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第134話 【2年前】(80)
その後も数日に渡り、薫はリハビリを続けながら報告書を読んだ。屋島たちが情報を取りまとめて書き足すたびに、タブレットには更新の通知が来る。薫は時に指示を出しながらも、依然としてマンションに閉じこもっていた。
怜のことは、何をしていても片時も忘れることはできなかった。まるで頭蓋骨の裏にへばりついているかのように、怜の姿はいつも鮮明な像となって脳の内に映し出されている。
気分が落ち込むと、薫は怜に関する部分を繰り返し読み、添付された写真を見つめた。怜の住んでいた家、近くの山、通った学校。
怜は自分の子供時代のことを話してくれたことがある。あの図書館の穏やかな時間は遠くなってしまった。それでも、薫は怜の寂しそうな微笑みや、穏やかな話し方を思い出すことができる。
子供の頃は、いつも山の中を走り回っていたと怜は言った。それを裏付けるように、怜が住んでいた家の近くには古い城跡や、ハイキングコースを備えた小さな山があった。整備されたコースはそれほど距離がなく、怜の足なら山頂まで1時間もかからずに辿りつけそうだ。
城跡も、春は桜が美しい場所らしい。調査にあたった者が撮った写真を、薫はそっと撫でた。緑に囲まれ起伏に富んだ城跡は、怜のあの身体能力を培うのに大きな役割を果たしたのだろう。木々の間を駆け抜ける伸びやかな背中を想像し、ソファーの上で薫は体を丸めた。
父親の言葉に踊らされ、自分自身を信じることができなかった怜は、今どこでどうしているのだろう。
こんなに美しい場所で育ったのに、なぜ銃を最愛の者に向けるような、残酷な人生へ放り込まれたのか。
玄関ドアの鍵が開けられる音に、薫は我に返った。視線を上げ、時計を見る。針は夕暮れを指していた。斜めに射し込むオレンジの光は、怜のいない空疎な片隅を照らしながら、今日も夜の淀みへ溶けていこうとしている。
入ってきたのは屋島だった。薫と目が合うと、挨拶代わりに眉を上げ、キッチンに入っていく。ひとしきりガサガサやり、買ってきた物を冷蔵庫に入れると、屋島はリビングに出てきた。
「夕食はうどんでいいでしょうか」
相も変わらず、ポーカーフェイスだ。
「ああ。ありがとう」
「いえ」
キッチンに戻る屋島を見つつ、薫は立ち上がった。一度、屋島とは丁寧に話し合っておかなければならない。薫と怜の内情を最もよく知っているのは屋島であり、薫の身の安全が今後も保証されるかどうかも、屋島にかかっている。
のぞきこむと、屋島は夕食の支度にとりかかっていた。鍋に入れた水をコンロにかけ、冷蔵庫を開ける。
「世話になってばかりだな」
屋島はネギを取り出すと、まな板に手を伸ばした。薫の方を見ずに答える。
「弱気ですね。座って待っていてください」
「すまん」
ダイニングテーブルに座り、屋島が動き回るのをぼんやり眺める。屋島は無表情に手を動かしていたが、やがてお湯にうどんを入れながら、ちらりと薫を見た。
「寝ていて大丈夫ですよ」
「そうもいかんだろ……なぁ……報告書のことなんだが……」
このタイミングで話すのは変な気もしたが、かといって、いつがいいかと言われても答に詰まる。屋島は屋島で自分のチームを率いて動いていて、実際に顔を合わせるのは数日に一度だった。
「長野まで行って怜のことを調べたのは、お前か?」
「いえ、実際に行ったのは木原です」
「指示したのは?」
「自分です」
簡潔な答からは、いつも通り何も読み取れない。だが長年のつきあいで、屋島はきちんと会話に応じる用意があるということを、薫は感じ取っていた。
