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第130話 【2年前】(76)
マンションに移っても、薫の容態はまだ芳しくなかった。日中はずっと、リビングのソファーにぼんやり座っている。ここなら、横になることもできるし、起き上がって背もたれに体を預けていることもできる。
薫本人は病院で江藤と話したことを覚えていたが、それきり、またも意識は彷徨い続けていた。少し気持ちが動く日があると思えば、次の日は何ひとつ考えられない。
周囲の声はいつもモワモワとしていた。水の中にいる時のように、誰かが何かを言っているのはわかるのだが、それが意味をもつ言葉としてくっきり輪郭を持ってこない。声を出している者の口元を見ようとしても、集中するのが難しかった。
あぁ、口が動いている……と思う。それが音声を出しているのだ、ということに気づく。音声には意味があるんだったな、という発想が次にくる。意味、意味ってなんだっけ、と思っているうちに、疲れて眠くなる。その繰り返し。
そうして何日経っただろうか。
「怜については?」
江藤の言葉がはっきり聞こえたことに、薫自身が驚いた。その単語はくっきりとした『意味』の輪郭をもって薫の脳に切り込んできた。ぼんやりと江藤を見る。数人が集まって話し合いをしているのだ、ということに思い至る。
病院で自問自答のように江藤と話したことを、なんとなく思い出す。
江藤の口が再び動く。
「怜についてなんだが……」
怜。
薫は江藤の顔に集中しようと身を起こした。彼の口が動いているし、そこから音が出ているのもわかる。だが意味を考えるのはひどく疲れる。
それでも、久しぶりに薫は何かを考えようとしていた。ふらふらと脳から抜け出ていく意識をかき集めようと手を伸ばす。眠りたくなる感覚を叱り、単語の輪郭がよく見えるよう目をこらす。俺はその言葉を知っている。重い頭をゆっくりと持ち上げ、薫は口を開いた。声を出すのを忘れかけていた喉からは、しゃがれた声しか出なかったが、しかしそれは確かに部屋の空気を揺らした。
「怜は……どこに行った」
突然声を出した薫に、部屋が静まり返ったのがわかった。
視線を上げる。江藤とチームリーダーたちがミーティングをしている真っ最中であることに、ようやく薫は気づいた。全員が口を開けたまま、こちらを凝視している。その事務的な雰囲気と間抜けな顔とのギャップが少し面白くなって、薫は力の入らない頬でかすかに笑った。
「怜は、どこだ」
繰り返すと、江藤が平静を取り繕いながら答える。
「あ~っと……聞いてたんなら言えよ、薫。今朝になって、ようやく目撃証言がひとつだけ上がってきてだな」
思考がぼやける。怜、怜って誰だっけ。
あぁそうだ、怜……たったひとつ、意味のある言葉。その意味を思い出そうと、薫は眉間に皺を寄せた。大事だったはずだ。命よりも。人生よりも。
思い出した途端、ものすごい叫びが喉から迸りそうになり、薫は口を押えて丸まった。体を締め上げるような痛みで吐きそうだ。
怜という言葉──いや、それは名前だ。名前が持っている繊細な温もりが、薫の胸に突き刺さっていた。銃弾の傷痕がズキン、ズキンと脈打っている。
丸くなった薫を、全員が心配そうに見ている。
「怜は、どこだ」
かろうじて、薫は同じ質問を繰り返した。それ以外に何を言えばいいのかが、わからなかったからだ。
「現在の居場所はまだ不明です。今朝の証言によると、宿舎近くで銃を持ったままフラフラしていた小柄な男が、別な男に白い車で連れ去られたとのことです。怜だという可能性が高くて、詳しいことを──」
この声は……聞き覚えがある。薫はそちらに顔を向けた。全員見覚えがある。彼らも俺の人生に関係があったはず。忘れてはいけない連中だったような気がする。
少しずつ、薫は周囲の状況を認識しようとしていた。眠りの沼へと意識が沈もうとするのに、必死で抗う。寝るな。今寝たら、また同じことの繰り返しだ。巨大な手が頭に圧し掛かり、どろりとした黒い水に頭を押し込もうとしてくる。
「銃を……」
これじゃ思考ができない。考えろ。沼の縁に手をかけようとして、手がぬるりと滑る感覚。
薫は手で顔をさすった。瞼をこすり、額を覆う。
「白い車、怜、行方が」
切れ切れに口から出る言葉の意味をたどる。何を考えていたっけ。疲れた。眠りたい。いやだめだ。思い出せ、何を考えていたのか思い出さないと。眠い。頭が重い。誰だ俺の頭にバケツをかぶせた奴は。
怜。
「生きて……いるんだな」
誰かがまた話し出す。「誰か」じゃなくて、「誰が」話しているんだ?
