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ep.5

 入社して4年目、そろそろ花瀬には海外研修の話が出る頃だろう──。  どこになるかはわからないが、一度向こうへ出たら2年は戻って来られない。  こんな時、独り身なのはかえって気楽で良いのかもしれないなと花瀬はポジティブに考えた。  どこに行くのか決まったら壮行会をやろうと江國に言われたが、やるとしてもお前主催のはもう行かないからなと花瀬はキッパリと断った。 「親友の優しさを踏みにじりやがって」  電話の向こうでしつこく江國が不満をたらしている。 「お前の優しさには余計な付録が付き過ぎてるんだよ、もっとシンプルで良いんだ。それに俺は2年日本に戻れないんだから今から恋人なんて作れない」  花瀬は職場から帰りの駅に向かう道すがら、酒の席を断ったことを不服としている親友の電話の相手をしていた。 「その日一日楽しく過ごせば良いだろ」 「それで俺は一度痛い目を見た。もう同じ轍は踏まない」 「──は? それいつの話?」 ──しまったと花瀬は思った。そういえば誰かさんには何も話していないんだった──なぜならばこの男に話すと…… 「なぁにぃ〜、なんだよぉソレぇ、面白そうじゃ〜ん。俺にも聞かせろよぉ、気になんじゃ〜ん!」 ──そう。こうなるからだ。 「──なんでもない。綺麗に忘れろ」 「え〜、優等生の花瀬くんがぁ、どんな大失態を犯したのかぁ、俺は知りたいなぁ〜」 「それだよ、それ。お前のその単なる好奇心でしかないところが……イテッ!」  携帯を持つ右腕に凄い勢いで人がぶつかり、花瀬は思わず声を上げた。 「──花瀬? どうしたっ、大丈夫か?」  真剣な声で電話の向こうの江國が心配している。  ぶつかってきた相手はすぐに花瀬の背中に隠れてたが、すぐにその正体は花瀬の知るところとなる。 「待てよ! 紫葵!」 「──紫葵……?」  前から追いかけてきた男がそう相手を呼んだので、背後に隠れた人物があの紫葵だとすぐに花瀬は知った。 「ごめん江國、大丈夫。またかけ直す」と花瀬は電話を早々に切りあげた。  正面から息を切らして紫葵を追いかけてきたのは同じ学校の生徒だろうか、水色に近い銀髪のような毛色をした若い青年だった。  紫葵より身体も大きく、どうもΩには見えない──。 「──つかオッサン、誰?」  花瀬は初めて言われた単語の意味をすぐに理解出来ずに真顔で数秒固まった。 「オッサン……? あっ、俺か!」と自身の顔を指して花瀬は再確認する。 ──確かにハタチそこそこからすれば25はオッサンなのかもしれないけ……ど……、と花瀬は勝手に震える指をゆっくり下ろしてゆく。  完全に背中に隠れた紫葵と呼ばれる人物が、あの紫葵なのかどうか目視で確認することが花瀬には出来なかったが、悲しいかな、その身体から漂う香りでそれが自分の知るあの紫葵だと理解した。 「オッサンはですねぇ、えーと……」 「ごめん龍樹(りゅうじゅ)! 俺この人と付き合ってる。ずっと内緒にしててごめん!」 ──聞き知った声が背後からとんでもない発言をした。  ここで何か言おうものなら余計ごちゃごちゃになる気がしたので花瀬は黙って龍樹と呼ばれた彼を申し訳なさげに眺めるしか出来なかった。 「はあ?! 初耳だし、こんな会社員とお前がどこで繋がるんだよ。それにこの人結構エリートのαじゃないの? そんな人がお前なんかを選ぶはずないだろ」  その一言に花瀬は素直にカチンときた。 「君の言ってる意味がわからないな。お前なんかってのはなんだ。君は自分の好きな相手を侮辱するのか?」 「侮辱? ナニソレ、ウケる。α様は使う言葉がもうヤベェ感じするわ。」 ──なるほど、この青年はβなのかと、彼からする空気感で花瀬は理解した。 「オッサンもういいって、たまたま通りすがりにそいつに巻き込まれたんだろ? 悪かったよ。ホラ、他人に迷惑かけんなよって紫葵!」  男は傍まで来て背中にいる紫葵を花瀬から引き離そうと乱暴に両腕を引いた。痛みで小さく紫葵が呻き声を上げる。 「よせよ! 乱暴するなっ」  花瀬は無性に腹が立って男の手を思い切り払いのけた。思っていた以上に力が強かったらしく、かなり痛かったのだろう、相手は花瀬に向かって顔を上気させて激昂し、睨みつける。 「アンタには関係ないだろが!」 「それとこれとは話が別だ。どうして嫌がってる相手に無理矢理するんだ、口で話せばいいだろう」  我ながら耳が痛いと内心思いながらも花瀬は怒りで熱くなっている男を真剣な顔で諭した。 「話すことなんてないっ、俺は龍樹と付き合えない。だから忘れて、俺はこの人が好きなの」  さっきからうまい具合に花瀬の死角に紫葵は回り込んでは顔を隠すので、全く紫葵の表情が花瀬からは見えなかった。  本気なのか、目の前から逃げるための嘘なのか、さっきから簡単に人の心を乱すような発言ばかりしてくる紫葵に花瀬は無駄に感情を振り回される。 「紫葵、嘘はやめろよ。本当は知り合いでもなんでもないんだろ? オッサンも迷惑(こうむ)ってるじゃん、離してやれって紫葵!」  紫葵の細い肩を無理矢理男は揺らして花瀬から引き剥がす。とうとう我慢できなくなった花瀬が男から紫葵を身体ごと奪い返した。 「ちゃんと話そうとしないなら君には渡せない!」  その言葉に初めて紫葵はずっと俯きっぱなしだった顔をようやく上げた。  花瀬とようやくそこでお互いの顔が見えた。 「ふざけんなよオッサン! 邪魔すんのもいい加減にっ……」  真横で男が声を荒げる中、紫葵は細い両腕を花瀬の首に回して体重をかけ、無理矢理その唇を塞ぐ。  花瀬は急に体重をかけられ、よろけながらも紫葵に被さって転ばないように慌ててその腰を抱きとめた。  唇が離れて、至近距離で花瀬は唖然とした顔で紫葵を見たが、相手は今にも泣きそうな顔をしていて花瀬は何も口にすることが出来なかった。  紫葵の話を成立させるために黙って今度はこちらから口付ける。 ──ああ、こんなところ会社の人に見られていたらもう死ぬな……と頭の片隅で思いながらも紫葵が余裕なく漏らす吐息に耳がやけに痺れた。  腹を立て呆れ返った男はいつの間にか二人の前から姿を消していた。 「ええと、これは一体……?」 「ごめんなさい……」  紫葵がしおらしく反省しながら俯くので、花瀬はそれ以上責めることが出来なかった。

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