4 / 14
ep.4
専門学校の最寄駅から二駅電車で移動してそこから徒歩15分の紫葵のマンションに二人は向かった。
家なんかに行ってもいいのかと花瀬は気を遣ったが、疲れてるし移動してまたそこから帰るのが何より面倒だと紫葵は返した。
築年数12年、4階建マンションの1階角に紫葵の部屋はあった。若者のワンルームの部屋はもっと物で溢れているのを想像していたが、紫葵は派手な見た目に反して部屋の中は色が少なく、モノトーンで統一され、練習用のカットウィッグがドレッサー前に二つ置かれたくらいで服などは全てきちんと収納されているようだった──。
「意外……って顔に書いてるんだけど。もっと汚いの想像してたの?」
図星を指され、花瀬は紫葵が嫌がるあの偽物の笑顔を作って誤魔化してみせた。
「その顔で二度と俺に笑いかけないで」と冷たくあしらわれ、花瀬は癖になっている自分の頬を軽く殴って猛省する。
六畳一間の一人暮らし用のマンションに客人が寛ぐようなスペースは大してなく、特に背の高い花瀬は紫葵からすると圧迫感があったのでベッドに腰掛させ、冷蔵庫から出したペットボトルの緑茶をマグカップに注ぐとレンジで温めて花瀬に片方を渡した。
「ありがとう」
「アンタもだろうけど、俺も明日は仕事だから。さっさと用件済ませて帰ってよね。で? どこから聞きたいの?」
紫葵はラグのひいてあるフローリングにペタリと座ってローテーブルの上に両肘をついてお茶を口に含む。
「居酒屋で──俺を見たのは本当?」
「……そこから?」と面倒そうに紫葵は花瀬を見た。あの朝可愛げのあった紫葵とはまるきり別人だ。人間冷めるというのは恐ろしいなと花瀬は心の中で苦笑いする。
「本当。アンタのテーブルは俺たちの隣だった。まあ仕切りはあったし、完全に丸見えってことはなかったよ。女のテンションが高いのが耳障りなくらいで。俺たちは俺たちでそれなりにうるさかったし、特にアンタの中で印象にも残ってないとは思うよ」
紫葵の言う通り花瀬は隣に美容学校の学生たちが飲んでいたことすら記憶になかった──隣の客のことなんて一度も見なかったのだと思う。
「そっちのテーブルがお開きになって俺は仲間の飲みから抜けた。それでアンタのことを追ったのは本当。店の前でアンタらは解散して、アンタは少し歩いてから帰りたいと言ってそこで仲間二人と別れた。川沿いのベンチに座って項垂れてるアンタに俺は声をかけた。そこで俺を見て辛そうに微笑んだ──栗花落 くんって俺を呼んで……ね」
「……俺が、君をそう呼んだ……。そうか、俺が、君を──」
花瀬はそこで全てを理解した。
無理矢理マンションに押しかけたなんてのは全て紫葵の作り話だったのだ──それも傷心していた花瀬をそれ以上傷付けないための、花瀬のためについた嘘だった──。
「アンタが……あの時泣いたから……。俺の手を握って、どうして俺はいつも選ばれないのかなって……。あの時、攫ってしまえばよかったのかな……って苦しそうに……、俺はもう人違いだよなんて言えなくて……」
紫葵は途中から声のトーンが小さくなり、マグカップの中の揺れる小さな水面を赤い瞳で眺めていた。
「そのあと、一緒にタクシーに乗ってアンタのマンションへ行った。アンタはずっとタクシーの中でも優しくて、部屋についてからも優しかった──。だけど……」
ギュッと紫葵はマグカップを持つ指に力を入れた。
「急に……息が荒くなって……ラットになった……。それまでずっと穏やかだったアンタが嘘みたいに荒々しくなって……別人で……怖くて、逆らったら掴まれた服が破れて……、そのまま俺もヒートになるのがわかった。怖かったけどアンタに触られると心臓がドキドキして、気持ちよくて──だけどずっとアンタは俺を栗花落くんって……呼ぶ、から……俺は……」
ポチャンと紫葵の瞳から大粒の涙が溢れて緑茶の表面に波紋を作った。
「怖かった……けど、身体が熱くて……わけわかんなくて、すごく痛いはずなのに気持ちよくて──頭の中ぐちゃぐちゃだった──」
