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第133話 【2年前】(79)

「大丈夫か?」  気遣うような声に、薫は目を開けた。いつ来たのか、江藤が心配そうにのぞきこんでいる。 「……あぁ」  何を言えばいいか分からなくて、薫は曖昧に返事をした。時計を見る。思ったより時間は進んでおらず、2時になるところだった。江藤は少しだけ薫の様子を伺うと、それ以上は何も言わずにキッチンに入っていった。  ゆっくりと立ち上がり、体のだるさをこらえて江藤の後についていく。今は誰かと話したい気分だった。考えすぎたせいで、再び頭痛の気配が湧いてきている。  キッチンを覗き込むと、江藤は冷蔵庫の中に頭を突っ込んでいるところだった。タッパーを取り出し、蓋を開けながら薫の方を見る。 「遅くなってすまん、昼飯用意してやるから座って待ってろ」 「悪い」  起きられるようになってきたか、と嬉しそうに呟き、江藤はタッパーを電子レンジに突っ込んだ。薫はおとなしくダイニングテーブルに座り、対面のカウンター越しに江藤が動き回るのを見ていた。 「で? 調子はどうだ? 午前中は動いたのか?」  のんびりした問いかけに、薫は努めて明るく答える。 「ああ。ストレッチをして、ウォーキングマシンで少し歩いた。お前は?」 「ん~? 田嶋にドヤされて、『政府』に顔を出してた。経産省に正式にブチ込まれそうな雰囲気で、気が滅入ってる」  ペットボトルの麦茶をグラスに注ぎ、江藤はカウンター越しに薫に差し出した。受け取って一口飲む。よく冷えた麦茶のおかげで、少しだけ気分がすっきりする。 「経産省に出戻りか」 「東京の奪還が今はメインだから、やるとしたら兼業だと田嶋には宣言してあるがな」  チンという軽やかな音を待って、江藤はタッパーを取り出した。中身は雑炊のようだ。江藤は適当な器にそれを移しながら、話を続ける。 「田嶋いわく、お前は警察庁、あるいは防衛省らしい。好きなのを選べとさ。あいつの中で、もうお前は『政府』に戻ってくることになってるみたいだ」 「本気か……っていうか防衛省? 法務省じゃなくて?」 「どっちにしても、あいつ、かなりゴツいところにお前を放り込むつもりだな」  雑炊を受け取り、薫は大きく息を吐き出した。正直、今は『政府』の方で仕事ができる状態じゃない。高遠に東京から追い出された形で終わるのも癪に障る。そして何より、怜のことがある。 「なんだか強引だな」  江藤からレンゲも受け取ると、薫はどんよりと雑炊を見つめた。田嶋なりに心配してくれているということだろうか。少なくとも『政府』は東京よりは安全だ。ロケット砲を撃ち込まれる騒動も、血にまみれた銃撃戦も、成田ではそれほど心配する必要がない。  とは思ったが…自衛軍の統率とは、また随分と薫の専門とは離れた仕事を割り振ってきている。  雑炊をぼんやりかき回しながら、薫は考えこんだ。自分が『政府』の方に参加するとなれば、高遠を押さえ込む力は明らかに弱くなるだろう。おまけに怜の捜索もままならない状態になる。今は中央線南を奪還するという目的があるため、ついでに情報を集められるが、東京から離脱すれば、そうした情報を得られる立場は失われる。  結局のところ、自分と高遠との個人的なしがらみが高遠への抑止力にもなっていたことに気づいて、薫は余計に気が滅入った。あのクソ野郎と自分、そして怜とは簡単に切れない糸で繋がれている。こちらからそれを切れば高遠を邪魔する者はいなくなり、東京どころか関東全体が奴の独裁になりかねない。  江藤はパックライスを温め、湯煎したレトルトカレーをかけると、スプーンを突っ込んだ器を持ってダイニングテーブルにやってきた。薫の向かいに座り、慰めるように口を開く。 「なぁ、俺はともかく、お前は……田嶋の話を一回ちゃんと聞いてみるのもいいんじゃないか?」 「防衛省に入るってか?」 「……俺が考えていることを聞くか?」  やけに真剣な声に、薫は視線を上げた。理知的な目が、正面から薫を見つめている。長年薫と共に戦場を生き抜いた親友が、何か本当に大切な忠告をしようとしていることに気づいて、薫は江藤を見返した。 