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第153話 吉祥寺にて

「俺は賛成してるわけじゃないからな」  怜の横で、須川はぶつくさ言っていた。今、この場で須川の正体が薫であることを知っているのは、怜と、横で装備を点検している竹田だけだ。他にも10人以上いる空間で2人がゴネ出したことで、竹田はハラハラしていた。  中央線吉祥寺駅に近い南側のとあるビルには、自衛軍の部隊が常駐している。怜たちは2週間前に千葉で例の暴力団を壊滅させた直後から、北の攻略を始めた。中央線を越える作戦行動が増えるにつれ、ここで寝泊まりする人間は徐々に増えていた。  今日も中央線吉祥寺駅付近で小競り合いが起こっている。怜たちはそこへ出かける準備をしているところだった。  ギロリと須川を睨んで、怜は言った。 「別にあなたの意見は聞いてません。オレが期待しているのは、あなたがオレを後ろから撃たないことだけです」 「心配するな。俺が後ろから撃つ相手は、無能だけだ」 「誰が無能か、そう言うあなたはちゃんと判断できるんですか?」  ねちねちした言い合いに、竹田の眉間のしわは増えるばかりだ。遮るように2人の間に割って入る。 「装備はOKだ。頼むから……」  怜は竹田ににっこり笑いかける。もちろん須川への当てつけだ。 「ありがとうございます。竹田さんにはいつも助けられてますね」  須川の雰囲気が露骨に悪くなり、竹田は心の中で溜息をついた。勘弁してほしい。  ここしばらく、竹田はずっと、この2人の関係の変化を気にしていた。これは作戦なんだろうか。千葉襲撃の次の日、怜は竹田に言ってきた。 『これから色々あると思いますが……最後までオレについてきてくれると信じてもいいですか?』  夕食に呼ばれ、久しぶりに蒲田の怜の食堂でとんかつ定食を食べている時だった。怜はいつもの笑顔で従業員と談笑し、客にからかわれていたが、やがて竹田にぽつりと言ったのだった。  その次の日だ。しばらくいなかった須川が戻ってきた。薫は再び彼の存在を使うことにしたらしい。  『須川』という男、実は1ヶ月ほど前に、江藤のところに追い払われた経緯があった。というのも、南を仕切っていた奥村が失踪した時に、須川は堂々と怜に寝返り、ひたすら怜に付きまとって口説き落とそうとしたからだ。怜は鬱陶しくなって江藤に泣きついた。  もちろんそれは表向きの話だ。『奥村』は、薫の部下である宮城が入れ替わっていただけで、交渉の途中で失踪したのは単なる演出だ。須川を消したのは、薫本人が『政府』の仕事で忙しくなったからにすぎない。  とはいえ、そういうことを知っているのは限られた人間だけだ。怜にフられた須川が突然戻ってきたことは、あっという間に噂になった。  高遠や奥村に忠誠心があった者は北に逃げるか、抵抗勢力として怜に潰された。それ以外は怜が高遠の息子としていずれ跡目を獲ると見て怜についた。須川だけが、利害関係を一切無視して、「怜に惚れた」と公言して怜についたのだ。娯楽の少ない東京では、怜が須川に口説き落とされるかどうかは、格好の話のネタになった。  怜は、とにかく須川がいるとやりにくいという顔をしていた。そりゃそうだ。どこに行くにも勝手についてくるわ、隙あらば人前でべたべたしようとするわで、怜は須川を持て余した。敵に回ってくれた方がマシという顔に、自衛軍や警察の連中まで面白がり、よく怜をからかっていた。  一連の2人の行動の意味を理解していたのは、竹田と宮城だけだ。高田は埼玉に行っていたし、屋島は人目につくところには出てこない。  須川が江藤のところに「追い払われた」後、怜はしばらく、ホッとした顔をしていた。  誰もいない時に、竹田はそっと怜に聞いたことがある。あの人がいなくなって、大丈夫なのか?と。答は意外なほど素っ気ないものだった。 『近くにいない方が楽ですね。あの人がオレをかばって撃たれるところは見たくないので。それに、オレが無意識にあの人の顔色をうかがってしまう気がしたので、いなくなってもらいました』  どっちかというと、怜の方がマトモらしいと竹田は思った。以前、江藤のマンションに泊まった時も、怜の方が薫の滅茶苦茶な行動に困惑している気配があった。 『お前、よくあの人とつき合えるよな』  竹田の感想に、怜はポカンと竹田の顔を眺め、それから噴き出した。 『確かに。本当に面倒くさい人ですよね』  怜はひとしきりクスクス笑っていたが、呆れた顔の竹田に言った。 『あのぐらい変な人だから、オレを赦してくれる度胸があるのかも』  竹田は、穏やかな怜の横顔を忘れられない。  それ以来、竹田は2人の信頼関係を疑うことはなくなった。  で、いきさつが色々あった男が、いよいよ北を攻略するというこの時期に、手が足りないだろうと澄まして戻ってきたわけだ。  案の定、戻ってくるなり須川は怜にまとわりついていた。何を言われようとどこ吹く風で、怜が次第にイライラしてきていることに、周囲の全員が気づいていた。  以前とは違って、須川の態度は露骨さを増し、怜が油断すれば押し倒しかねない雰囲気だった。怜の方も、愛想笑いでかわす余裕がなくなっている。  竹田はずっと考えている。