いい加減にしろ。
自分で自分に腹を立て、薫は歯を食いしばった。どうしても考えなければならないということだけはわかるのに、どうやって脳を使えばいいのかを忘れている。
ゴン、という音が部屋に響いた。同時に、ジンとした痛みが拳から肩に抜ける。膝も痛い。腹立ち紛れに力いっぱい自分の膝を殴ったのだ。痛みのおかげで、脳がほんの少し動きだす。
「考えろ。寝るな。ねる……な」
もう一発。沈黙が流れ、全員がこちらを見つめる中で、薫は容赦なく膝を殴った。激しく動くと、胸の真ん中を強烈な痛みが貫いていく。薫は身をよじりながら満足した。胸の中の痛みだけではない。皮膚の表面の傷痕が引きつっている。そうした物理的な痛みを追う。頭が冴えていく。
そうだ俺は撃たれて……。
最後に見た怜の瞳が、一気に脳にあふれ出る。洪水のように絶望が押し寄せる。
「うあ……」
思わず丸くなった薫に、リビングのテーブル周辺にいた連中が立ち上がったのがわかった。ガタガタ音を立てて全員がこちらに来ている。
来ないでくれ。見ないでくれ。
顔の前に弱弱しく手をかざそうとしたが、割って入るように江藤に顔をのぞきこまれる。
「おい薫、落ち着け。な? いきなり全部思い出そうとしなくていい」
そうじゃない、そうじゃないんだ。今ここで思い出さないと、また取返しがつかなくなる。
「ダメだ……考え、考えないと」
「考えなくていい。よく眠って、気力が満ちたら脳はまた動き出す」
それじゃダメだ。間に合わなくなる。震える手で髪を掴み、薫は必死で頭を使おうと、もがき続けた。
何に……何に間に合わないんだ?
考えろ、考えないと。
体を丸める。心配そうに見るな。俺を憐れむな。頼むから。
「チームが、チームは動いていた。俺が、あんな」
「いいから寝ろ。な?」
何かプラスチックのパッケージを開ける音がした。
「薫、薬を飲んだ方がいい。気分が楽になる」
嫌だ、楽になんかなりたくない。痛みがいい。絶望がぬるりと体に絡みつく、あの感覚はうんざりだ。
「触るな」
震える唇で、薫はかろうじて言った。
「薬なんか、絶対、のま、のまない」
「わかった。無理に飲ませたりはしないから、ここに置くぞ? 薫、それともベッドに行くか?」
話をそらすな。何を話していたんだ。あぁそうだ怜だ。怜はどこに行った? チームは今どうなっている? 俺がトップだ。なんとか、なんとか考えないと。
「チームが、図書館に」
「そうだな、みんな集合していた」
「怜はどこだ」
「見つけるから、お前は寝ていていい」
いいわけない。浅くせわしない呼吸を繰り返し、顔をこする。
「佐木さん、横になった方が」
誰かが肩に触れる。力の入らない手でそれを振り払おうとするが、意志に反して寝かされる。
「考えないと、こんな、寝てられない」
「焦らなくていい。今はお前が寝る番なんだから、寝ておけ。な?」
薄く目を開ける。霞んだ視界に数人の顔らしきものが見える。心配そうな顔がぼやけ、声が再び、意味をもたないモワモワした響きになっていく。
「怜、怜はどこだ」
その答えを聞きたいのに、薫の意識はまたも黒い沼に堕ちた。
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