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第155話 三鷹にて(4)

 音というものは、時に人の不安を体現する。  その日の夕暮れ、怜は顔を上げて東を眺めていた。いつもの通りに東京のあちこちを駆け回った後、三鷹の拠点を見て帰るところだった。  拠点は中央線の北側に陣地を広げるように作ったものだ。高遠の根城までは車で15分程度という近さだった。もちろん、かつての東京ならそんな時間では行き着けないが。  いきなり高遠を襲撃するという意見はさすがに引っ込め、怜は地道な作業を進めるよう指示を出していた。まぁ須川と揉めているのはパフォーマンスで、しっかりした計画の方が本来の流れではある。  侵入の際に高遠の配下の抵抗は一応あったものの、思ったより簡単に食い込むことができた。戦闘はあったが、向こうは武器も人も足りていないという印象だ。その簡単さに、怜と薫だけでなく幹部全員が嫌な顔になった。  高遠はすでに中央線北を引き上げて、どこかに戦力を集中している。  薫は田嶋と組んで、山手線内部の『穴』の調査を大々的に拡大した。予算不足を言い訳にしている暇はない。  今夜はゆっくり寝られるかなあ。  疲れた頭で、怜は考える。薫はここ数日『政府』の方に行っていた。この間、吉祥寺で『須川』と揉めた時から顔を合わせていない。  派手に喧嘩をして不協和音を演出するというのは怜のアイデアだった。佐木薫が生きているという噂は少し前から流していたから、高遠は怜が薫と完全にヨリを戻したと解釈するはずだ。  自分から今回の案を言い出したくせに、精神的なダメージはけっこう大きかった。元々、誰かと揉めるのは面倒だと考えるほうだし、さらに相手は『須川』という自分が一番イライラする相手だ。中身が薫だとわかっていても、そのしつこさと挑発的な態度には神経を逆撫でされる。  薫さんって俳優になれるよね。  普段の本人とは全くちがう性格の人間を違和感なく存在させるというのは、小説をたくさん読んだ成果なんだろうか。なんにせよ、怜は『須川』の迫力に押され気味で、相手が薫だとは全く思えなくなっていた。  おまけに2人とも忙しくて、素の状態で会うことができていない。  薫に再会する前の孤独感が、油断すると胃の中から湧き出てくる。  暗く、重い沼は、なくなったわけじゃない。それが癒える日は遥かに先だろうし、少なくとも高遠が生きているうちは来ない。  東の空は、既に夜が始まっていた。深い紺色に、星が散りばめられている。かつての東京では見られなかった夜空は穏やかに見えたが、怜はいつもと違う漠然とした不安に顔をしかめた。  なんだろう。何か嫌なものが『穴』から出てきそうな夜だ。  高遠の顔をした大蛇が、どろりとした黒い水面からゆっくりと顔を出すイメージに、怜は寒気がした。鱗がてらてら光る大蛇は、赤い舌を細かく震わせながら怜の足元にゆっくり上がってくる。しゅるしゅるという気味の悪い音が響き、滑らかな鱗が瓦礫の上で蠢く。 「おい怜、大丈夫か?」  竹田の声に、はっと怜は我に返った。今のは何だろう。  線路の向こうにいた竹田は、怜が突っ立ったまま動かないのを見てとると、ゆっくりと近づいてきた。 「移動するぞ。疲れてるなら、帰ってから寝た方がいいんじゃないか?」 「そう……ですね……」  生返事だけで動かない怜を、竹田は不思議そうに見つめ、それから怜と同じ方角を見た。 「何かあるのか?」 「何もないですけど……でも、多分、何かが来る」 「なんだそりゃ?」  律儀に並んで立つと、竹田は怜と同じように目を凝らした。  何かが見えるわけじゃない。でも何だろう。深い地の底から音が響いているように怜は感じた。得体の知れない巨大な怪物が目を覚まし、ゆっくりと地上に向かって動き始めている。  ゴオオオオという地鳴りのような音は、外からというより怜の腹の中から生まれているようにも感じられる。強い不安や恐怖が血管を流れるときの音は、多分こういう音だ。  ぎゅっと目をつぶってから、怜は挑むように東を見た。  低い声で竹田に言う。 「今夜はすべての地域が臨戦態勢をとるように通達を出してください」 「休みの奴は……」 「明日以降いくらでも休んでいい。今夜は全員できるだけ帰らないでほしい」  竹田は一瞬、そんな無茶なという顔をしたが、結局何も言わずに頷いた。 「わかった。他には?」 「後はオレが自分で連絡します。全員が、とにかく臨戦態勢をとるように」  その念押しに竹田は眉をひそめたものの、無言で線路を降りていった。怜の直観は動物的で、今まで何度も助けられている。狙撃や襲撃を、怜はどうしたものか間一髪でかわしてきた。怜が立ち去った直後に爆発が起こったり、行くのをなんとなくやめた場所が襲撃されたり。  だから今回も竹田は怜の判断を尊重したのだ。我を通す方ではない怜がここまで強く言うからには、何かある。  怜はスマホを出し、薫に電話をかけた。 「薫さん」 『どうした?』 「……愛してる。それはずっと変わらない。薫さんの心臓は……オレのものだ」  スマホの向こうで薫は黙り込んだ。怜の発言の意図を考えている様子だ。 「薫さん。今夜は蒲田に戻れる?」 『かなり難しいが……帰ったほうがいいか?』  怜は東を睨み続けた。そうだ。大丈夫。今は怜と薫が奴を挟んで話し合っている。あいつに逃げ場はない。 「すべての仕事を中断して、今夜は絶対に帰ってきてほしい。……音が……聞こえるから」 『音?』 「うん。『穴』が動いてる。東京の一番暗いところから、何かが外に出ようとしてる」  不気味な音はずっと聞こえていた。それは遠ざかるどころか大きくなってきている。  はっきりしない怜の言葉に、薫は何か言いかけ、そのまま再び沈黙が流れた。電話口の奥では人々のざわめきが聞こえる。『政府』のオフィスで他の人たちと一緒なのだろう。だが怜には、そのざわめきは大量の幽霊たちの囁きに聞こえた。  戦後、人は『穴』に近づかなくなった。それは汚染以上に、そこにいる数百万という霊を恐れているからだ。  彼らは今なお、『穴』の中でもがいている。呻き声を上げ、近づく者を濃い闇の中に沈めようと手を伸ばしている。  高遠がやろうとしていることが、今の怜には手に取るようにわかっていた。  あいつは『穴』に棲む者を解き放とうとしている。すべての悲しみと苦しみを手の平いっぱいにドロリとすくいあげ、ばらまくつもりだ。それは死せる魂を救うのではなく、もう一度苦しめるために行われる。  確信と共に、怜は線路を下りていった。  暗い沼の底は見えない。それでも薫と怜は、ありったけの力で今まで味わったすべての悲しみを撃ち込むだろう。  高遠は、自分が見ているつもりのものを、何も見ていない。薫が自分のすぐそばにいたことにも気づいていない。怜が自分の魂の本質を見抜いていることにも。  そして今の怜は、高遠がやろうとしていることを、誰よりも──薫よりも理解していた。

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