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第128話 【2年前】(74)
それからさらに数日、江藤は薫の横で『白鯨』を読み続けた。だが最後まで読んでも、薫が言った質問は作品の中には出てこなかった。だとすると、薫は何か別なことを話している。
心当たりがないと言えば、嘘になる。
転覆した図書館から、怜は姿を消していた。関東全域に密かに人員を割いているのだが、痕跡すら見つからない。屋島はどうやって知ったものか、長野の怜の生家にまで人を派遣したのだが、それも無駄足に終わった。群馬の合田のところに望みを懸けたが、それも空振り。
ひたすら黙りこくって無表情に天井を見つめる薫と、自らの存在の証をすべて消してしまった怜。2人の間に何があったのか。統括ペンダントはなぜ、まんまと高遠の手に落ちたのか。
江藤はなんとしても真相を突き止めたいと思っていた。それは自分に対する怒りからきていたかもしれない。
抗争の直前に怜について話していた時、薫は今まで見たこともないような溌剌とした笑顔を見せた。
そんな薫を、自分は守り切れなかった。肝心な時に間に合わず、ヘリに向かって惨めに祈った。
重い気分で、あの時のことを思い出す。
江藤が図書館に辿りついた時には、もうほぼ全員が図書館から出た後だった。それなのに、よりによって怜が、さらに薫がロビーに飛び込んだのを数人が見ていて、現場はパニックになっていた。
高遠について誰かが怒鳴っていたが、事態はそれどころではなかった。とにかく薫を図書館から引っ張りださなければならず、江藤は我を忘れていた。
気付いた時には薫を引きずりながら、スマホで田嶋に向かって狂ったように怒鳴っていた。ヘリを飛ばせ、何が何でもここへ着陸させろ。
通話を切ってからも、江藤は薫を、死にかけの親友を呼び続けた。
炎に照らし出され、薫の顔は赤く白く揺らいでいた。宿泊所から来た医者が数人貼り付いてくれたが、薫が死にかけているのは誰の目にも明らかだった。赤い液体が薫の胸から流れ出ている。こんなに無残に、薫が死ぬまでの刻一刻を見せつけられる日が来るなんて、江藤は考えたこともなかった。
なぜ。なぜこんなことになった。
江藤の頭の中にはそれしかなかった。チームは組み上がっていたはずだ。裏切り者の動きも、薫はモニターできていたと思う。あともう少しだったんだ。なぜ自分は、薫が高遠をおびき寄せることに反対しなかった。なぜ!
応急処置で動き回る医者の間から、薫の顔がずっと見えている。その目がうっすらと開いたのに、江藤は気づいた。唇がかすかに震えている。何かを言っている。江藤は医者たちの隙間から強引に頭を突っ込み、薫の口元に耳を近づけた。
うなされているように、薫は虚ろな目で囁いている。
「……怜。銃をよこせ……怜、俺を見ろ、俺を見てくれ。銃を……」
ごほっと薫が血を吐いた。ふぅっと微かな吐息を残し、薫は再び死へと引き込まれていく。江藤は薫に向かって怒鳴った。
「おい薫! 薫戻ってこい、まだ何も終わってないだろ! 薫。薫!」
轟音と共に、図書館が焼け落ちる。呆然と見つめている全員の前で、薫は死のうとしている。誰かに乱暴に肩を叩かれ、ヘリコプターの到着を告げられるまで、江藤は薫の耳元で怒鳴り続けていた。
成田の大きな病院に搬送され、薫は一命を取り留めた。戦前の医療技術では無理だったのではないか。最新の再生医療とナノマシン、とんでもない量の輸血のおかげで、薫はあの世に足を突っ込みながら、なんとか戻ってきた。
繰り返される薫の言葉。高遠と薫、そして怜との間に一体何があったのだろう。もう自分は死ぬという今際の際に薫が必死で呼んでいた相手はあくまでも怜であり、高遠ではなかった。薫は高遠のことなどそっちのけで、怜を見ていたわけだ。そして怜はと言えば、薫の言葉から推測する限りでは、薫に向かって銃を構えていた──。