「怜の過去、高遠の過去……今、この時点でここまで調べ尽くすには、かなりの労力が必要だったはずだ。それに、必要になるかどうかもわからない」
「必要かどうかを決めるのは、自分ではありません」
「それは……要は、俺がそれを必要と『する』のを待ってたってことだろう?」
「はい。全部読んだんですか?」
「ああ、読んだ」
その返事に、屋島は微かに頬を緩め、満足そうな顔をした。どうやら自分は、屋島の意図から外れた行動はしていないらしい。
屋島との会話はいつもこんな感じだ。屋島に実力を測られているような、妙な緊張感がある。小柄で目立たない風貌の屋島だが、中身が見かけ通りでないことを、薫はよく知っていた。
「俺が怜の情報を必要とする精神状態に戻ることを待っていた?」
「……」
冷蔵庫からカマボコを取り出すと、屋島はしばらく黙ってそれを見つめていた。やがてぽつりと言う。
「精神状態にも色々ありますがね」
これはヒントだ。
「そうだな。長野まで行って怜の面影に浸り、ついでに、傷ついた怜が故郷に身を潜めていないかを確かめたいと思うか──」
まな板にカマボコを置いたまま、屋島は黙っている。
「あるいは、怜を諦めて東京の奪還に集中するか。はたまた『政府』に戻り、自衛軍か警察の統率に頭を切り替えるか」
カマボコを切る音が、小さく鳴り始めた。とん、とん、という丁寧な音に、お湯の中でうどんが泳ぐ微かな音が重なる。カマボコを切り終える頃、屋島はぼそりと言った。
「怜を諦めるかどうかと東京の奪還は、一応、別な問題だと思いますが」
「それはそうだが……つまりそれはお前の考えも……私情を入れずに仕事しろっていうことか……?」
「佐木さんは怜が長野に逃げたと思っているんですか?」
唐突に聞かれて、薫は言葉に詰まった。唾を飲み込む音がやけに大きく部屋に響く。
怜はどこにいる。その問いに執着するのは、つまり怜が「どこにもいない」という考えを追い出したいからだ。東京で見つからないという報告を目にするたびに、心臓から生きる力が抜け落ちていくような重力を感じる。東京にいないなら、せめて怜が幸せだった場所に逃げ込んでいてくれればいい。切ない希望に、今の薫はすがりついている。
それを見透かされた気がして、薫は居心地が悪くなった。もう二度と会えないのだろうかという、感傷と絶望が混ざった気分は、撃たれた時から決して消えない。生きる気力を削いでいるのはその一点。この先何をしても無駄骨に終わるだろうという空虚感こそが、薫の魂を喰らっている。
「長野には……いないと報告書に書いてあった」
「そうですね。調べた限りでは、やはり怜は故郷に戻っていないと言わざるを得ません」
深く考えるのが怖かった。怜はどこかに「いる」はずだ。再び抱き締められる場所に。
なぜ調べたんだ。有能な人間が徹底的に調べた結果は、考えたくない可能性を暴き出す。
「長野にもいない。東京では見つからない。ということは……」
コンロの火を切り、ザルに上げたうどんを水にさらし──薫のために食事を用意しながら、屋島は口をきかなかった。
薫はこわばった顔で屋島の手元を見続ける。
お前は有能すぎるんだ。そして、俺の信念と能力を試している。怜が俺の元から永久に去ったという事実を知ってなお前進するだけの力をまだ持っているか、お前は見極めるためにすべて調べたんじゃないか。報告書を読んだ時から、薫はうっすらと、そんなふうに感じていた。
江藤と屋島は結託しているんじゃないだろうか。2人で薫を誘導して、怜から遠ざけようとしている?
