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第148話 蒲田にて(39)
怜の髪をドライヤーで乾かしながら、薫はぼんやりと考え事をしていた。怜はされるがままに、のんびりプリンを食べている。
「薫さん、絶対プリン買ってきてくれるよね」
容器の底をのぞきこみながら、怜が呟く。
「忙しいのに、どこで見つけてくるの?」
「その辺だ」
「その辺ですまないでしょ。少なくとも、オレが動いてる辺りでこんなおいしいの売ってないもの」
常に怜のことを考えているのを見透かされて、薫はごまかすように怜の髪をわしゃわしゃかき回した。怜と顔を合わせられない日も、プリンだけは冷蔵庫に欠かさず入れてある。確認するたびにプリンは順調に減っていた。
最近は緊急で動くことが多く、互いの生活はすれ違い気味だ。こうして2人きりで恋人らしい時間を過ごすのは1週間ぶりだった。その間、プリンが2人の橋渡しになってくれていたことになる。
薫は『政府』を率いる側として、すべての行政機関の動きを調整している。とりわけ警察組織を本格的に動かすために、成田と東京とを頻繁に行き来していた。中央線南の全域をくまなく回り、現地の治安を細かくチェックして人員配置を指示すると同時に、成田で人員の調達と選別を指揮しなければならない。
一方、怜は中央線南の実効支配に集中していた。具体的な犯罪捜査の指揮もある程度とる。特に治安が悪いところ、つまり武力による制圧が必要なところには怜が薫に先行し、軍や警察の特殊部隊を率いる。
フィルターマスクの利権については、『政府』に制度そのものを変えさせた。ペンダントはすべて失効し、戦前使われていた不織布のマスクがいつでもどこでも手に入るようにしてある。
2人は中央線南を細かい地域に分け、常に連携して動いた。どこかの地域で一番イキっている奴がコトを起こしたり暴動が起こったりすれば、怜がすぐに交渉に行く。交渉が成功するか、制圧が完了したら即座に薫が警察を入れる。
この2年間に薫が準備してきたものを、怜は無駄なく使った。さらにそれだけではなく、怜はとにかく動き回った。自分であちこち見て歩き、住民の話をよく聞き、異変があればその場で対処する。薫と全く違うスピード感には、裏事情を知る全員が目を見張った。
何より驚くべきなのは、怜の咄嗟の判断が常に冷静で的確なことだった。与えられた権力をためらいもなく徹底的に行使しているというのに、暴走はせず力に引きずられることもない。むしろ粘り強く話し合いを続け、平和的に事を収める方が多かった。
怜は空になったプリンの容器をテーブルに置き、小首を傾げた。もう一個食べようか思案している気配だ。
「怜、夜中だからそれで終わりにしておけよ? 残りは明日」
「でも今日は頑張ったんだし……」
「知ってる。でも、際限なく食べたら体を壊す」
む~と不満そうに唸ってから、怜は大きなあくびをした。なんだかんだで満足はしたらしい。
「明日……明日は……」
ぼけっと呟く怜の顔を、薫はドライヤーを止めて後ろから覗き込んだ。どことなく疲れた顔をしているのに気づく。椅子に座って視線の高さを合わせてから、薫は怜の顔をこちらに向けさせて提案した。
「少し休んだ方がいいんじゃないか? ここ2ヶ月、全然休んでないだろ」
「う~ん……そうなんだけど、今は休んでいいタイミングじゃないでしょ」
それだけ言うと、怜はのっそり立ち上がった。空容器をキッチンに持っていく。
「明日は休め。歩き方がおじいちゃんになってるぞ」
「なにそれ」
戻ってきながら、怜がクスクス笑う。
「歩き方が変なのは、さっきバスルームでおかしな体勢だったから」
「……それはすまん」
「薫さんのせいじゃない」
ほわほわと可愛いあくびをしながら、怜は椅子の向きを変え、薫と向かい合うように座った。
「すごくヨかったし」
にんまり笑う怜の髪をかき回し、薫はその頬を人差し指の背で撫でた。
正直なところ、中央線南を仕切るようになってから、怜はどんどん開放的になっている。外で動き回っている時の表情は生き生きとし、戦闘でも溌剌としていた。
