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第178話 蒲田にて(46)

 高田と宮城は「明日も仕事があるから」と言って、早めに切り上げて帰っていった。しばらくして江藤も帰っていく。怜は丁寧に挨拶して玄関先まで見送りに出た。  薫は彼らが帰った後も、食堂の隅に座ったまま、じっと思い出に浸っていた。  苦しい時期を経て、再び怜の姿を見たこと。そして、この食堂で怜が真価を発揮する瞬間を目の当たりにした時のこと。傷つき、やつれていながらも、怜は強い目で食堂を荒らす者を追い払った。薫の銃を肌身離さず持ち、街を守るために這いずるように生きていた怜を、今なお薫は愛しく思う。  簡易ベッドで苦しそうな顔を見た時、薫は自分を止められなかった。唇に水を注ぎ、怜が安心するまで抱き締め続けた夜、薫は誰にも見られずに泣いた。二度と取り戻せないのではないかと思った存在が、確かに鼓動しながら腕の中にあることに、薫はどれほど感謝しただろう。  怜の鼓動は、胸の傷を通して直接薫の心臓を動かしてくれた。薫はあの夜、怜の力で蘇った。死んだまま生きていた自分は、再び呼吸を始め、自分の足で地面に立つことを思いだしたような気がする。  渾身の力で、悲しみの底を穿て。怜は黒く淀んだ沼の底を撃ち抜くことで、2人の人生を作り替えた。  誰もが怜を慕う。一度見れば忘れられない目を、皆が覚えている。  おそらく高遠も──父親も、自分によく似た、それでいて全く違う目に惹かれていたのだろう。奴なりの歪んだ愛情で、高遠は怜を最後まで自分の手元に置いておきたかったのかもしれない。  無意識の中で本当に奴が執着していたのは、もしかしたら、薫よりも怜の方だったのだろうか。  もう、どうでもいいことだけれど。  薫が考え事にふけっていると、隣に座った男がぽつりと言った。 「怜さん、きれいですよね」  我に返って横を見る。いつの間にか、すぐ隣に竹田が座っていた。チューハイを飲みながら、竹田はリラックスした様子で怜を見つめている。 「やらんぞ」 「別に、あなた方の仲に割って入ろうなんて考えてませんよ。怜はあなたといる時が一番幸せそうだし。ただ……」  竹田は何か考えている顔で言った。 「2年前にあなたを裏切った時は、あなたたちが羨ましかった。……お互いがお互いの居場所になれるような関係を、おれは持てないんだって。佐木さんも怜も、いろんなしがらみの中で、それでも自由に見えた。いるべき場所があるから、どこかで迷っても、いつか帰れる。でもおれには、そうやって出歩く自由はないってね。細心の注意を払って犬を演じるのは、本当に……惨めだった」  薫は黙ったまま聞いていた。竹田は薫に話すというより、独り言のように話している。 「でも今は、なんだか吹っ切れた気分なんです。怜を見ていて……ていうか高遠親子を見ていて、言っちゃ悪いけど、おれの父親はマシなんだなって。おれは別に物事を強制されたことはないし、愛情が歪んでるわけでもない。自由がないと思っていたのは、自分の人生への言い訳だったのかもしれない」  途中から、竹田は自分の父親の話をしていた。心当たりがある薫は、頬杖をついて竹田を眺めた。  どこか不安そうな雰囲気は、もう今の彼にはない。怜の笑顔に目を細めながら、竹田は続けた。 「怜は、自分が頭を押さえつけられることに最後まで抵抗した。おれは……父親のやってることは高遠ほど理不尽じゃなかったのに、文句ばっかり言ってた。……この間、久しぶりに会いに行ってきたんです。父があなたと怜に『よろしく』と言っていました」 「話せたのか」 「知ってたんですか?」 「まぁな。高遠に拷問されたりしてた割に、お前は2年前の抗争の後、あっさり高遠の方に戻った。そのくせ怜のことは、きっちり匿っただろ? 薄々考えてたんだ。お前は……」 「かなわないなぁ。そうです。おれの本名は合田。群馬であなたが怜の保護を要請した人の、息子ですよ。  おれは昔、父とずっと折り合いが悪くて、東京で運び屋をやってたんですが、高遠に捕まった。これは本当です。抜け出したくて父に泣きついたら、逆に高遠の情報を群馬に流すように頼まれまして。その時はかなり父を恨んで、自由がないことを愚痴ってた。  高遠に言われてあなたのところに入った時も、けっこう捻くれてましたね。ただ……抗争の直前に珍しく父の方からコンタクトがあって、怜を高遠に渡すなっていう指示だけ受けましてね。蒲田のばあちゃんって、実はおれ自身のばあちゃんなんです」 「ってことは」 「父の母親に当たりますね。この食堂の従業員も数人、おれが父に言って派遣してもらったのが混ざってる」 「合田さんの要求は?」 「特に、何も。あの人は、高遠の勢力に怜が合流するのを危惧していた。あの人はあの人で、怜の実力は見抜いていたんでしょうね。群馬にとばっちりが来なければ、それでいいと言っていました。2年前の抗争の時に佐木さんに加勢できなかったのを謝ってましたよ。  父としては、埼玉県と東京都の境の、佐木さんが爆発させた例の地下トンネル周囲のスラムを警戒していたようです。あの地域を刺激したくなかったようで」 「なるほどな。まぁ今となっては、別に気にしてない。よろしく伝えておいてくれ」 「わかりました。……父は笑ってましたよ。派遣した連中には、一段落したら群馬に戻ってきていいって言ってあったのに、ひとりも戻ってこないってね。全員、この食堂が気に入って、ここで働きたいから帰らないって返事したって。結局、怜は自分の人望でこの街をまとめ上げた」  口元に笑みを浮かべたまま怜が戻ってきた。 「何? 話し込んでるの?」  薫と竹田は、身を起こして怜に笑いかけた。竹田はそのまま立ち上がる。 「おれ帰るわ。だいぶ飲んだし、明日も池袋で警察の捜査に立ち会わないと」 「おつかれさまです。今日はありがとうございました」 「じゃあまた。あ、見送らなくていい」 「そうはいかないでしょ」  竹田と怜が連れ立って入口の方へ行ってしまうと、薫はひとりになった。小上がりの隅は従業員の動線から少し離れていて、誰も薫の存在を意識していない。  薫はひとりで、全体を眺めた。  金があるわけでもなく、特別な料理があるわけでもない。ごく普通の人間が、日々を真面目に生きようとしている空間は居心地がよかった。  テーブルに座った人々は、好きな物を食べて飲み、心の底から笑っている。  かつて自分にも、そうした場所があった。子供の頃から大学時代にかけては、両親や陽哉、それに江藤や田嶋もいた。中央線南を仕切っていた時も、なんだかんだ楽しかったことを思い出す。少ない食料を分け合って、くだらないことを話しながら時間を過ごした。  いつの時代も、弱い人が世界を作る。そこに古いか新しいかは関係ない。  暗い書庫は燃え尽きたけれど、人が死に絶えない限り、街は続き、そこにはささやかな知恵が息づくのだろう。  穏やかな気分だった。酔ったのかもしれない。  怜が、食堂の人たちと談笑する声が聞こえる。屈託のない明るい笑い声が食堂に響く。  頬杖をついて怜の声を聞きながら、薫はいつしか、まどろんでいた。

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