冷蔵庫からタッパーを出し、屋島は中を確認していた。一昨日、屋島本人が煮込んでいた鶏肉だ。黙って薫の世話をし、警備を仕切り、情報を収集する。出会った時からずっと、屋島は薫の「影」だった。
江藤は言った。薫がリーダーの場所にいるのは、周囲の者が面倒だからだ。だが屋島に限っては少し違う。「契約」の時に屋島は言った。
あなたには、何ができるのか。何を成し遂げられるのか。それを知るのが自分の目的です。
屋島が最初から目指しているのは、薫を理想の指導者へと作り上げることであって、自分がリーダーになることではない。それは「契約」した時から互いの了解事項だった。屋島こそが薫をリーダーたらしめた存在なのだ。
だからこそ、屋島が怜のすべてを調べ上げたことには意味がある。屋島は何か……怜の行方に直結する事実を知っているのではないかと薫は思った。
逃げ出したい気分が頭をよぎる。怜がいない場所で、誰かに期待され続けることは苦しい。だからリーダーの座を追われるのは構わない。だが、怜との別れをはっきり突きつけられるのには耐えられない。
どこにも怜がいない。たったそれだけで、この世界はすべて色あせ、生きる価値さえ見いだせない。東京を立て直すというプロジェクトは自分が始めたはずなのに、それを進める原動力を失ってしまった。
屋島は薫に夢を託した。以前はその夢を理解し、屋島と組むことを楽しんでいた。対照的に、今の薫は怜を失いすべてを重荷に感じている。
鍋で出汁を温めながら、屋島は薫が次に何を言うのかを試すように、なおも沈黙している。
「怜はもう、いない……」
絞り出すような薫の声に、屋島は顔を上げた。
「弱気ですね。ちゃんと寝られてるんですか?」
「いや……あまり……」
不意に屋島が微笑んだ。
「ゆっくり寝てください。今はとにかく休んだ方がいいと思います」
「だが……」
「佐木さんは、結論が出てしまったと思っていませんか?」
「違うのか?」
薫の急き込むような問いに答えず、無表情に肩をすくめると、屋島は食器棚から丼を出した。それを2つ並べ、うどんをよそう。
「だから寝てくださいと言っているんです。自分は別に、怜がどこにいるのか何も言っていない。出過ぎた真似をしたくはないんです。ただ、佐木さんに必要な情報であると思ったから自分は収集した。それをどのように使うのかは、佐木さんが決断することだ」
「……怜がいない事実を早く受け入れろって……」
うどんの上に甘辛く煮込んだ鶏肉とカマボコ、ネギを載せると、屋島は温めた出汁をかけた。カウンターにそれを出し、自分はダイニングの方へ出てくる。
「とりあえず、夕食を食べましょう」
「……」
さっぱりわからず、薫は屋島の仕草を、ただ見ていた。丼が自分の前に置かれ、割り箸が添えられる。薫の向かいに座ると、屋島は再び微笑んだ。
「まぁ、料理はあまり得意ではありませんが、文句は出ていないようですので」
薫の疑問に答えず、屋島はうどんを食べ始めた。温かい出汁と醤油の香りがふわりと漂う。
「食べないんですか?」
それを無視して、薫は屋島に食い下がった。
「なぁ……答えてくれ。怜はいないということを、お前は俺に教えようとして報告書をまとめた」
割り箸を置くと、屋島は薫の目を見つめた。抗争の前と変わらない目であることに気づく。何を考えているかわからない表情ではあるものの、その目は落ち着き払っていた
「佐木さん、風呂は入ったんですか?」
「いや……まだ……」
「ではお湯を入れておきます」
「それより」
不意に、からかうような光が屋島の目を横切る。かすかなユーモアが唇の端に浮かび、消えた。
「怜のことをどうするか、何度も言いますが、自分に口を出す権利はありません。佐木さん、それは最初に約束したと思いますが」
「そう、だが」
「怜が見つかるかどうかは佐木さんの本質的な生き方とは関係がないのでは?」
「どういうことだ? 仕事と私情を切り離せと?」
ついに堪えきれなくなったように、屋島が噴き出した。呆気に取られてその顔をしげしげ見る。こんなふうに表情を出す屋島は、長年の付き合いの中でも初めてだった。屋島は我慢できずに手の甲で口元を覆い、くつくつと笑っている。
「佐木さんは、今まで仕事と私情を切り離したことなんかないでしょう。というか、今の東京では、『仕事』をしている人間がほとんどいないことがそもそもの問題であり、だからこそ佐木さんは今後の東京には、まだ必要であると自分は考えています」
「……切り離していないのは……確かにそうだが。仕事をしていない?」