「頼む」  江藤はカレーを一口食べてから、穏やかに切り出した。 「現時点で、お前は死んだことになっている。そして、防衛省か警察庁にポストが用意されている。今の日本で手に入る最大の武装組織だ。あいつが言いたいのはつまり、東京を一度離れて、もっと大きなものを見ろってことなんじゃないか?」 「あ~、まぁ……そうか」  田嶋は、自分が図書館の奥でのんびり本を読んでいる間に、かなりの大物になった。反対勢力を辛抱強く排除し、国家を運営するための組織を一から編成しなおし、不正を叩き潰しながら、田嶋は今や『政府』の最高権力者のひとりへと上り詰めようとしている。  成田に来て見えたのは、田嶋が『政府』を掌握しつつあるという事実だった。  なにが「成田から追い払われそう」なんだよ、と薫は思う。以前、図書館に統括ペンダントの認証に来た時に、田嶋はそんなことを言っていた。高遠が賄賂で『政府』に食い込み、無能な連中が会議ばかりしているとかなんとか。  実際には、田嶋は組織全体に影響力を持ち、いとも簡単に江藤を経産省に放り込んだ。  あいつもタヌキだよな。  信念に忠実に、敵につけ入らせる隙を作らず、田嶋は黙々と仕事を進めてきた。その鋼鉄のような生き方は、誰もかなわない。彼の仕事は組織を作ること、人材を最適な場所に配置することだ。しかも自分がこうと決めたなら、断固としてそれを通す。  この国の統治機構を作り直す。それは田嶋が人生をかけて取り組んでいることだった。そのためなら、嘘をつくことにもためらいはない。 『言葉の綾』ってやつか。  田嶋に嘘だろと言ったところで、あいつは澄まして答えるだろう。『必要な人材は足りていないし、油断すれば僕の地位など、あっという間に蒸発する。だから嘘はついていない』と。  レンゲを持ち上げる。少し塩気のきいた雑炊を食べながら、薫は考えこんだ。 「協力したいっていう考えもあるが、ただ……今の俺に、それだけの気力があるだろうか……」  正直、精神的に落ちている今の状態で、巨大な組織と渡り合うだけのエネルギーが出せるとは思えない。 「ま、田嶋もまだ、お前の回復を待っている段階だろうよ。このマンションを買ったのも『先行投資』とか言ってたしな。しつこく待つつもりだ」  だろうな……と薫は力なく笑った。 「結局、俺は何も決着をつけられないまま、東京を去るのか」  自嘲気味に言うと、江藤は肩をすくめた。 「そうか? もっと大局的に物事に取り組んでみたら、案外簡単に高遠を潰せる気はするがな。怜を探すのは、東京と関係なく続けられるし。……それに怜と東京とは、切り離して考えた方がいいと俺は思うがな」  江藤の言うことは筋が通っているように思えた。『政府』の仕事なら、怜や高遠との個人的な感情と東京支配とは切り離して考えることが可能になる。怜とは、完全にプライベートな関係としてヨリを戻すことができるだろう。さらに、この国全体の権力機構を立て直せば、東京の外側から高遠を潰すことが可能になるかもしれない。  理屈から言えば田嶋の話に乗った方がいいのだが、今の薫はとにかく疲れ切っていた。宿敵に負け、最愛の人間に撃ち殺されて、薫の心臓には今も黒々とした穴が穿たれている。後悔や憎しみは行き場をなくし、穴の中でタールのようにどろりと粘度を増していた。  どこか旅行でも……いや、いっそ怜の故郷を見てみたいと、薫はふと思った。怜が幸せだった頃に見ていた景色は、どんなものだったのだろう。日の光に暖かく煌めく川や、さわさわと鳴る木々の葉の間に怜の面影を見つけに行きたいと願うのは、そんなに許されないことだろうか。  怜はどこにいるのだろう。  愛しい温もりと鋭い痛みとを同時に思い出さなければならない人生を、自分はこの先ずっと生きていかなければならないのか。  深い溜息をつくと、薫は気分を変えたくて顔を上げた。カレーをぱくつく江藤をぼんやり眺める。明日あたり、気分転換に自分で食事を作るべきかもしれない。 「それにしても……田嶋は俺に期待しすぎじゃないか? 俺が自衛軍と渡り合えるなんて、思えないんだが。それにお前たちも、問答無用で俺を叩き出したっていいだろう」 「叩き出されたいのか?」  からかうように江藤が言う。 