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第129話 【2年前】(75)

 いつの間にか、うとうとしていたらしい。江藤は身を起こし、時計を見た。太陽は傾き、夕暮れに差し掛かろうとしていた。  考え事は、覚醒すると同時に再び江藤の頭に戻ってきてしまう。  薫は怜を諦めるだろうか。できれば諦めてほしい。だが、ことは高遠──怜の父親が絡んでいる。8年前『政府』内で薫が高遠とやり合った時、江藤や田嶋は時間をかけて薫と話し合った。その時、薫はしぶしぶ田嶋の説得に応じ、『政府』から高遠を追い出すことで矛を収めた。  田嶋と江藤は薫に対して、ある秘密を抱えることにはなったが、『政府』を分裂させる最悪の事態は免れた。  あの時から燻り続けている感情がまだ薫に残っているなら、今度こそ薫を止めることはできないだろう。それはもう、諦めに近かった。親子2人に裏切られたのだ。あるいは、高遠がまたも薫の大事な者を奪ったと言うべきなのか。薫が暴走したとしても、もう誰にも止める力はないし、止める資格もない。  まぁ薫がどうなっても、自分は最後まで見届けるしかないんだろうな。  仕方ないという思いで、江藤は薫を見おろした。どうせ、最後まで横にいるのが俺の仕事だ。 「イシュマエルは、どこに行った?」  まただ。繰り返される問いかけに、江藤は覚悟を決め、答えてみることにした。 「言っとくが、あいつはどっちかっていうと白鯨側だろ。お前の船の無力な下っ端だと思いたいなら、別に止めないが」  怜はお前を裏切ったんだろうという質問を暗に投げかけてやると、薫は深い溜息をついた。 「そうだな。……あぁ、そうだ。それでも……」  切ない声だった。物事は思い通りにはいかないものだ。その哲学だけは、薫と自分に共通している。問題は、何を諦めるか、なのだ。仕方ないさ。俺も結局は、親友の心配しかしていない。 「……あいつは現在、行方不明だ。高遠のところに潜っている連中にも捜索を依頼しているが、報告は上がってきていない。合田も知らないと」 「どこにも?」 「ああ。全く手がかりがない状態だ。もうこの際だ……諦めたらどうだ? あいつを追っても疲れるだけだ。それに……個人的な感想を言わせてもらえば、あいつはやめておいた方がいいと思うぞ。なにせ、怖すぎる」 「怖い?」 「ああ。俺は近づきたくないな」 「へぇ」  その返事は、からかうような響きだった。薫は怜の本性を知り尽くしている。知っているからこそ、江藤が怜の本性を見抜いたこと、そしてそれに『怖い』という感想を付けたことを面白がっている。  やれやれ。  なんだかんだ、2人は似た者同士だ。薫もまた、善良な部分をそのまま保とうとする純粋さと、善良ささえ利用するような計算高さとを併せもち、激しい感情を秘めながら人一倍それを抑えこもうとする。あれこれ考えすぎて身動きがとれなくなると、突然爆発したように命綱を切るような真似をする。  気づけば、薫はまたも眠っていた。怜を諦めさせたら、薫はこのまま死ぬのだろうか。江藤は今もって自分の態度を決めかねたまま、『白鯨』を膝に置いて薫の横に座っている。  突然、個室のドアがノックされ、江藤はびくりと肩を動かした。  とっさに時計を見る。今日の夕食のことを考えていなかった。江藤は溜息をひとつつくと、「どうぞ」と返事をした。  入ってきたのは田嶋だった。いかにも『政府』の仕事を抜けてきたという雰囲気のスーツ姿は相変わらずだ。もっとも、田嶋が隙を見せること自体、あまりない。大学時代からの彼を知っている江藤でさえ、時々、当時のダサいポロシャツ姿の方が幻だったような気がするほどだ。  そんな田嶋も、彼なりに心配しているのだろう。なんだかんだ言いつつ毎日のように病室に顔を出している。ドアを閉めると、田嶋は江藤に向かって、弁当屋の袋を持ち上げてみせた。 「様子はどうだ? どうせお前のことだ、夕食のことをまた考えていないのではないかと思ったのだが」 「あ~、よくおわかりで」  江藤が肩をすくめて見せると、田嶋は表情ひとつ変えずに隅のテーブルに弁当を置き、ベッドを回り込んで江藤のいるところへやってきた。椅子をガタガタ引っ張って自分も座る。 「で? 何か話したか」 「いや。相変わらずほとんどの時間、ぼんやり天井を見てるだけだな。チームリーダー達も毎日交代で来てるんだが、反応が鈍いままだ」 「そうか」  言ったきり、田嶋はしばらく黙って薫の寝顔を眺めた。