その部屋にいるすべての男たちを見渡す視線、艶然とした微笑み、すべてが主張していた。オレから目を離すな。お前たちはオレの意向を聞き、オレにかしずくために生まれてきた。
一目でわかる。何千人という人間の中であろうと、おそらく誰もが瞬時に見分ける。我々とは違う男だ。あれは人の上に君臨する者。
高遠が一番、唖然としていた。この2年間、怜はいないも同然だった。高遠の領土の片隅で息絶えるのを待つだけの、死にかけの哀れな蝶だった。
それが突然、強烈な存在感を放ちながら高遠の前に立っているのだ。
特別派手な格好をしているわけじゃない。染みひとつない真っ白いコットンシャツに、前開きの黒いパーカー、それにジーンズ。本当に、ごく普通のカジュアルな服だ。
だがそれは逆に、怜の存在感を強める効果を果たしていた。
誰も一言もしゃべらない。ごくりと唾を飲み込む音がどこかで響いた。
怜は両手をポケットに突っ込んだまま全員の視線を楽しんでから、おもむろに口を開いた。
「これはこれは……全員を呼びつけて確認しなきゃ、自分がリーダーかどうかもわからない頭の悪い奴の企画か。高遠、こんな臭いゴミ溜めで支配者を気取ってるなんて、あんたも特大のゴミだな」
心の底から蔑む目で、怜は父親を見下ろした。
「……ここに来てもいいという許可を出した覚えはない。そのまま帰れ」
高遠が、イラつきを押し殺した声で言う。
怜は満面の笑みを浮かべた。
「オレのことを知らない者もいるだろうから、自己紹介をさせてもらう。オレは高遠怜。そこにいるゴミの息子だ。ここに来るのにゴミの許可が必要か? オレはただ、自分のものを返してもらうために来ただけなのに」
「帰れ」
高遠の声には怒りが含まれていた。逆らうことなど思いもよらなかった者が逆らったのだ。怜はそれも受け流した。
「高遠。お前にはオレに命令する権限はない。オレがお前に命令する。出ていけ」
ざわりと部屋の空気が揺れた。東京の支配者に向かって命令するなんて。
怜の目が細くなった。高遠をしげしげと眺め、バカにしたような声で言う。
「オレの土地をゴミ溜めにしやがって。お前は統治能力もないのに権力欲だけが化け物みたいに強い、チンケなヤクザ者だ」
怜はパーカーのポケットから両手を出した。白い手がしなやかに動く。
「なぁ高遠。オレはこの2年、ずっと考えてた。一体自分は何を失敗したんだろうって。そして気づいた。気づかされた。お前みたいなクズに、いいように操られてたオレもクズだったって。もっと早く気づくべきだった。そうすれば、オレは佐木さんを殺さずにすんだのに」
怜の目に痛みが走った。高遠は黙って指を組んだ。この際、聞いてやろうということらしい。
「オレもクズだという自覚ができたところで、そもそも最初にオレがクズになったのがどの時点だったのかを、オレは次に考えた」
高遠の顔が、苦虫を噛み潰したようになる。怜は高遠の配下が揃っているこの場所で、すべてブチまけるつもりだと竹田は気づいた。
「東京に足を踏み入れた、その瞬間からさ。オレは鎮静剤を打たれ、知らないおっさんのいる部屋に連れていかれた。今でも覚えてる。お前にケツを蹴られて部屋に放り込まれた時のことを」
全員が黙って話を聞いていた。怜はずっと微笑んでいる。なのに目だけが激烈な怒りを湛えている。竹田は恐ろしかった。怜は目覚めたのだ。深い深い海の底で眠っていた怜の本質は、時間をかけてゆっくり、ゆっくり水圧に体を慣らしながら水面へと上がってきた。
その巨大な生き物は、じっと人間たちを見ている。自分に害をなす者かどうか、生存本能に根差した知恵で、冷徹に吟味している。
「そのおっさんは『政府』の役人だった。そいつはオレを抱いた後、ペンダントを投げてよこした。お前はそのペンダントを持って行った。次はさいたま市だ。あの街を仕切っていた2人のリーダーはお前の策略にはまった。2人ともがオレをレイプしようとしてオレは逃げ出し、残った2人は殺し合いという形でお前に始末された。そして……中央線南だ」
怜の目はギラギラしていた。高遠は足を組み、鼻を鳴らした。
「帰れ。ここはお前の子どもっぽい愚痴を言う場所ではない」
「お前こそ黙れ。オレが話しているのは愚痴じゃない。体を張って、すべての土地の支配権を手に入れてきたのは誰か、そしてそれを何も苦労せずにズルく横取りしてきたのは誰かを、オレは話しているんだ」
部屋にいる者たちに、ざわりと緊張が走った。視線が高遠に集中する。