ボロボロと紫葵は大きな瞳から涙を次々溢れさせた──さっきまで平熱だった紫葵が今は苦しそうに顔を赤くして泣いている。
花瀬はひどく胸が痛んだが、彼を慰める権利など自分にはないとわかっていたのでただその姿を黙って眺めることしか出来なかった──。
「ごめん……本当に、申し訳なかった……。君に乱暴して怖い思いをさせた。君の優しさを俺は全部踏みにじった……酷い言葉で君の傷を無神経に抉った。本当にごめん──」
花瀬は出されたお茶を一旦テーブルに置いてベッドから降り、紫葵に少し近付いた。肩を揺らして紫葵は一瞬怯えたが、花瀬は何もしないからと微笑む。
「大切なことだから確認させて。アフターピルは飲めた?」
「……うん……、ちゃんとその日に飲んだ……」
「辛かったし、心細かったよね……本当にごめん。一人で全部背追わせてごめん。身体は? もうどこも痛くない?」
「もう今は平気……。──ねぇ、栗花落って人はアンタの何?」
涙で濡れた大きな瞳に真っ直ぐ見つめられ花瀬は苦く笑う。
「俺が好きになった人だよ。ほんの数日しか一緒にいられなかったけど──俺はすごく彼を好きになったんだ……自分でも驚いたくらい」
「どうして番にならなかったの?」
「ならなかったんじゃない、なれなかったんだ……。彼には他に好きなαがいてね。本当はずっとお互いに想いあっていたんだけど、ちょっとしたすれ違いで少しだけ離れてしまって、だけどお腹の中にいた新しい命が再び二人を繋いだ」
「……デキ婚? 一番ズリィやつじゃん」
「ズリィって……、まぁ、でもその子がいなくても二人は結ばれていたと思う。お互いに強く惹かれあっていたんだから離れられるわけがないよ」
「相手の心を一番に思って、アンタは自分の恋から身を引いたの?」
「他人事 みたいに言ってるけど、君だって十分俺のために自分一人を悪役にしてたんだ。本当はその気持ち、わからなくもないんじゃない?」
花瀬の見たこともない魅力的な大人の微笑みに紫葵はうっかりときめいてしまって慌てて顔を逸らした。
「君は怒るかもしれないけれど、それでもこれだけは受け取って。君の服代とアフターピル代。最低限これだけは、お願い……」
そういって出された封筒を紫葵はおとなしく頷いて受け取った。
「あと、もし俺のせいで君に何かあったら必ず俺に連絡して。どんな小さなことでも、絶対に」
あまりにも真剣な花瀬の眼差しに紫葵は拒否する意地すら沸かなかった。
玄関で靴を履く大きな背中を紫葵はじっと見つめた。こんな広い背中をしていたのかと、なぜだか無性に触りたくなったけれど手はどちらも後ろに回して力強く握り、誤魔化した。
10センチほど低い場所にいるのにそれでも花瀬の顔は紫葵よりもまだ少し上にあって、いやでも紫葵は上目遣いになる。
「夜分遅くにお邪魔してごめんね。明日も仕事と学校頑張ってね」
「うん……」
紫葵はわざとそっけなく視線を逸らして気のない返事をした。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
微笑みながら花瀬はゆっくりと玄関のドアを外側から閉めた。そのまま足音が次第に遠くなるのを玄関から離れずに紫葵はその音が聞こえなくなるまでじっとそこから動かずにいた──。
翌日、ずっと心配していた奥秋に紫葵とのことを電話で告げるとすっかりと安堵した様子だった──。
「俺の友達はなんだか忙しいやつばっかりだ」と電話口で奥秋は嘆いていた。
「奥秋はやっぱり、貧乏くじを引くんだよ」
「やめろっ、二度と引かないからな! もうなんにもやらかすなよっ、しばらく禁酒だっ!」
花瀬は笑って奥秋との電話を切ると自身の勤めるオフィスのバルコニーで空を見上げ、大きく深呼吸した。
春風は時折冷たくもあったが、太陽が出ているおかげで今日は少し暖かい。
空は綺麗に晴れていて、なんだかうまくできた一日だと花瀬は空を見上げながら思った。
──新しい一日はこうやって始まっていくのかもしれないなと花瀬は大きく伸びをして再び自分のデスクへ戻って行った。
ともだちにシェアしよう!