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第116話 蒲田にて(35)
朝の商店街はいつもと変わらないように見えた。労働者たちが仕事の前に歩き回っている。朝ご飯を食べたり、日用品を買ったりと、彼らは思い思いに行動していた。
最近は軽トラックや小さなワゴンで東京の外から物を売りに来ている人たちも多い。トラブルが起こらないよう、怜は住人とも話し合い、そうした物売りの車が駐車できる場所を調整していた。
東京の他の場所は古い時代に逆戻りして、何かを売る者は高遠一派にみかじめ料を払わなければならない。怜はそうした金銭は一切受け取らなかった。住人たちが払っているのは、街を運営していくための自治会費だ。
それに、倒壊しそうな建物はこまめに撤去しているので、移動販売車を停め、ベンチとテーブルを置いて店開きができる場所はけっこうある。いずれ何らかの統治機構が復活し土地の再区画が行われることを願い、恒久的な建物は建てない方がいいと怜は考えていた。
移動販売車は、この街に様々な物を持ってきてくれる。正直、蒲田は東京の他の場所よりも物があり、物価も外部とそれほど変わらないところまで落ち着いてきていた。そのせいで人の流入も増えている。トラブルは実際増えているのだ。
怜の食堂を江藤が襲撃し、怜が『政府』の男に連れ去られたというニュースは街中に知れ渡っているらしい。怜が歩いていくと、労働者の数人が手を挙げて挨拶し、隣の者に顔を近づけて話し始める。
移動販売車のエリアを抜け、住人たちの店が並ぶエリアに足を踏み入れると、さらにあちこちから声がかかった。いつもと変わらないように見えても、住人たちの顔には不安が漂っている。この街が荒らされるのではないかと皆が思っているのだ。
怜は、そうした街の人々の顔を不思議な気分で眺めた。この人たちの顔は、こんなに優しかっただろうか。自分たちの街が侵略されることを心配しながら、彼らは怜に大丈夫かと声をかけ、何かあれば手伝うからと言ってきた。高遠の息子だということを面と向かって言ってくる者は今のところいない。
朝の光の中、街は怜を迎え入れ、おかえりと囁いている。
2年間、怜は必死だった。街を歩くときはいつも、トラブルが発生していないか、トラブルをどう解決するかばかり考えていた。常に、トラブルを持ち込んできた存在と対峙し、自分が守ろうとしているものは背中の後ろにいた。
今、改めて自分が何を守ってきたのかを見て、怜はそれがいかに怜自身を守ってくれていたかを実感していた。街の人々の手は美しかった。作業服などを売っている店の木村さんは、ぶっきらぼうな話し方だけど温かくて、おにぎり屋の三島さんの笑顔は愛嬌がある。
ゆっくりと歩き、大通りの真ん中の食堂へ近づく。入口はブルーシートで覆われていて、その隙間から人が出入りしていた。江藤が蹴散らした時のままなのだと怜は気づいた。
なんだか変な気分。あの襲撃は、もう10年も前のような気がした。実際にはほんの数日前のことなのに。
ブルーシートをかき分けて食堂に入る。皆、忙しく動き回っている。中は例によって満席だった。
「あ、あの、ただいま……」
か細い声を怜が出した瞬間、すべての者が動きを止めた。客の労働者たちまで、茶碗を持ったまま、飯をかきこむ動きが止まっている。
「あの、ごめんなさい……」
語尾が消え入りそうになる。皆に迷惑をかけたのに、自分はここ数日、食堂の方はほったらかしだった。金曜日に木島──薫のところへ行き、それからずっと話し合って、東京の今の状況を色々聞いていた。日曜日の夜には高遠のところへ乗り込み、月曜日、つまり昨日は江藤と話し合い、そして──。
ずっと薫の部屋にいて、さらに夕べから今朝にかけて薫と甘い時間を過ごしていた後ろめたさに、怜は皆に何を言っていいかわからなかった。この食堂を金曜日に連れ出されて、今ここに戻るまでに、怜の人生は劇的に変わってしまったわけだし。
「その……」
「怜さん!!」
口を開きかけた時、沢城の声が響いた。泣きそうな顔がこっちへ走ってくる。
「よかった! 無事だったんすね。江藤さんにあんなこと言われたから、もう帰ってこないんじゃないかって……思って……」
沢城の声が詰まった。怜の前で、沢城が顔を覆う。
「ごめん……色々あって、結局戻ってきた。江藤さんのところに、オレの命と引き換えにここを守ってもらうように頼みに行こうかと……思ってたんだけど、事情が変わって」
従業員が近づいてきた。厨房からも皆顔を出している。
「何言ってんすか。ここは怜さんがいるから出来上がった場所なのに」
ぐすん、と沢城が鼻をすすった。皆がほっとした顔で怜を見ている。
「おかえりなさい」
誰かが呟くように言った。
「ほら、朝は忙しいんだから、怜さんもとりあえず仕事してくださいよ。一段落ついたら事情話してもらいますからね」
別な従業員が怜の肩を叩く。
「皆……、いつもありがとう」
はいはい。話は後で。しんみりしてないで、これ運んでください。
皆が口々に言いながら仕事を再開する。
そうか。ずっと前から、ここはオレの家だったんだ。何があろうと、いつも変わらずオレを迎えてくれる場所だった。
新しいものを見る目で、怜は自分の慣れ親しんだ人を、場所を見ていた。以前の自分は、一体何を見ていたんだろう。全体をゆったりと見る精神的な余裕はなかった。今、世界はとても色鮮やかで、あったかいご飯の匂いがしていた。人々の顔の輪郭はくっきりしていて、それぞれが生き生きと動いている。
ぱた、と何かの雫が落ちた。それが涙だと気づき、怜は恥ずかしくなった。顔をごしごしこする。抑えようとしても涙は勝手に目から溢れ、怜は困り果てた。誰かがタオルを差し出してくれる。怜はそれを受け取って顔をうずめた。
自分には居場所があったのだ。どうしてその事実に対して、鈍感でいられたのだろう? 自分が死ねばすべてが解決するなんて、どうしてそんな投げやりでいられたのだろう?
食べ終えた人たちは、怜の肩をぽんと叩いて出ていく。
「怜さん朝ご飯食べました?」
沢城の声に、怜はうなずいた。
「食べてきた。仕事……しなくちゃ」
怜は涙を振り切り、顔を上げた。ここは大事な場所。全部が始まる場所だ。この場所を中心にすべての計画を立てれば、きっと自分が間違えることはない。
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