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第126話 横浜にて(11)
「夕べオレ、結局歯を磨いたっけ?」
ダイニングテーブルで怜が呟く。朝日が差し込むリビングでは、竹田がもそもそソファーから起き上がるところだった。
江藤は冷蔵庫から牛乳を出しながら、薫が朝食を作るところをなんとなく見た。怜のリクエストに応えて、薫はスクランブルエッグを作っている。その穏やかな横顔は、薫が家族を亡くして以来、初めてのものだった。
「お前がぐうぐう寝ている間に磨いておいた」
鮮やかな手つきでスクランブルエッグを仕上げながら、薫が怜に答える。
「薫、お前ほんとに怜の歯磨きまでやってるのか」
「別にいいだろ」
「怜も怜だな」
呆れた口調で言ってやると、怜が困った顔をする。まぁいいか。2人のプライベートにこれ以上突っ込むのはこっちが疲れる。話題を逸らしてやるために、江藤は薫に話しかけた。
「とりあえず俺はチーズオムレツが食べたい」
「チーズは?」
冷蔵庫の中からチーズを出して薫に渡し、江藤は食パンをトースターに放り込む。
竹田は眠そうな顔で洗面所に向かっていった。
夕べの客用寝室はなかなかにうるさかったが、本番までするのは踏みとどまったらしい。鼻にかかった悩ましい声は、激しさを増すことなく静かになった。親友や部下のいる空間で堂々と一晩ヤりまくっても平気な性格の奴を相手にすると、押さえ込むのも一苦労だ。しつこく言うとかえって張り切る薫の性格は知っていた。
まぁ、竹田は迷惑をこうむったらしい。洗面所から戻ってきた竹田は、ダイニングの椅子に座るなり頭を抱え込んだ。
「よく眠れたか?」
江藤が声をかけてやると、竹田は低く呻いた。
「眠れませんよ……途中で起きたら、洗面所で……佐木さんと怜が……」
「その先は言うな」
薫が楽しそうに笑い、怜が真っ赤になった。
「薫さん、歯を磨いただけじゃなくて何かオレにしたの?」
「爆睡してるお前が悪い。いたずらし放題で楽しかった」
やれやれ。部下相手に酷なことをする。怜が竹田と仲がいいのは歓迎するべきことなのに、独占欲むき出しで牽制するなんて大人げない。
薫と2人きりの時に注意してやろうと思いながら、江藤は薫が朝食の準備を続けるのを眺める。大学時代、薫はよくこうして食事の用意をしていた。江藤と田嶋はよく薫の家でオンライン授業を受け、本を読み、レポートを書いた。
戦争中は治安が悪く、子供たちの送り迎えは常識となっていたから、弟から連絡が来ると薫は車で迎えに行く。江藤と田嶋は薫の代わりに迎えに行ったりもした。議論が白熱し、中断したくなくて3人で議論を続けながらそのまま車に乗り込んで学校に行ったこともある。
江藤はそうした時代を懐かしく思い出した。薫の弟、陽哉は帰ってくると、3人の法律談義などを聞きながら宿題をする。中学のオンライン授業の時には、江藤は変顔をして陽哉を笑わせ、後で兄弟にしこたま怒られたものだった。
夕方、薫は夕食を作る。田嶋と江藤はテーブルに五百円玉を置く。
薫はもう一度安らげる場所を手に入れたのだろうか。皿にスクランブルエッグを載せ、レタスやトマトを盛り付けると、薫はテーブルにそれを置いた。素顔で外に出ることが許されない、今もって『死んでいる』男は、かしずく対象を得て前へ進もうとしている。
「竹田は何にする?」
薫の問いに、竹田が恨めしそうな声で答えた。
「平和に食えるなら、なんでもいいです……」
気の毒に。江藤は面白半分に言ってやった。
「薫、ベーコン奮発してやれ。独り寝の部下をいじめたんなら、詫びぐらいは入れてやらないと残酷だろ」
「お、ベーコンか。俺もベーコンエッグにしよう」
竹田がテーブルに突っ伏した。
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