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第135話 【2年前】(81)
とはいえ東京奪還に集中するか、あるいは『政府』に参加するか。そこは考えどころだった。江藤が言うように、一旦東京から離脱しもっと大きな力を手に入れるというのも、ひとつの方法だ。一方で事態を長引かせず、高遠の組織が中央線南で固まりきらないうちに、丸ごと排除してしまった方が有効なようにも思える。
迷いながらも薫は運動を続け、誰かがマンションに来るたびに色々なことを話し合った。
江藤が飲みに誘ってきたのは、薫の体力がかなり戻ってきた頃だった。籠ったままでストレスが溜まっていないかというのだ。田嶋が仕事を切り上げて合流する、3人で飲もうというメッセージは、ちょうど宮城がマンションに顔を出している時に、薫のスマホに届いた。成田市街の小さなバルを貸し切り、田嶋の部下が警備を担当するという。
外出はマンションに移って以来、初めてのことだった。薫は宮城を連れて、田嶋が寄越す警備車両に乗ることになった。
夕暮れの時間帯だった。
靴を履くことを新鮮に感じながらドアから出る。一歩部屋から出た途端、想像以上の解放感が押し寄せてきて、薫は思わず動きを止めた。外通路から見える夕日をぽかんと見つめる。濃い赤に縁どられた太陽は、街を染め上げながら今まさに沈むところだ。その圧倒的な色は、洪水のようだった。
風が頭の中を吹いていくような気がして、薫は目を閉じた。屋内とは違う、吐いた息がどこまでも拡散していくような清々しさがある。息を吸えば、無限の空気が肺の奥深くに行き渡る満足感がある。
思えば、抗争は夏だった。病院からマンションへ、エアコンの効いた部屋で鬱々と過ごしている間に季節は過ぎ、怜は見つからないまま、薫は自分の足で再び地面を歩き始めている。空気にはすでに、秋の怜悧な気配があった。
撃たれた傷痕を、薫は消さなかった。
いつか、怜の指先がそこをなぞるだろう。深く穿たれた銃弾を怜が自ら砕くまで、引きつった皮膚はそのままに残される。
太陽が沈む夜の果て、怜はきっと今も、体を丸めて眠っているのだ。己の手で殺した男を悪夢に見ながら。怜を抱き締め、その夢から彼の魂を引き戻すのは自分だけ。そう信じて、薫は生きていくほかない。
エントランスの外では、黒塗りのセダンがワゴンたちに囲まれて待っていた。その光景が、薫を現実に引き戻す。外で感傷に浸ることは許されないのだろう。強化ガラスのドアを抜けて車に入るまでの僅かな時間でさえ、油断ならない戦いは続いているのだ。
警備が開けてくれたドアから、素早く車に滑り込む。狙撃される危険が高い一瞬を無事にやり過ごし、すぐ後ろに乗り込んだ宮城と顔を見合わせる。部屋の中で守られていた時間は終わったのだ。江藤が外で飲もうと言ったのは、もちろん、薫を現実に戻すというプロジェクトに全員が手をつけたことを意味している。
怜がいないまま、薫という死体はもう一度地上に足を下ろした。
死んだはずの男を狙撃すると、どういうことになるんだろう?
