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ep.12
花瀬の待ち望んでいた日がとうとう訪れた──。
キャリアを積んだ商社マンとしてはあるまじき思考ではあったとは思うが、自分の本心に嘘はつけない。
ずっとこの日を待っていた──
見えない空の上の国境を越え、愛しい人が待つ国へと帰るこの日をずっとずっと──
何度も何度も夢に見た──
早く会いたい。
会って、直にこの目で確認したい。焼き付けたい。
その柔らかい髪に手を伸ばしたい。今あの紫陽花は何色に化けているのだろうか──
2年もあれば身長だって伸びたかもしれない、社会に出て顔つきだって変わったかもしれない──
でもきっとあの花の香りはきっと変わらないでそこにあるはずだ──
あの丸い、猫の瞳も愛しい笑顔もきっと、きっと──
──そうでないと困る。そうでないと俺はきっと耐えられずに今度こそ死んでしまう──。
走るようにして入国審査を終え、手荷物を受け取り、落ち着かない精神状態で税関をどうにか抜け、ようやく到着ロビーへ辿り着く。
紫葵は必ず迎えに行くとメッセージをくれたのに、こんなにも足元を不安が絡みついて上手く速く歩けない──。
はやく、はやく──会って君を今すぐ抱きしめたい──早く君を感じたい──早く!
「紫葵!」
ゲートを抜けた瞬間すぐにわかった。
ピンク色の頭でも金髪でもなかったけれど、その姿が纏う空気だけで自分のΩだとすぐにわかる──。
「慧くん!!」
紫葵は花瀬を見つけた瞬間、白い肌をピンクに染めて眩しいくらいに微笑んだ。両手を高く伸ばして自分はここだと大きく手を振る。
きっとその隣に立っている悪友たちのことなど今の花瀬には一切目に入っていないだろう──。
花瀬は両腕を伸ばして紫葵を引き寄せ、これ以上はないくらい強く、その身体を抱き締めた──。
「くるしっ……慧く……」
画面越しじゃない、直に耳の奥に届く紫葵の声──。
花に似たその香り、胸に伝わる心音、肌、温度、触れられるこの身体の全て──夢なんかじゃない、本物なんだ──ここにいるんだ──
自分の腕の中にあの紫葵がいる──
「おかえりなさい。慧くん──2年間お疲れ様でした」
ようやく全身の力を抜いてその顔を間近で確認した。
少し大人になった紫葵がそこにはいて、2年前にはなかった不思議な色香がどことなく漂っていて花瀬の胸は無駄に騒いで心臓が早く打つ──
「髪の毛、薄茶色だ──こんなナチュラルな紫葵初めて見たよ──」
「地毛、だよ。日本に帰ってきたら本当の俺で会いに行こうと思ったの。流石にどの紫陽花にも当てはまらないでしょ?」
「紫陽花のこと覚えてたの?」
「忘れるわけない。慧くん言ったこと、忘れるわけないよ」
「2年間、本当に待たせてごめんね。長かったよね、一人にしてごめんね。でも待っていてくれて嬉しい、本当にありがとう──愛してるよ、紫葵」
「俺も──愛してる、慧くん……」
紫葵の唇に触れかけた瞬間、風船でも近くで割られたような赤ん坊の鳴き声がロビーに響いた。
花瀬は思わず紫葵から顔を離した。
泣いていたのは隣に立つ奥秋の腕の中で抱かれていた小さな赤ん坊だった──。
見たこともない──小さな子。
だけれど花瀬は何の疑いもなく口にした──
「──俺の子だ……」
奥秋は微笑みながら泣いてるその子を紫葵へと預ける。紫葵の胸に抱かれた瞬間、その子は嘘みたいにピタリと泣くのをやめた。
「凛 っていうの……女の子だよ。今1歳と3ヶ月。こんな大切なこと内緒にしててごめんね──だけど話したらきっと慧くんは日本に帰ってきちゃうと思ったから。ずっと言わずにいたんだ──本当にごめんなさい」