それから窓枠に寄りかかり、江藤と同じように腕を組む。ヨレヨレのTシャツを着た江藤と、ぴしりとしたスーツ姿の田嶋とは対照的な服装だったが、2人は並んで薫の方を向いていた。 「細胞の再生はうまくいっているのか?」 「ああ。体の方は、一応後遺症もなく回復できそうだということだった。今の医療ってすごいよな……お前には、世話になった」 「それは直接、佐木の口から聞きたいセリフだ」  溜息交じりに言うと、田嶋は身を乗り出し、薫の顔をのぞきこんだ。 「聞いてるのか? 佐木。ヘリコプターの搬送代、手術代、入院費。きちんと立ち直って、僕に全額返済してくれなければ困る。皆……お前が戻ってくるのを待っているんだ」  内容はなかなか酷かったが、それが田嶋流の冗談だということを江藤は知っていた。一瞬のためらいもなく、田嶋は自分が手配できる最高のものを揃え、すべての支払いに自腹を切った。 「お前、仕事は?」  江藤はぼんやり薫の顔を眺めながら聞いた。 「抜けてきた。押している分は今夜終わらせる」 「ちゃんと寝てるのか?」 「脳の機能が低下しない程度の睡眠時間は確保しているつもりだ」 「そうじゃなくて……」  ちらりと田嶋の顔に目をやる。無表情なくせに、目の下には微かにクマが浮いていて、引き結んだ唇は色が薄かった。  それ以上言わず、江藤はサイドテーブルに手を伸ばした。 「コーヒーでも飲むか」 「そうだな」  田嶋は薫の顔を眺めながら静かに続けた。 「江藤。これからのことなんだが」 「あ~、そうだな……」  正直、今は考えるのが面倒くさい。江藤のそうした気分を気遣うように、田嶋は眼鏡を押し上げながら、ためらいがちに言った。 「この間少し話したように、近くのマンションを一部屋買い取ったんだ。3LDKで……間取りはどうでもいいか。ここに入院し続けるのではなく、そちらに移って治療に専念したほうがいいのではないかと思う。屋島の方からも、ここでは警備がどうしてもやりにくいので、場所を移したいという要請があったからな。そこなら日常に近い形でリハビリに専念できるだろうし、その、薫がこのような状態であれば、生きていることを公表すべきでは……ないのではないかと」  しげしげと顔を見ると、田嶋は目を逸らした。 「ほんとにマンション買ったのか?」 「ああ、その、佐木も大変な時期だろう? 中古でいい物件が見つかったんだ。お前もそこで、今後の身の振り方をゆっくり考えられる」  江藤は半ば呆れていた。マンションを買ったって? この間、そういう相談をしたことはした。身体の方がなんとかなったら、退院しなければならないのも確かだ。だがそれにしたって、ポンとマンションを買うなんて、やりすぎじゃないのか? 「感謝はするが……そこまでやるか?」 「先のことを考えてほしいだけだ。僕の考えは以前から変わっていない。2人には、ゆくゆくは『政府』に戻って欲しいんだ。まぁ、先行投資になればという下心があることは認める。ただ、何をするにしても、佐木がこの状態では見通しは暗い。佐木の安全を確保しつつ、リハビリと療養に専念させるために一番良い方法を」  焦ったように早口でしゃべる田嶋を、江藤は見つめた。田嶋の頬が赤くなり、それを隠すように指先が眼鏡を押し上げた。 「田嶋お前、寂しんぼか?」 「そういう感傷的なものではない! 僕はこの国の将来を考え、佐木のような人材がこのまま朽ちていくのに耐えられないだけだ!」  半目になると、江藤はマグカップを田嶋に渡した。薫と江藤が『政府』を抜けた時から、ひとりで残ったことに田嶋が負い目のようなものを感じていることは薄々感じてはいたが……。 「それに……僕は後悔しているのかもしれない。8年前の僕の決断は、果たしてよかったのか、どうか。『政府』を崩壊させてでも、僕は……佐木に好きなようにさせるべきだったのかもしれない。そうすれば、今回の事態はそもそも起こらなかった」  薫に未だに言えていない秘密を、2人は思った。  あのことを知っていたら、薫はもっと容赦のない決断ができたかもしれない。もっと冷酷に、もっと確実に、もっと早く勝利を手にしていたかもしれない。  物思いにふけりながら、江藤は薫を見る。 「まぁ……とりあえずそのマンションに行くか……薫の奴も、いつまでも刺激のない病院じゃ暇だろうし」  薫はいつの間にか目を覚ましてはいたが、聞いているのかいないのか、天井を眺めて黙っていた。

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