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第152話 蒲田にて(43)

 目を伏せて目眩に耐えていると、薫が顔を覗き込んできた。 「気にするな。こういうのはお互い様だ。こっちだって俺は奴に一度も素顔を見せていない。奴が何をしているかを分析はする。でも、感情を入れたら奴の思惑にはまる。  幸い、俺たちの組織は毎日大きくなっているだろ? 奴と俺たちとの確執は組織全体の動きの中では薄まってくれてるんだ。俺やお前が個人的に暴走することはできないから、奴も操りにくいはずだ」 「でも……」  頭の中では、同じ所をぐるぐる考えが回っていた。ひくんと喉が鳴る。  昔、高遠は蔑んだ目で怜によく言った。『使えん子だ』『出来損ないめ』『愚かな子供だな』  祖母が階段の下で冷たくなっている。母の息が止まる。薫の──薫の目が絶望に見開かれたまま、ゆっくりと沈んでいく。呼吸が速くなっていくのを止められない。固めた右拳を、左手で押さえこむ。 「オレ……オレは」  薫は優しい目で怜の肩を引き寄せ、なだめるように頬を撫でた。 「怜。お前はずっと俺と一緒に動いてくれている。自分のしがらみよりも、俺が考えた全体の計画を優先してくれるし、軍や警察からもお前がよくやってるっていう報告が上がってきてる」 「でも、何やっても結局あいつはオレが一番頑張ってる時に、オレを捕まえて『どうせダメな奴だ』って言うんじゃ。オレは薫さんやあいつの思い通りに動く駒でしかなくて、それで」 「だから? 奴の言うことを信じなくたっていい。怜。信じなくていいだけの証拠を、お前はもう持ってる。お前は駒や道具じゃない。自分の意志で、大きな作戦に参加してくれた」 「だって」 「道具だというなら、俺もそうだ。『政府』の歯車のひとつとして動くことを、俺は自ら選んだ。チーム全員が、巨大なシステムの一部として働くことを選んで動いている。社会とはそういうものだ。だが俺は自分を道具だとは思わない。自分なりの信念に従って行動している限り、俺は道具じゃない。怜。お前もそうだ」  両手で怜の顔を包みこみ、薫は真剣な目で怜の目と向き合った。 「怜。奴は俺たちの動きを読もうとはしている。それはつまり、俺たちを操れないからだ。思い通りに操れないから、こっちがどう動くのかを、神経を研ぎ澄まして予測しなきゃいけない。奴の方が、俺たちの動きに合わせて行動してるんだ。間違えるな怜」  そう、そうだ。高遠は今も昔も、こっちの動きを予測して、それを計画に入れているだけだ。言葉をうまく使って、後からこっちの感情を揺さぶって、本当のことを見えなくするだけなんだ。  理屈ではわかるのだが、怜の手はまだ震えていた。怖い。それは自分の精神や魂が傷つけられることへの、純粋な恐怖だった。  あの目を想像したくない。蛇みたいに狡い目だ。オレがやることすべてを間違いだと言い捨てる生臭い舌、上っ面を撫でて知ったかぶりをする話し方、全部全部、吐き気がする。  怜の様子を観察していた薫は、突然顔を近づけ、問答無用で唇を重ねた。 「んんっ」  頭がついていかない。恐怖を感じていた脳に、いきなり官能をねじこまれる。  怖くて思わず薫の胸を叩く。薫は引くどころか、怜の体全体をきつく抱き締め、乱暴に舌を吸い上げた。恐怖が甘い快感へすりかえられる。首の後ろが痺れ、それが脳に広がる。  怜は目を閉じた。自分から舌を絡ませ、与えられるものを必死で受け取る。頭がぼおっとして、震えていた拳が開く。薫にしがみつき、喉を鳴らす。 「落ち着いたか?」  薫がゆっくりと唇を離し、穏やかに聞いた。  頷くと、怜は薫に抱きつき、じっとその体温を感じ取った。  大きな腕が怜を包み込んでくれる。あやすように軽く揺らされて、怜は詰めていた息を吐く。  怜を抱き締めたまま、薫は優しい口調で話した。 「なぁ怜。お前に自分の意志で参加してほしいから、俺は生きていることを隠してお前に近づいた。俺のためじゃなく、お前自身のためにもう一度生き抜いてほしくて、俺はそうした。お前は見事に立ち上がった。俺のためじゃなく自分のために。  あの蒲田の街を見て、俺がどんなに嬉しかったかわかるか?」 「……どのぐらい?」  もそもそと聞く。薫の口から、自分を認めてほしかった。どんな形でもいいから自信がほしい。 「住民の悩みを聞くお前を見た後、俺は江藤に電話をかけた。お前が自殺したりせず、高遠とは全く違う方法で自分のコミュニティを強固にまとめていることを、俺はまくしたてた。住民たちにそれとなく聞き込みをして、お前が本当にひとりのところから、慎ましやかにあの街を作り上げた過程を聞いた。嬉しすぎて、俺はその晩、眠れなかった」 「そうなの?」 「ああ。俺とも高遠とも違う、お前なりの統率の仕方を見て、俺はお前こそが『東京』を真に統率すべき者だと理解した。そして思ったんだ。俺は……お前のそばにいたい。お前が俺のそばに来てくれるんじゃなく、俺が、お前のそばに行きたい。誇り高く生きるお前と肩を並べて生きられたら、きっと……未来を期待できる」 「木島さんは、なんか『俺のところまで這い上がってこい』みたいな態度だったけど?」  そう言ってから、怜はかすかに笑った。いつの間にか震えが収まっている。頭は冷静さを取り戻していて、心には薫をからかう余裕が生まれてきている。 「木島は元々、傲慢な性格に設定していたからな。それに……ヨリを戻すとしても、傷を舐め合って依存しあう関係じゃお互いダメになる。俺もお前もトップを獲りにいく対等な覚悟がなければ途中で負けると思ったから、キツめの態度に出たんだ」 「別に責めてない。薫さんは、いっつも色々考えてるんだなぁって思っただけ」  顔を上げて、薫を見る。愛情深い目だ。この目が、最後までオレを支えてくれるだろう。この先、もう一度高遠と対峙しなければならなくなる時に、自分はこの目を思い出して、誇り高く背筋を伸ばすのだ。  そう、頭の中に残すべきなのは高遠の目じゃない。薫さんの目だ。  2年前のことを考えてから、もう一度今の薫の目を見る。迷いのない真っ直ぐな感情を、薫さんはくれる。あの絶望の瞬間さえ、薫の目には一切の蔑みがなかった。ただ、想い合う日々を断ち切られる哀しみを、決して終わらない愛を、怜に突き刺しただけだった。 「薫さん。オレにひとつ、考えがあるんだけど」  頭で考えるより先に、怜は提案していた。

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