一瞬そんなことを考える。薫本人に狙撃の経験があるせいで、余計に不思議に感じた。生きた人間の頭を撃ち抜く時の、あの独特な重い手応え。薫を撃つ者がいるとしたら、果たしてその感触はどんなものになるのだろうか。
物騒なシーンを思い浮かべながらも、口に出すのは控えた。あまり細かく思い描きたいものでもない。代わりに薫は、宮城に向かって肩をすくめた。
「俺はまだ死んでるのに、厳重だな」
「死んでるから厳重なんでしょうが。お願いですから、のんびり散歩なんかしないでくださいよ」
真面目くさって答える宮城は、窓の外を確認している。セダンが他の車両と一緒に発進し、体が軽く揺れた。
「散歩するのもいいリハビリだろうが……顔を人に見られない簡単な方法って何かないものだろうか」
「整形でもします?」
「う~ん、できれば……いじりたくないんだよな」
整形や臓器移植などに対するハードルは戦前より下がったとはいえ、薫には抵抗があった。怜に再会した時に、すぐ認識してもらえないのは嫌だ。
宮城はよくわかるという顔で頷いた。
「けっこう抵抗がありますよね。俺も困ってはいるんです。グラサンかけたり色々やってはいるんですけど。直接自分で向こうに潜り込んでしまった方が効率がいいし。他の者を送り込むのは心配が絶えない上に、なんていうか、かゆい所に手が届かない感じがするんですよ。今はレジスタンスを組織して、自分は調布のアパートに隠れてるわけですけど、もどかしいですね」
「顔、顔ねぇ……ちょっと方法を探してみるか。俺も外を歩き回りたいが、顔を変えないと無理だろうしな」
時間をかけずに顔を変えて動き回る方法が、薫には思いつかなかった。なんとか見つけないと、この先もろくに外出さえできない。
そんなことを考えながら、宮城と取り留めのないことを話しているうちに、車はすぐに目的地についた。
レンガの外壁のこじんまりした店は、繁華街から少しずれたところにあった。今の東京では期待すべくもない、食事の愉しみを思い出させてくれる佇まいだった。
店の入り口でボディチェックを受けた後、薫は奥のテーブルに陣取る江藤と田嶋に合流した。
「おう、来たか」
いつもと同じように江藤が右手を挙げる。スーツ姿の田嶋も変わりがなかった。
「肉バルって……こんなシャレた店、誰の発案だ」
「え? 田嶋が奢ってくれるっつうから、肉食べたいって言ったらホントに手配してくれた」
「僕ではない。部下に聞いたら、ここがうまいと」
田嶋は眼鏡を押し上げながら淡々と言ったが、向かいの椅子を引く薫に視線をやると、安堵の顔になった。
「だいぶ元気になったように見えるが、調子はどうだ? 見舞いに行けず、すまなかった」
椅子に座りながら、薫は答えた。
「まぁ体力は戻ってきてると思うが、どうだろうな、本調子かどうかは自分じゃわからない」
「なんにせよ、ここまで来られたということは、精神的にもある程度回復してきたということだろう。……よかった」
ためらいがちに田嶋に言われて、薫は微笑んだ。
「感謝してる。色々してもらってるしな」
「いや……生き延びてくれれば、それでいい」
田嶋の目元が照れたように赤くなったのを、江藤も見逃さなかった。
「薫、もっと大げさに感謝してやれ。ほんとうるさかったんだからな」
「初耳だ。なんで直接言ってくれない? 世話になってる身だ。定期連絡ぐらいちゃんと入れたものを。忙しいだろうと思って何も送らなくて悪かった」
田嶋は耳まで赤くなった。
「お前が自分のことに集中してくれれば別に構わない。僕はそんなつもりじゃ」
「心配で心配で仕方なかったって言えよ。『足りないものはないか?』って定型文みたいに毎日送ってきやがって」
田嶋は隣の江藤を睨み返した。
「閉じこもったままでは物資が足りなくなるかもしれないだろう? それだけだ」
「この恩は一生忘れられないな」
「いや、貸し借りのようなことを考えられても困る。とにかく、何か注文を決めてくれ。江藤、メニューを寄越せ」
「へいへい」
顔を隠すようにメニューに顔を突っ込んだ田嶋を微笑ましく思いながら、薫は椅子の背にもたれかかった。ボディチェックを終え警備と話していた宮城を、江藤が手招きする。
「俺もいいんですか?」
近づいてきた宮城は開口一番、そう言った。
「いいに決まってるだろ、ちょうど居合わせて得したな」
江藤がそう言うのに合わせて、薫もうなずく。
「田嶋が奢ってくれるからには、遠慮はなしだ」
「それなら……失礼します」
宮城が座ると、4人は今夜のメニューに取り掛かった。
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