「今の東京に、戦前と同じ考え方で『仕事』をしている人間がいるとは思えません。全員が何らかの動機を目的に動いているが、仕事という概念は崩壊している。生きるために、あるいは自分の目的のために、必要なものを手に入れようとしているだけだ。継続的に給料をもらえる安定した組織に帰属し、個人であるよりもまず組織の構成品として動くという思想で動いている者は、もう、いないんですよ」
珍しく、屋島が自分の考えをしゃべっている。なんだか懐かしい。屋島がこんなに話すのは、最初に契約した時以来だ。
「つまり……?」
「そもそも東京の最大のガンである高遠に、仕事という観点はゼロです。あなたと高遠との関係は、ずっと私情のみで成り立っている。奴にあるのはあなたへの私情であり、あなたがそれに対抗しようと思えば、強い私情なくして勝つことはできない。今回の抗争で負けたのは、あなたが私情を切り離し、冷静に東京の将来を計算したからだ」
はたと気づいた顔で、薫は屋島を見返した。
「……言われてみれば」
「そういうことです」
高遠は私利私欲の塊だ。それに対抗する人間も、律儀に公平無私な仕事人間である必要はない。ずっとずっと、薫に給料を払う者はいなかった。怜とその父親──あの高遠親子を処理するには、むしろ薫の内に潜む感情の強さこそが鍵なのだ。
屋島は珍しく饒舌だった。
「戦前のような価値観の人間に、現在の東京のトップは務まらないと自分は考えています。虐げられてきた東京を解き放つには、鬱屈した感情を爆発させるほかない。さらに言えば、信念を支えるエネルギーは、どんな人間にも必要だと自分は考えます。正直なところ……怜はあなたの起爆剤たりうると自分は考えていた。道半ばでこんなことになったのは残念でしかない。怜のために、あなたは高遠を倒すだろうと期待していた。高遠は……必ず、あなたが倒さなければならなかった。そして私情と信念とがひとつになったことで、あなたは絶対に負けない指導者となるはずだった」
出会った時から、屋島は薫に問い続けている。
──自分の前の主には信念がありませんでした。彼は己の言葉そのものを裏切った。佐木さん、あなたに信念がないと自分が判断した場合には、自分の側から契約を破棄します。この条件だけは譲れない──
最初からずっと、屋島は薫に期待してきた。今なお、屋島は薫を支えるという任務に忠実なのだ。
そういえば「契約」した時の屋島は精神的にかなり参っていたな、と薫は妙に懐かしくなった。戦時中に無能な上層部のせいで仲間を失い、戦争終結と同時に除隊した屋島は、要人警護の仕事に就いた。だがその新しい「主」もかなりの曲者だった。『政府』のメンバーのひとりで、いつも「この国を建て直す」という理想論をペラペラ語るくせに、反対する人間を次々と始末し、陰でかなり私腹を肥やしていた。
当時その「主」と表立って直接対立していたのが田嶋だった。自分の派閥をどんどん形成し『政府』を私物化しようとしていた「主」に田嶋は業を煮やし、最終的にそいつの横領の証拠集めを屋島に持ち掛けた。
屋島は田嶋の信念と「主」への忠誠との狭間で苛まれたが、結局、田嶋に乗った。「主」のすべてを暴き『政府』を追放するまで、屋島は手を緩めずにやり切ったが、精神的な負担はかなりのものだったようだ。
その「主」こそ、高遠だった。ちょうど薫自身も独自に高遠の過去について証言を集め、『政府』を追放しようとしていたところで、2人はお互いに知らないまま、同じ敵を相手にしていたことになる。田嶋は間に立って薫と屋島が集めた証拠を取りまとめ、絶対に言い逃れできない状況まで高遠を追い詰めることに成功した。
追放後、田嶋に頼まれて薫は屋島を引き取った。
『どう言えばいいか……戦国時代の忍者みたいな奴がいるんだが、面倒を見てもらえないだろうか。とにかく変わり者で、引き取り先に困ってる。高遠を追い出した仲間ということで、ひとつ頼まれてもらえると助かる』
相談を持ち掛けられた時は、少し面白かった。本当に困った顔の田嶋というのが珍しかったのだ。薫はしきりと眼鏡を押し上げる田嶋を思い出すたび、いつも口が緩む。
屋島も、薫も、怜も。この東京にいる人間は、皆、精神のどこかが潰れてしまっている。凹んだところを埋めるために、屋島は過剰なまでに主従関係にこだわりを持ち、薫は怜に執着している。
頬杖をついて、薫は考え込んだ。
屋島がこだわっているのは信念の問題だ。最初に東京でグループを立ち上げた時、薫が江藤や屋島に持ち掛けたのは、ひとりひとりが主体的に考え協力しあうシステムを作ることによって、東京に安全と秩序を取り戻すことだった。
