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第132話 【2年前】(78)
次の日も、薫は考え続けていた。怜は一体、どこへ消えたのか。
怜のことは諦めた方がいいと、江藤たちは考えているだろう。
だが無理だ。怜を手放せるわけがない。
始めて怜の目を見たあの瞬間から、こうなることはおそらく決まっていた。茫洋とした瞳の奥に潜む、深い哀しみと柔らかい共感に、いつの間にか焦がれていた。この腕の中に怜を抱き込んで眠った時間はかけがえのないものとなり、その穏やかな笑顔は忘れがたい温もりを闇に投げかける。
同時に、燃える図書館の中で狂気を深めていった瞳にも、薫は強烈に囚われていた。パニックで唇も手も震わせながら、怜は血のように赤い炎を瞳に映し、薫だけを見つめていたのだ。
こうして生きながらえた今、薫の執着心は明らかに強まっていた。もはや妄執といってもいいほどに、薫はもう一度この腕の中に怜を閉じ込めたいという渇望から逃れられずにいる。怜は自分が薫に見合う人間的な価値を持たず、手元に置く理由がなくなれば切り捨てられるという考えに追い詰められた。裏返せば、怜は薫を愛している。価値がないと思い込んだ自分自身の魂を、粉々に砕いてしまうほど。
その激情は、今この瞬間も薫の胸の中心に突き刺さったままだった。身じろぎをするたびに傷痕は鋭く痛み、息をこらえて耐えなければならない。
怜。お前はどこにいる。
薫の脳は、その一点に集中するためだけに、現実に戻ってきた。自分を撃った男への、復讐心にしか見えないほど凶暴な想いを胸の中で引き攣らせながら、薫は考えようともがいていた。
あの最後の怜の瞳を見ていない者は、誰も薫を理解しないだろう。あれは紛れもない絶望だった。怜は愛が終わることに恐怖したために、自分で愛を終わらせなければならなかった。それなら、逆に希望はある。もう一度。もう一度だ。怜を探し出せれば2人の関係も東京も立て直せる。
ただそれには、高遠より先に怜を見つけるという条件がついている。高遠が怜を捕獲してしまえば、本当にすべてが終わってしまう。その焦りは、急激に頭の中で形になってきていた。
こうなったら、何もかも放り出して元凶の高遠のところに乗り込み、奴を撃ち殺したくてたまらない。怜から高遠のことに考えが及ぶたびに、薫はわめき散らしてしまいそうだった。
あのクソ野郎。北で狙撃した時、絶対に奴の頭を撃っておくべきだった。余計なことをあれこれ考えすぎなんだ俺は。次こそは奴をこの手で撃ち殺さなければ、腹の虫が収まらない。そもそも怜を操って思い通りに動かした、奴の神経が腐っている。
関節が白くなるほど強く拳を握る。体中がギシギシする。
怜を奪った男に対して、薫は憎しみしか感じなかった。怜に対する葛藤よりも、はるかに混じりけのない感情だ。次に奴の顔を見た時は、問答無用で撃ち殺す。それは決定事項だった。
薫を苛んでいるのは怜であり、父親の高遠は通りすがりに踏み殺してやれば、それでいい。薫は今や、心の底から高遠を蔑んでいた。ある意味、怜への執着と同じぐらい、高遠への興味は失われていたのだ。奴を「どうするか」を考えるために使う時間を、薫は一秒も必要としていなかった。
怜。考えるべきは、怜のことだけだった。
いつの間にか、時間は昼下がりになっていた。静かな陽射しが差し込むリビングで、薫はうつむき、タブレットを見る。少しずつ報告書を読んではいたものの、集中しようとすると、どうしても頭痛の気配が首の後ろからじわじわと湧いてくる。
いや、それでもマシだ。文字が読めるところまで、俺は回復している。リハビリも進んでるし。
自分にそう言い聞かせながら、薫は一人で報告書と格闘した。
