125 / 181

第125話 横浜にて(10)

 怜が疲れているなんて、薫はどうやってわかるのだろう。  驚いたことに、薫は怜にかいがいしくドライヤーをかけ、怜はそれを普通に受け入れていた。薫がシャワーを使い始めると、怜はソファーに戻りタブレットの資料を覗き込んでいる。 「そういや怜、プリン食うか?」 「あっ食べます」  江藤がキッチンへ立ち冷蔵庫に頭を突っ込むと、怜は嬉しそうな顔になった。 「ほら」 「やった」  プリンを受け取り、怜は目を輝かせて蓋を取っている。  向かいでその様子を見ながら、竹田はぼけっとしていた。3人が3人とも、自分たちが東京を仕切っているというのに私生活は呑気なものなんだなぁと思う。 「これって、薫さんに押し付けられたやつですか?」 「あぁそうだ。薫から聞いたのか?」 「はい、プリンを買っては食べられなくて、江藤さんに押し付けてたって」 「マジで勘弁して欲しかったんだが、もう俺はプリンを食わなくてよくなったのか?」 「そうですね」  2人の会話は楽しそうだなと思う。怜は瞬く間に3連プリンをすべて空にした。しばらく名残惜しそうに容器の底を突っついてから、流しに行って空容器とスプーンを洗う。  そうしたリラックスした雰囲気を見ているうちに、竹田も気が緩んできていた。怜も江藤もさっきまで色々と策略を巡らせていたのに、今はまったくそうしたこととは縁のない顔をしている。  逆に言えば、こうした平和な雰囲気を楽しめるからこそ、東京の荒んだ街に対する嫌悪感も強いのかもしれない。  善良な目的。  策略を所詮は道具だと割り切れるしたたかさは、安らぎを強く求める動機に支えられているのだろうか。  そんなふうに考えている竹田の前に、薫が戻ってきた。特殊メイクをすべて落としている。須川ではなく、そこにいるのは2年前に中央線南を率いていた男そのものだった。図書館をぶらぶらしていた佐木薫の姿を思い出す。腹減ったんだけど、何かあるか? そんなふうに薫が事務室に入ってくると、グループのメンバーたちはカップラーメンなどの限られた食料を皆で分け合いながら、様々なことを話したものだった。  薫はふらりと部屋を横切ると、キッチンから戻る怜に合流し、その腰を抱いて一緒にソファーに座った。驚いたことに、怜の雰囲気がまったく違うものになっている。ふんわりと微笑んだ怜の眼差しは薫を最初に捉えた時から、愛しさに溢れたしっとりしたものになっていた。  潤うような美しさを突然見せた怜を、竹田は思わずしげしげ見た。薫も雰囲気が違う。体の芯が緩むとは、こういうことなのだろうか。さっき見せた不敵な眼差しはなりを潜め、眼元は、視線だけで女たちが言葉を失うような甘さを湛えていた。 「おいもしかしてプリン食べたのか?」 「えっ……なんでわかるの?」 「キッチンにプリンの空容器が並んでてお前がスプーンを洗っていれば、誰だってわかるだろ。歯を磨いてやるから洗面所に戻るぞ」  歯を……磨く?  さっきもちらりとそんな話をしていたことを、竹田は思い出した。怜は困った顔をしながら竹田をちらりと見て、薫の耳元に顔を近づける。甘い囁きが竹田にも聞こえた。 「歯は自分で磨くってば」 「遠慮するな。竹田なんか関係ない。な?」  当の竹田を前に、今にもキスしそうな雰囲気が漂っている。  江藤がパソコンを見たまま声を上げる。 「お~いそこ、俺たちの前でいちゃつくな。あと、寝室でうるさくしたら廊下に叩き出すからな」 「けちくさいな翔也」 「常識ってものを少しでいいからわきまえろ、お前は」 「薫さん、ここ江藤さんのうちなんだから、ちゃんとしなきゃ」 「とりあえず歯は磨かせろ」 「もう……ゴネないでよ。