警察機構が失われた中では、犯罪を押さえるのは至難の業だ。薫は、悪さをしない方が得だとそれぞれに思わせることに全力を尽くす一方で、外部から流入した半グレやヤクザ共には徹底的に対抗した。強力な統率力を見せつけ、介入の余地がないと思わせるためだ。東京には東京のルールがある。それを乱した者は誰であろうと容赦なく叩き出す。犯罪者が際限なく流れこまないために、結束は必要だった。
東京にいるのは問題の多い人間ばかりだったが、屋島はそうした薫のアイデアに楽しんで乗ってくれた。丁寧にメンバーを育成し、薫の右腕として常にチーム全体を支えてきた。
そんな屋島が、薫を励ますように話していた。
「今のあなたに必要なのは、気が済むまで怜を探し続けることです。粘り強く、諦めず目的に食い下がること。怜と高遠、あの親子を最後まで感情のまま追い詰めることの延長線上に、あなたの思い描いた東京の姿がある。違いますか? はっきり言って、高遠を狙撃した時に、あなたは迷いなく奴の頭を撃ち抜いておくべきだったんだ。あそこで失敗したのなら、次の手を考える他ない。長野に怜がいないことをはっきりさせれば、あなたは東京に怜がいると確信し、東京奪還に集中するのではないかと。自分はそう思っただけです」
珍しく、うどんそっちのけで、屋島は薫に視線を向けている。その熱を帯びた顔に、薫は反省した。
そう、肝心な時に冷静に計算した、あの瞬間から事態はおかしくなり始めていたのだ。どうして高遠を撃たないのか、不思議そうに小首を傾げた怜の顔を思い出す。合田への根回しもそうだ。「高遠を排除した後の処理」なんて、くだらないことを考えたから、自分は怜を失った。
屋島が言いたいことがわかって、薫は自分が精神的にかなり落ち込んでいたのだと実感した。もっと強気でいいと屋島は考えているのだ。怜を探したければ、気が済むまで探せばいい。高遠をブチ殺したいなら、そうすればいい。元々、私情だけで薫を追い詰め、撃ち殺して東京を私物化したのは、あの親子なのだから。
「俺は抗争に勝ったら、怜を中央線南の後継者にして『政府』に戻ろうと考えていた。お前はそれについて、どんな意見だったんだ?」
屋島は肩をすくめた。
「特に、何も。東京に秩序をもたらすために最善であると佐木さんが考えていたのなら、自分が言うことはありません」
「怜には素質があったとお前も思っていたのか?」
「そうですね。才能はあったと思います。あなたが丁寧に育てていけば、いずれは我々の思い描くコミュニティを作れる力はあったのではないかと。ですから、あなた方の良好な関係は非常に有益であったと思います」
「……俺と怜との関係も、目標のための手段という捉え方か?」
「不快ですか?」
「いや……お前はそういう奴だったなと思ってさ」
そうだった。屋島にとっては、恋愛さえも道具だ。目的のためなら手段は問わない。目的こそが屋島にとっては重要なのであり、薫の信念と自分の信念とが共通である限り、命を賭けて薫への忠誠を貫くだろう。
高遠だって、自分の私情のためなら、家族愛や恋人関係を平気で利用する。実のところ、ひとりひとりの人生事情と東京を巡る抗争とは同じものだと屋島は捉えているのだろう。
考えてみれば、人間の歴史なんていつもそうだ。
腹を決めた方がいい。怜を愛しているなら、そのヒリつくような感情をすべて人生に注ぎ込むべきだ。東京を掌握した時、怜の居場所はおのずから浮かびあがってくる。怜が見つからなくても、探し続けることが重要なのだ。
薫は、怜との関係が新しい局面に入ったような気がした。
怜を愛し続けるというのは、ひとつの覚悟なのかもしれない。たとえ相手がもういなくても、心の在り方において裏切らないこと。怜が生きていようがいまいが、かけがえのない人間として、求め続けること。それが薫にとっては生きる力になり、同時に自分の信念を達成するための原動力になる。屋島は冷徹に見えるが、薫にとって無理のない道を用意しようとしてくれている。
「世話になってばかりだな」
「いえ。自分はただ、あなたとの契約を守るだけです。あなたが『主』である限り、自分があなたの決断に反対することなど有り得ない」
屋島がうどんを食べ始めるのを待って、薫はうどんを食べ始めた。ふくよかな出汁の香りは、無性に泣けた。
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