内容自体は、薫が撃たれてからの経緯が簡潔にまとめられており、読みやすい。いつも思うのは、自分が本当に部下たちに恵まれているということだ。
図書館が炎上した後、グループは高遠の配下に一気に蹴散らされたが、江藤は最後まで指揮を続けた。薫をヘリに乗せた後、すぐチームを編成し直して近くの施設に拠点を移し、中央線を遥か西から迂回してなだれ込んだ、高遠の最後の手勢と渡り合った。
それは、勝ちを目指さず、味方が撤退するまでの時間稼ぎと割り切った、冷静な判断力の結果だ。屋島と宮城が味方全員を安全なところへ誘導する間、江藤と高田は小さなグループを率いて高遠の攻撃をしのぎ切った。
最後に江藤たちが拠点を脱出し、車で神奈川に入ったところまで読むと、薫はソファーに横たわった。
申し訳ない気持ちと同時に、仲間の有能さには改めて舌を巻く。江藤は指揮官としての役割を全うしていたし、他の3人は死者を出さずに、きっちりと神奈川まで陣を引き下げた。元々、神奈川の統括ペンダントは江藤の部下の預かりだったからだ。
それだけの仕事をやり遂げておきながら、連中は別に何かを薫に言うわけでもなく、飄々と後処理をやっている。江藤なんて、抗争前も表向きリーダーとして振る舞っていたのだから、そのままリーダーとして行動していいはず。それが薫を無視することなく、のほほんとミーティングに薫を座らせている。
いっそ見捨てられた方が楽なんだが。
なんならクビにされた方が身軽だというのに、どういうわけか、薫はマンションを用意され、おとなしく報告書を読むハメになっているのだ。
さて……どうしたものか。
溜息をつき、報告書に戻る。寝転がったままタブレットをなんとなくスクロールしていき、最後に近い部分で薫は指先を止めた。
これは……。
報告書の最後のほうに、高遠親子の経歴がまとめられている。
そこには薫が知らなかった情報がいくつも書かれていた。『政府』を追われてから東京に戻るまでの高遠の足取りがまず調べられていて、それと共に、怜が住んでいた長野県の住所、卒業した学校の名前、母親のかつての勤務先、怜の母と祖母の死のいきさつなどが並ぶ。
薫がいつか知りたいと思っていた細かい怜の生い立ちが、なんとまあ、素知らぬ顔でそこにあった。
薫は思わず起き直った。屋島の仕事だということはすぐ分かった。
怜に関する最も繊細な部分。怜の母親が過労で──いや、表向きは過労となっているが、弱り方が妙に速いという、母親の元同僚の証言まで、ご丁寧に添えられている──死んだという事実や、家に祖母がひとりでいた「はずの」時に階段から落ち、怜が学校から帰ってきた時には冷たくなっていたというショッキングな事故。
怜はそうした過去のことを、誰にも話していない。薫には、なんとなく怜が話さなかった理由が理解できた。東京に来てからの方が、もっと過酷だったからだ。故郷でのことをうかつに思い出せば、精神がもたない。薫自身が同じだった。陽哉のこと、両親のこと。薫もまた、過去を思い出すこと自体がほとんどできずにいる。
何もかも、すべての悲しみを混沌の黒い沼に沈め、怜は人生を放棄してもおかしくない状態にある。
同時に、薫は怜の少年時代を思った。母親と祖母に愛され、無邪気に笑う幼い怜を想像すると、指先が痺れるほどの愛しさがこみ上げる。あの図書館で、哀しみを湛えて料理の本をめくっていた孤独な姿を思い出して、薫は目をつぶった。
俺たちはこんなにも似ているのに、こんなにも近くにいるのに、どうして引き離されてしまったんだろう。
手の甲でまぶたを覆い、薫は深く息を吐いた。怜に会いたかった。人生のすべてと引き換えにしてもいい。ただ、怜にもう一度触れたかった。
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