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第127話 【2年前】(73)
「何読んでるんだ」
ぼそっと投げかけられた質問に、江藤は顔を上げた。
薫が首だけ動かし、こちらを見ている。怜に撃たれ、ここに運び込まれてから10日以上経っていた。
薫の両目は薄い膜がかかったように光がなかったが、それでも、薫が人間を認識したこと自体が大きな進歩だった。その人間が江藤だと気づき、意味のある言葉を発したのなら尚更だ。数日前に意識が戻ってから誰の問いかけにも無反応で、薫はただ眠ったり起きたりを繰り返していた。
銃弾は、紙一重で急所を逸れていた。それ自体が奇跡のように江藤には思えた。あるいは撃った者の最後の良心だったのだろうか。
江藤は本を閉じ、膝に置いて薫と視線を合わせた。視界の隅で、点滴がぽたん、ぽたんと小さく落ちる。ずっと天井を眺めてほとんど動かなかったくせに、突然どういう心境の変化だろう。無表情な顔からは、薫が何を考えているのかは窺えなかった。
「『白鯨』だよ。読んだことがなかったからな。暇つぶしに読みたいって言ったら、田嶋が文庫本を調達してくれた」
「そうか」
薫の顔を眺めながら、江藤は腕を組む。遮光カーテンが夏の日差しを遮っていて、病室の中は落ち着いた明るさだ。広めの個室には外の音がほとんど入ってこず、ピッピッという規則正しいモニター音だけが部屋の静けさを深めていた。
「……どこまで読んだんだ?」
「鯨のステーキを食べてるとこまで。この話、筋ってもんがないんだが、ほんとに名作なのか?」
薫はそこで初めて、我に返ったように含み笑いをした。
「面食らう話だろう? ただひたすら、どうでもいいことばかり。たいした筋なんかない。でもそれが……面白い」
最後はかすれた声だった。
こいつは本当にこの本を面白いと思ったのだろうか。江藤はそんなことを考えていた。脱線ばかりの人生。生き抜くためには、それをなんとか笑ってやり過ごすしかない。人生は何ひとつ思い通りにはいかない。薫は物語の中に、そうした人生の隠喩そのものを読み取っていたのだろうか。
「スターバック。イシュマエルはどこに行った」
ぼやけた目のまま、薫が続けた。イシュマエル? スターバックが一等航海士の名前で、イシュマエルが主人公である語り手の名前であることはわかる。だが、質問の意味はわからなかった。
そういうやりとりが作品の中にあるのだろうか。
「……まだ最後まで読んでないんだが」
薫の目に陰がさした。瞼が力なく閉じ、吐息のように薫の口から声が漏れる。
「そうか」
それは『最後まで読んでいない』ということへの返事なのか、変な質問をした自分に気づいた独り言だったのか、なんとも判断がつかなかった。江藤は腕を組んだまま薫の顔をのぞきこむ。
疲れたように、薫は寝息を立てていた。
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