以前とはまったく違う怜に、薫は始め、自分の気持ちが冷めたりしないかと漠然と恐れた。だが結果はその反対だった。
今、薫は前にもまして怜から目が離せなくなっている。すっきりとバランスのとれた身体からは、誰もが一度見れば忘れられないようなエネルギーが発散されていた。
感情は格段に豊かになっていて、思慮深さとユーモアを垣間見せる瞳は、時に見る者を戦慄させるような厳格な光も持ち合わせている。怒りを敵にねじこむ鋭い眼差しも、薫に向けるしっとりと甘い目も、ぞくぞくするような満足感を薫に与える。
「冗談はさておき、なんとか明日の午前中だけでも休んだほうがいい気がするが」
怜はダイニングテーブルに頬杖をつき、薫と向かい合うように視線を合わせた。
「どうかな。今は休んじゃいけない時期が終わってない」
「無理はさせたくない」
眠そうな顔のまま、怜は唇を微笑みの形に作った。
「無理はしてない。薫さんが心配してくれてるのはわかる。でもリアルな話、ここで休まない方がいいと思うんだよね」
「リアル?」
怜の口から出た言葉に、薫は聞き返す。怜は眠そうながらも、考えている顔でゆっくり話した。
「そう。なんていえばいいかなぁ。オレは積み重ねた実力があって今の状況にいるわけじゃない。薫さんの下準備に乗っかってるだけだ。だから上手くやらないと、薄っぺらくなっちゃう」
薫は声を出さずに続きを促した。
「2ヶ月前、オレは突然、高遠のところに乗り込んで中央線南を獲ることを宣言した。それからずっと駆け回ってる。江藤さんとは何回も交渉して同盟を組むところまでいけたし、奥村さんは交渉の途中で『消えた』。……まぁ実際には宮城さんに戻っただけだけど。高遠は表立った干渉をしてこなくて、オレはあんまり苦労しないで中央線南を手に入れて、全体に目を光らせることができるまでになってきた」
ダイニングテーブルに頬杖をつき、怜は考えを整理しながら話す。
「でも、それは全部、薫さんが準備してきたことだ。オレはそれを目に見える形に移しただけ、つまり……スイッチをつけただけ。パチンって」
「なるほど?」
「でも、スイッチをつけた時に電気がつくのは、そこに電気が来てるからだ。誰かが配線をチェックして、ソーラーパネルとか発電機からつないでいないと、スイッチを入れても電気はつかない。だから、オレがのんびりスイッチを入れるだけの作業をしてたら、薫さんがやってきたことが全部バレちゃうし、オレがやってることが嘘くさくなる」
穏やかな目で、薫は怜を見つめた。怜が自分の考えをきちんと話せるように、できるだけ静かに聞き役に徹する。薫が聞いてくれているのを確認して、怜は続ける。
「江藤さんとの同盟も、奥村さんの『失踪』も、全部、準備があったから呆気なくできた。それを本物っぽく見せるのがオレの仕事だ。オレの仕事は中央線南を仕切ることじゃない。皆が準備したものにスイッチを入れること、それでいて、動き出したシステムはオレが今作っているものだと人々に思わせることだ。
そのためには、江藤さんと交渉した時とずっと同じスピードで物事を進めないといけないって思ってる。なんていったらいいかな……。オレはものすごく行動力があって、すべてを普通の人とは全然違う速さで進める人間なんだと全員に信じさせることが大事なんだ。
そうじゃないと、裏からオレに指示してる人がいるってバレちゃうし、前から組織が作られてたことが高遠に知られちゃう。
あくまでも、オレが高遠を潰したくて、誰もついていけないようなスピードで今の地位に上ってきたって思わせないと。かといって、焦ってるように思われても舐められるから、オレは全力で演技しないといけない。だから……速さの調節はすごく大事」
時折頷きながら聞いていた薫は、何か考える暇もなく、思わず怜を引き寄せた。もごもご何か言うのに構わず、唇を奪う。怜は僅かに抵抗したものの、舌を吸われるとおとなしくなった。
頭がおかしくなるほど、怜が欲しい。全部放り投げて怜をこの部屋に閉じ込め、甘やかして逃がしたくない。