これは高遠に、薫が生きていて怜とヨリを戻そうとしているとアピールする策略なのだろうか。この2人が公衆の面前でやっていることだ。おそらく策略だろうとは思う。ただ正直なところ、2人の喧嘩と、薫が生きていると高遠に教えることとが、どうやって繋がるのかは竹田にはわからなかった。  2人が寝ている、あるいはうまくいっているという噂の方が、薫の生存説を高遠に教えるにはいいんじゃないか。竹田はそんなふうに思ったから、怜が薫と本当にこじれかけている可能性も捨てきれなかった。それほどに今の怜は須川に対して邪険だったし、須川のしつこさも度を越している。  一体全体、どっちなんだろう。策略であることを隠されていると感じるのは、信用されていないようで嫌だったし、一方で信用されないのも別におかしくはない。  混乱しながらも、竹田はとりあえず怜の補佐として仕事を続けていた。  怜はいつも通り、真っ白いコットンシャツにジーンズという姿だ。均整のとれた体からは、相変わらず人目を惹くオーラが発散されている。見える武器は、ショルダーホルスターに差した二丁のベレッタと、太腿のバンドに差した細身のナイフだけ。  須川は黒いジャケットを羽織る怜の仕草に見とれていたが、怜に睨まれて我に返った。 「だから、俺の意見とかじゃなくてだな」  さっきの議論を続けながら、須川は竹田の方をちらりと見る。お前だって賛成だろ?という目。  やれやれ。なんでおれは、このバカップルの間に入らされてんだ? 「怜、おれもその……やめておいた方がいいと思うんだけど」  怜が目をむいた。竹田が須川の味方をするとは思ってもいなかったという顔だ。 「竹田さんだって、できるだけ早くあいつをなんとかしたいでしょう?」 「それは……そうだけど、でも、『政府派』の時田だってまだ削れてないわけだし」  今3人が議論しているのは、高遠の根城をすぐにでも襲撃し、奴の身柄を押さえるかどうかという話だった。  怜が、高遠と組んでいた暴力団のトップを直接叩いてから2週間。千葉まで行って作戦を成功させたことで、少なくとも中央線南においては、組織的に犯罪を行う集団はあらかた排除できた。半グレどものケツ持ちがいなくなり、これは全員にとって、ひとつの区切りとなった。  そこで怜は、高遠をいつどうやって攻略するかに頭を切り替えたらしい。自衛軍や警察の配置を少しずつ動かし、中央線周辺の人員を増やし始めた。同時に、2ヶ月前に始めた高遠配下への根回しも続けている。すべての状況が、最後の目標に向かって収束しようとしているというのが、幹部全体の共通認識となっていた。  竹田は怜の警備の一員として、様々な場面で怜の仕事ぶりを見ることになった。  怜はいつでも変わらない。自分より年上の人間に対しても物怖じすることはないし、物腰は柔らかいくせに、舐めてかかった人間には鋭い一言を放ったりする。  ただここへ来て、常に冷静だった怜に少し焦りが見え始めているのも事実だった。とにかく早く高遠をなんとかしたいという気持ちが先走っている。中央線の近くに行くと、怜は必ず北をじっと見つめた。線路の向こう側に実際に高遠がいるかのように、怜の目が鋭くなる。  2年前の、中央線の向こうへの怯えはもう消えていた。  今もまた、怜の目は冷たく光っている。ここにいない、自分を追い詰めた実の父親を射殺すような昏い目で、怜は呟くように言う。 「あいつは三鷹にいるってわかってるのに、どうして」 「危ないって言ってるんだ。それに吊し上げるだけの急所も掴みきれてない」  呆れたように須川が言う。もう何度も同じやり取りをしている。 「あいつが何をしてきたかなんて、全員が知ってるでしょ。なんで今さら」 「証拠はともかく、今の三鷹は以前とは比べものにならないぐらい、物騒になってるんだぞ。うかつに入れない。なぁ怜、それがわからないお前じゃないだろうが。俺がお前を落とすまで生きていてもらわないと困るんだ」  珍しく真剣な口調で須川は言った。いつもヘラヘラしているくせに、怜を心配している時だけ本気をのぞかせる。  大きな溜息をついて、怜は身を翻した。 「オレは『政府』の意向を受けている。あっちも予定が押していることについては気にしてるんです。オレの個人的な感情だけじゃない」  そう言い捨てると、怜は部屋の出口へ向かって行く。 「こっちだって、色々『意向』は受けてるんだ」  須川が怜の背中に言うと、怜は立ち止まり振り向いた。 「誰の何の意向です?」 「……江藤からの伝言だ。『薫の分まで、生きてもらわなきゃ困る』とさ」  怜の唇が引き結ばれた。顔色が青ざめ、拳が握り込まれる。強張った顔で、怜はしばらく須川の顔を睨んでいた。須川も引かない。1分ほど睨み合った後、怜は喉に引っかかるような声で言った。 「江藤さんに言われなくても……オレは、最後までやり遂げる。伝えておいてください」  須川が肩をすくめると同時に、怜は大股で部屋を出ていった。  固唾を呑んで成り行きを見ていた自衛軍の連中の視線が須川に集中する。  すべての疑問をかわすように、須川は全員に背を向け、自分の武器の点検を始めた。

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