「オレには発言権がある。高遠。2年前、オレはお前の策略で佐木と寝た。そして正式に佐木からペンダントの場所を教えられ、お前が火をつけたあの図書館の書庫からペンダントを持ち出した。オレこそが、佐木から正当にペンダントを継承した。だがオレがお前に踊らされて佐木を撃った後、お前は呆然としているオレからペンダントを持ち去った。ただ、持っていっただけだ。お前は佐木からペンダントの場所を教えられてもいなかったし、アタリさえついていなかった。無様に佐木に殴られて転がり、バカ丸出しでニヤニヤとオレのパニックを煽っただけだ」
高遠の顔は、いまや怒りに歪んでいた。この東京では、戦う力のない者は上に立つ資格がない。怜はそれを暴いたのだ。
「……怜。お前は男どもを誘惑して体を開くしか能のない奴だ。私の指示で誰とでも寝ていただけのくせに、今になって自分が権力を得る手段だったと主張するつもりか」
「お前は一度も指示なんかしなかった。ただ、道具としてオレを配置し、駒として動かしただけだ。お前にわかるか。自分の体も魂も物にされ、体の中を犯される気分が。体で男を誘惑するアバズレと呼ばれても、オレは、自分の魂を明け渡す痛みと引き換えにペンダントを手に入れてきた。それが事実だ」
怜は白い手を振った。この世界を黙らせるために。
「このオレに何かを言う資格があるのは、自分のケツを差し出したことのある奴だけだ。今この部屋にいる全員にオレは言ってる。たとえ『枕』と言われようと、自分の体を張ってペンダントを手に入れ、前の統括者、佐木薫を撃ち殺したのはこのオレだ。少なくとも中央線南の支配権はオレのものだ」
しんと静まり返った群衆に、怜は傲然と言い放った。
「文句のある奴は戦ってみろ。腹の読み合いしかできない狸どもめ。オレは蒲田に小さな街を作った。神奈川の江藤が、先日そこを襲撃してきた。奴は佐木の仇を討つために力を蓄え行動を起こしたんだ。高遠、蒲田にオレがいるからって無視していいのか? お前は自分が支配していると思っている場所さえ、まともに管理できない無能だ。江藤が東京に戻ってくる。このむさ苦しい臭い部屋で金勘定する以外に何もできない、無能なバカどもは、防衛もできないってわけだ」
高遠は考えていた。怜に権力を分け与えれば、それこそ自分の権力に正当性がないのを認めることになる。しかし中央線南を防衛するための武器や資金を提供しなければ、それも腑抜けと言われることになる。
その時、新参のトップである奥村が手を挙げた。
「いいだろう。おれが防衛に入る。現時点で中央線南の防衛を担当している奥村だ。しばらく蒲田はおれの預かりということでどうだ? 高遠さん」
高遠は一瞬、奥村を睨んだ。だが他に手は見つからなかったらしい。
「よかろう。怜、お前は蒲田に帰れ。我々が江藤を処理する。ご苦労だった」
ガン、と怜が壁を拳で叩いた。銃声のようにそれは響き、全員が飛び上がった。
「聞いていたのか、高遠。人の話もまともに聞けないクズめ。よく聞け。中央線南の防衛の指揮を執るのはオレだ。お前と違って、オレはまず江藤と直接交渉ができるからな。そのためのパイプをオレは持っている。お前は持っていない。お前が寄越した『政府』の男は、すでにオレの駒だ。お前のお得意な手に乗ってやったからな。あいつは今や、お前のためじゃなく、オレのために動く。お前はあいつにオレをあてがうことで、体よく追っ払ったつもりだったかもしれないが」
バカにしたように嗤う怜に、高遠はさらに機嫌の悪い顔になった。高遠が圧倒的にしてやられている。
高遠は2年前に佐木が死んでから、精神的に一気に老いた。自分の既得権益を守ることだけに汲汲とし、したたかな戦略を練るよりも、細かい数字をねちねちと言う根性の悪い男に成り果てていた。
勝ち目はないな。
竹田は胸のすくような思いで怜を見ていた。自分の過去を思えば、怜に殺されても文句はいえない。それでも、東京は今よりずっと風通しがよくなる。
「中央線南の指揮権はオレのものだ。オレは明日、江藤と直接交渉してくる。決裂すれば全面対決だ。覚悟しろ、高遠。お前がオレに何をしようと、オレは自分の実力で、お前から東京を獲り返す。オレがトップになれば、自分だけ金を独占するなんてバカはしないで、全体に金を回す。ここにいる全員、誰につくのが有利かそれぞれ考えるんだな」
ギラつく目で、怜は高遠を睨み据えた。すべてが変わる。東京はきっと、もう一度息を吹き返す。
ともだちにシェアしよう!