あの薫の様子を思い起こすたび、薫を撃ったのは怜だという考えは江藤の中で確信に変わっていった。わからないのは『その瞬間』──怜が銃を撃った時に何があったのか、だけだ。抗争が始まる寸前まで、2人の仲は一応うまくいっているように見えたのだが、高遠はどんなふうに介入したのだろうか。
ずっと、ずっと江藤は考えている。あの時の、薫と怜との信頼関係に賭けようと思った自分の判断は正しかったのか。薫が愛したものを自分も信じた、その感覚は間違っていたのだろうか。怜は……薫や江藤をも騙し切った凄腕のペテン師だったのか。
何もかもブチ壊したのは、果たして誰だったのか。
本を置き、薫を眺める。
家族を亡くした時以上に、薫はやつれて見えた。あの時も、江藤は悩んだものだ。燃える病院に飛び込もうとする薫を、江藤は渾身の力で押さえ続けた。最後まで薫の願いを聞き入れず、骨さえ折りそうなほど強く薫の上に体重をかけた。
死なせてやるべきだったのかもしれない。そういう後悔は弱みになり、江藤は薫の傍を離れられずにいる。
8年前に、高遠の処遇を巡って田嶋とサシで話し合わなければならなくなった時、江藤は愚痴ったことがある。あの時も、江藤は薫に負い目を感じる状況だった。田嶋も同じ心境だったはずなのに、あいつは眼鏡を押し上げながら、冷静に言ったものだ。
『僕がお前と同じ状況だったなら、同じことをしただろう。お前はよくやった』
『それでも……時々思うんだ。あいつを死なせてやるべきだったのかもしれない。今のあいつは……全部諦めた顔をする』
田嶋は動じなかった。
『生きていれば、いつか状況は変わる。いいか、佐木が命を投げうっても家族を助けたいと願った行為と、お前が全力で佐木を止めた行為は、本質的に同じものだ。佐木は生き残り、今なお我々と行動を共にしている。それがすべての答だ。お前が引け目に感じることは何ひとつない』
今回も、田嶋は江藤に「よくやった。お前も休め」と言っただけだった。
田嶋は強い。江藤は自嘲気味に思う。自分は今回、それこそ薫の状況が変わりそうなところで、支えきれなかった。
怜を見つけないと。
それは江藤なりのケジメだった。自分が信じたものの答え合わせをしなければ、納得がいかない気分だった。
だが、怜は見つからなかった。高遠が自分の城に置いている可能性も考えて、潜り込んでいる者たちに怜の捜索を依頼したが、それすら成果はない。
徹底的に捜しても、死んだかどうかさえわからないという事実は、江藤をさらにイラつかせている。
情報が皆無ということは、鉄の意志で口をつぐんでいる奴がいるからだ。命がけで協力するような人間を、怜はすでに手に入れている。
他人の感情をかき乱し、自分の命を投げうっても守ろうという気持ちにさせる、その怜の『才能』を、江藤は直接その目で見た。
『オレは自分の意志と関係のないところで、裏切り者なんです』。
あの時の怜の目を、江藤は忘れられずにいる。愛そうと憎もうと、結局そうした感情は薫を傷つけるために利用されるだろう。その達観に近い狂気は怜を蝕んでいた。
江藤でさえ恐怖を感じるような強烈な引力は、いとも簡単に誰かの運命を狂わせる。怜が見つからないとは、そういうことだ。
イシュマエルねぇ……。
怜の怖ろしさは、その本質が無垢であることからきていると、江藤はぼんやり思っていた。おそらく、薫を騙そうと思って騙したのではないだろう。自分が無垢で善良、純粋であることを利用して他人を思い通りに操っているのに、本人がそれに無自覚であることが、江藤にとっては恐怖の真の原因だった。自分自身さえ騙しきる究極の演技だ。