しばらく堪能して顔を離し、頬を包んで顔をのぞきこむ。しばらくトロンとした顔のまま固まっていた怜は、はたと我に返ると不満そうに口を尖らせた。
「人が考え事してるのに、なんで突然キスなんかするの」
「悪い……つい……惚れ直して我慢できなかった」
「えぇ??」
呆れた顔でしげしげと薫を見つめてから、怜は噴き出した。
「薫さん、いつもそうやってオレを甘やかすけど、目標は忘れちゃだめだよ」
「忘れてはいないが……お前と一緒にいると……」
優しい目で、怜が薫の顔を引き寄せる。
「オレは、今の生活は嫌だ。高遠のことでイライラしたくないし、薫さんと堂々と外を歩きたい。薫さんがいつも買ってきてくれるプリンを一緒に買いに行きたい。だから、薫さんと一緒に休みを作って部屋に閉じこもるのは、全部できてから」
どうしたらいい? 胸が締め付けられるほど、怜と一緒にいたい。当たり前のように薫の仕事を尊重し、薫と一緒にいることを望んでくれる恋人を危険に晒したくない。そう思いながら、怜が天性のリーダーシップを発揮し、群衆に君臨するのも見ていたい。
怜が高遠に殺されたら? 明日狙撃されたら? 毎日考える。何がどうあっても高遠を排除しなければならない。それが最も怜の安全を確保する方法だ。この部屋に閉じこもったところで根本的な解決にはならない。
そして誰よりも薫自身が、高遠の息の根を止めなければ納得しない。正直に言えば、その気持ちは怜と一緒に過ごす時間が長くなればなるほど強くなっていく。怜と自分との間に割り込んだ者への憎しみと苛つきは、部屋の外で怜を思う時間に比例して増していっていた。家族との時間を断ち切った前科がある奴は、必ずまたやるだろう。その確信が薫を急き立てている。
「警備を増やしたほうがいいか……タグは?」
少し前に渡したGPSタグのことを言うと、怜はデスクの方へ手を振った。
「さっきズボンから外して充電してる。靴のも充電しなきゃ。ねぇ2つも、持ちすぎじゃない?」
「俺は2つでも足りないと思ってる。昔見た映画みたいに、なんならお前の首にマイクロチップを埋め込みたい気分だ」
「大げさだってば」
言いながら怜はドアの方へ行き、靴を持ち上げていじり始めた。かかとに仕込んだタグを出して充電するつもりのようだ。
何気なく歩き回る姿を目で追う。
表情は相変わらず眠そうだったが、その顔は初めて出会った時の茫漠とした目を思い出させる。リラックスした歩き方は素直でのびのびしていた。人前での凛と背筋を伸ばした姿もいいが、こうして自分にしか見せない柔和な姿も、大切だと薫には思えた。
「タグは絶対に外すなよ、頼むから。俺が自分で警備できればいいんだが」
「そうもいかないでしょ。だいたい、薫さんが目の前で撃たれたりしたら……考えただけでゾッとする。別行動の方が気が楽。作戦の時は高田さんとか宮城さんがついてくれるし、竹田さんもいるし」
宮城は「奥村」としての任務を終え、元の顔に戻って怜の補佐をしていた。「奥村」は怜との交渉がこじれたところで謎の失踪を遂げたことになっている。
元々、本人は薫が金を渡して大阪の方へ追いやり、とっくの昔に東京とは縁が切れていた。要は事態を本来の道筋に戻しただけなのだが、世間では怜が陰で葬ったことになっていて、それは裏事情を知る者たちにとっては計算の内ではあった。宮城は表向き神奈川の江藤のところに逃亡していて、江藤が怜と同盟を組むと同時に中央線南に復帰したことになっている。
「まぁ……どっちにしても薫さん、オレの警備なんかやってる時間ないだろうし」
言いながら洗面所に入り込んだ怜を追う。のぞくと、怜は歯を磨こうとしていた。
「怜~?」
「何?」
にっこり笑って歯ブラシを取り上げる。呆れた雰囲気の怜を引き寄せる。
「まったく、薫さんさぁ、そのヘンタイみたいな面倒見のよさ、オレ以外の人は全員ドン引きなのは覚えておいた方がいいからね」
「お前以外にやるわけないだろ」
これ見よがしの溜息を無視して、薫は歯磨き粉に手を伸ばした。
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