腕の中で紫葵と同じ薄い茶色の髪をした小さな女の子を花瀬は幻でも見るみたいに覗き込んだ。
ゆっくりとその柔らかな頬に手を伸ばし、そおっと頭を撫でる。
「可愛い……。小さいなぁ……、ふふ。目が紫葵そっくりだ。おっきくて猫みたいに丸い……」
「鼻は慧くんに似て高いでしょ?」
「うん、そうかも──」
くすりと笑ってつんとその小さな鼻の先を人差し指で触れ、花瀬は形を確かめる。
「名前……一緒につけたかったよね……ごめんなさい」
「ううん、謝らないで……。凛か──可愛い名前。紫葵と同じ夏の名前だな……。紫葵がずっとこの子を守ってくれてたんだな。一人でずっと頑張ってくれたんだね──大変だったよね。すごく勇気がいったよね──ありがとう、紫葵。この子を無事に産んでくれて、大切に育ててくれて、守ってくれて、本当にありがとう」
ずっと張り詰めていたものが解けたのだろうか、紫葵はいつのまにか泣いていた──。
21歳ではじめての妊娠と一人で向き合って、一人で決意して、そして出産した──。
一人でずっと番に伝えることなく自分の子どもを守り続けた──。
「紫葵にはもう、一生頭が上がらないな」
花瀬は、凛を胸に抱いて泣いている紫葵をそのまま優しく大きく包み込むようにしてゆっくりと抱き締めた──。
──嘘みたいだ──。
眠っているこの子が自分と紫葵との間に生まれた命だなんて──。
「まだ見てるの? 寝顔なんてそんな変化ないよ?」
「1年と3ヶ月分見てる」
寝室に置かれたベビーベッドの中ですやすやと眠り続ける我が子を花瀬は穴が空くほど眺め続けた。
「明日も明後日も凛は消えてなくならないよ」
「でも今日の凛は今日だけだから、目に焼き付けたい」
「慧くんって思ってたより親バカ? ねぇ……でもさ、いい加減俺のことも見てほしいんだけどっ!」
いい加減娘ばかりに視線を奪われることに腹が立ったのか、見ていたスマホを枕元に投げると紫葵は花瀬の背中に勢いよくしがみつき、頭や耳やうなじに何度も何度もキスをした。
余りにもくすぐったくて花瀬はすぐにギブアップすると、身体の向きを変えて愛しいΩを抱き上げベッドへ押し倒す。
嬉しそうに微笑む紫葵のピンク色の頬を撫で、花瀬は愛しそうにその目の奥を覗き込んだ。
「綺麗になったね……ずっと可愛い仔猫みたいな顔してたのに。ママになったからかな?」
「ママって呼ばないで、俺は慧くんのママじゃないんだからねっ。俺の気持ちはあの付き合いたての頃のまんまんなんだから」
「俺だって同じだよ──」
付き合いたてのあの頃と変わらないその細い身体を確かめるように、花瀬は大きな手でゆっくりとそのラインをなぞる。
それだけで紫葵は瞳を潤ませ、いやらしく腰をうねらせた。
「紫葵ってばえっちだな……」
「だって、ずっとずっと触ってもらえなかったんだもん……当たり前でしょ?」
紫葵は熱くなった身体をわざと花瀬の股間に擦り付けて花瀬を誘う。
「慧くんだって……もう、こんななってる……」
細い指でボトムの上からなぞられ、花瀬は腰が浮いた。
「どうしよう──俺、紫葵のこと無茶苦茶にしそうで怖い……」
「いいよ──慧くんは俺の番なんだから……慧くんがしたいようにして……俺はそれだけで幸せ……」
見た目は天使みたいに可愛いのに、口からこぼれる悪魔のようなその恐ろしい誘惑に花瀬は全身の骨を失った気がした。
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