高遠は、そうした怜の本性を利用したのかもしれない。薫が撃たれるのは必然だったのだろうか。
気を紛らわせたくて、江藤は本を再び持ち上げ、ぱらぱらめくった。ネットで物語を読むのが普通になると、逆にこうした古典は手に入りにくくなった。原文は海外のサイトで読めるが、翻訳されたものはダウンロードできないものが増えた。
紙媒体を手に入れるのが簡単というわけではないが、物理的な形で残っているものは、地方の図書館などに確実にある。さらに田嶋は薫に影響され、打ち捨てられた本を集めて成田に私設図書館を作っていた。
薫の『司書』としての仕事は、彼自身の思惑以上に、この国全体を建て直すことへ繋がっている。
「なぁ、次は何を読んだらいい?」
溜息をひとつつくと、江藤は動かない薫に話しかけた。
「なんだかんだ言って、『白鯨』は面白かったぞ。船長は間抜けだったけどな」
船長という言葉に、薫は反応した。数回のまばたきの後、視線がさまよい、江藤を見つける。
「読み終わったのか」
かすれた声に、江藤は微笑んだ。
「ああ。あれだけエラそうにしてた船長がいとも簡単に死んだの、お前みたいだな」
薫が力なく笑う。
「スターバックも海の藻屑だ。……悪いことしたな」
「違いないな」
肩をすくめると、江藤は椅子を引っ張って薫の近くに寄った。静かな部屋の中、点滴がぽたりと落ちる。水の底から天を見上げ、薫はそこに貼り付いたシミの形に方角でも読み取ろうとしているのだろうか。途方に暮れたように、また繰り返される問いかけ。
「イシュマエルは、行ってしまったんだろうか」
あいつは羅針盤にもならなかったよ。
江藤はそう言おうか迷い、黙ってサイドテーブルに頬杖をついた。目を覚ましてから、薫は怜のことしか話していない。
この調子なら、止めても聞かなかっただろうな。
寄り添ってくれる存在を愛しく思う感情はわかる。高遠への復讐を諦めさせた後も、江藤はずっと薫を見てきた。薫が暗い図書館の奥で何を考え、何に疲れていったのかを、江藤は知っていた。懐中電灯しかない闇の中で、薫はすべての者たちのために、灯を守らなければならなかったのだ。
外に出たいと何度か言った薫を押しとどめたのは江藤自身だった。薫を守るためという建前の内側に、自分が責任を分け合いたくないという本音が隠れていなかったか。江藤は己のそうした逃げを恥じてもいたし、後ろめたい気分にも駆られていた。
すべての過去を呑み込んで、江藤はずっと薫の枕元で『白鯨』を読んでいた。暗闇で孤独に本を読んでいた薫の気持ちが切なかった。薫が誰かに安らぎを求めたくなったのも当然だ。
相手が怜でなければよかったのにと思う。よりによって、存在の中に裏切りを埋め込まれた者を、そうと知っていて選んだのだ。危険と隣り合わせの関係を選ぶ倒錯した感覚は、薫でさえ制御できない、感情の暴走だったと考えるべきか、あるいは、強い感情によって裏切りを封じられると見込んだ、自信によると捉えるべきか。
怜のことばかり考えても、埒はあかない。薫だってクセの強い性格なのだから、お互いに他の人間には惹かれなかった、そういうことだ。
2人が激突するのは避けられなかった。そこに高遠が絡んでいることは確かだが、それでも、強烈なエネルギーを持った2人の痴話喧嘩は、遅かれ早かれ起こることだったのではないか。高遠は2人の関係をうまく煽り、自分にとって一番有利なタイミングで2人がやらかすように調整しただけだ。
田嶋の言うとおり、自分は全力を尽くしただけで、最終的な責任は薫が怜を選んだことにある。それは確かなことではあるのだ。
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