歯は自分で磨く」  逃げるように立とうとする怜を、薫は手首をつかんで引き寄せた。 「ダメだってば……薫さん」 「疲れてるだろ、怜」 「まだ大丈夫」  怜を無視して、薫は不意に怜を抱き寄せ、ゆっくりと肩をさすった。怜の目がとろんとなる。 「大丈夫だってば……」  一瞬だった。怜の目が閉じ、その顔がことんと薫の肩に落ちる。すうすうという深い寝息が響き、竹田も江藤も目を丸くした。 「え、寝たのか?」 「怜の特技は、安心できる場所なら3秒で寝られるってことだ。逆に言うと、自分が心を許してない人間がいる時は絶対に眠らない。こいつは『須川』が気に食わなかったから、今日一日ものすごく緊張していたし、中身が俺だとわかってからも、いまいち気を許していなかった。で、こいつが竹田の前で寝るかどうかを見たかったんだが……。まぁ怜の試験は合格ってとこだな、竹田」 「はぁ……そうですか」  変わった試験だ。  眠ってしまった怜は、あどけなく見えた。睫毛が微かに震え、うっすら開いた唇はみずみずしい。もう薫のものであることはわかっているし、薫が怜を見つめる愛情深い目を見れば、自分の感情など薫にはかなわないということも理解できる。それでも、眠る怜は抱きしめたくなるような清楚な色気があった。  薫は怜の肩を抱き寄せ、ふわふわした髪の毛にそっと口づけた。冷淡な計算高さを見せた時とは違い、薫は無条件に怜を包みこみ、怜が心地よくいられるように後ろに寄りかかり、体全体で怜を受け止めている。 「歯を磨いてやる前に寝てしまったな」 「もしかして……毎度怜の歯を磨いてやってるのか?」  江藤も好奇心を見せている。 「あ~、歯も磨いてる」 「歯『も』?」 「いいだろ別に。プライベートだ。怜を寝かせないと。ベッド借りるぞ」 「いつも許可なんぞ取らずに勝手に使うだろうが」  薫は立ち上がろうと動いた。途端に、怜がむにゃむにゃ何かいいながら腕を伸ばす。腕はしなやかに薫の首に巻き付き、怜の目がうっすら開く。 「薫さん……どっか行くの?」 「どこにも行かない。お前をベッドに運ぶだけだ。ほら、俺につかまれ」 「うん」  薫の首に抱きつき、怜はふにゃりと笑った。その膝の下に薫は手を入れ、ひょいと抱き上げる。力を抜いて丸くなった怜のこめかみに口づける。 「寝かせてくる。翔也は?」 「ん~、とりあえずこの映画は見る。竹田、お前も勝手にやってくれ。冷蔵庫の中も適当に漁っていい。薫。セックスだけはするなよ」 「……わかった。努力する」 「『努力する』じゃねぇよ、ここは俺のうちだ」 「はいはい」  悠然と、薫は怜を抱いて客用寝室へ入っていった。  リビングは静かになる。江藤はイヤホンに手を伸ばし、竹田はひとりソファーに残った。  平和が欲しい。この部屋に満ちる穏やかな空気こそが、おそらく薫と怜の本当に欲しいものだ。自分がたとえ部下としての身分であっても、この空気を共有させてもらえたことに、竹田はかすかな感謝の気持ちを抱いた。  江藤との交渉の中で、怜は言った。お腹いっぱいご飯を食べて、のんびり日なたぼっこをして。  あれは怜と薫の本音なのだ。顔や本性を隠すことも、銃を持つこともなく、食うにも困らず、穏やかな日々を過ごすこと。  今の東京で、それは果てしなく贅沢なものになってしまった。でも、怜なら。ああして恋人の腕の中で無防備に眠ることを知っている怜なら、東京を黒い沼から引っ張りげてくれるかもしれない。

ともだちにシェアしよう!