「その方が精神的に楽な気もする。そもそも今回の件はモロに俺の責任だ。信用される価値なんか、俺には残ってないのに」  カレーを食べ終わり、スプーンを置いた江藤は、ニヤリと笑った。 「お前は相も変わらずお人好しだな。別に信用してるからお前をトップに置いてあるわけじゃない。信用なんて呑気なこと考えてるから、お前はいつまでもお前なんだ」  澄まして言う江藤に、薫は不満な顔をしてやった。 「どういうことだ」 「俺たちは、責任が重い立場なんぞ背負いたくない。信用されてるなんて頭に花を咲かせてるから、うまいこと全員に一番面倒な仕事を押し付けられて、トップに座らされてるんだ。つまり、誰もお前の仕事をしたくないから、お前はトップにいる。田嶋にしたって、愚連隊と化した集団の統率なんか誰も引き受けないから、お前がちょうどいいと思ってるんだろうしな。  ま、そんなわけだから、東京を高遠から奪還したっていいし、『政府』に戻ってこの国に秩序をもたらしたっていい。どっちにしたって、お前の場所を取り上げるなんてダルいことは、誰もやらない。余計な気を遣わないで、英雄への道を自信もって邁進してくれ」 「……もしかして、俺は今、けなされているのか?」 「おっ、理解できる程度には、そのポンコツ脳みそが動くようになってきたか。よかったよかった」 「…………」  薫がむすっとした顔で雑炊を口に運ぶと、江藤は噴き出した。抗争での失敗を江藤なりに慰めてくれているのはわかるし、実のところ江藤の言葉こそ、薫の率いているグループの体質なのだ。権力には興味がない。あくまで、ひとつの理念に沿って任務をやり遂げるだけ。自分の立場に不満がないから、怜を後継者にと考えた薫にも反対しなかった。 「まぁ……給料がないんなら、責任者なんて面倒くさいだけだよな……」 「本格的に降りたくなったか?」 「どうだろう……ただ、ひとつわかったことがある」  江藤が眉を上げるのを見ながら、薫は続けた。 「俺のやり方は、地位が上がっても得をしない。報酬は全員ほぼ同じで、仕事の出来に応じて上乗せされるだけ。必要な物資は全員平等に分けられる。役職がついたって、威張り散らせる権力も人より多い金も手に入らない。だから集まる人材は、物好きばかりになる」 「それはよろしくないってか?」 「いや、不思議だったんだ。なんだかんだ言って、高遠の方が手勢は多い。この間も、最終局面でかなりの人数が再投入されただろう? 報告書によれば、押されているとわかってから、街をぶらぶらしてた連中を急遽かなりの金で釣ったって」 「ああ。ドンパチが始まってから、古参の者が向こうの街をマイクロバスで走り回り、有象無象をかき集めてこっちに送り込んだことがわかっている。高遠の部下たちは、いざとなったら高遠にゴマをすれるだけの資金を隠し持ってたってことだろうな」 「つまり、高遠のところは環境は悪いが、一攫千金のチャンスが転がってる。権力者に取り入れば、どんな奴でも美味しい思いができる」 「なるほど?」 「あっちはあっちなりに、メリットがあるってことだ。それを突き崩すには……」  江藤の視線に気づいて、薫は言葉を切った。頬杖をついたまま、江藤は穏やかな目で薫を眺めている。 「どうした?」 「ん? いや……だいぶ戻ってきたなと思って」  はたと言葉に詰まる。確かに、言われてみれば普通に思考している。 「……もしかして、俺は……何か考えている時の方が調子がいいのか?」 「かもな。だから屋島たちも何も言わないんだろうよ。怜についてでもなんでも、騒いでいる時の方が安心だ」  しみじみと言われ、薫は頬が熱くなるのを感じた。 「翔也にも、ずっと迷惑をかけてるな」 「いや? 俺がやってるのは電子レンジの開け閉めだけだ。飯を毎度作って冷蔵庫に入れてくれてる屋島に、礼を言っとけ」  そんなわけはない。使い物にならない薫の代わりに、江藤は中央線南のメンバーを束ね、再始動の可能性を見越して黙々と仕事をしている。  不意にこみ上げてきた感情に喉が詰まり、薫はうつむいた。すべてを失ってなお、新しい家族は薫の家に留まってくれたのだ。

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