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3◆槙枝惣

 その日のおれは珍しく飢えていた。  おれはひきこもりと呼ばれる類の生活を送っていて、人間との交流はほとんどない。  この星に流れ着いてもうずいぶんと経つけれど、知り合いと呼べる人間は、太陽系の惑星の数より少なかった。  そもそもおれは、《監視する人たち》によって行動を制限されているし、人間との接触も必要最低限になるようにと言われている。これは人類からの警告ではなく、おれがこの星により長く、快適に滞在するための助言だ。  おれは外に出ない。一歩も出ない。時折健康状態を申告しに行くとき以外は従順に、惑星由来の植物と鉱物で作られた耐用年数切れ間近の住居の片隅で過ごしている。イシャンがレモンハウスと呼ぶ、崩れそうな屋敷の隅の部屋が、おれの居場所だ。  おれは基本的に動かない。動く必要が特にない。  この星は、この国は、とてもうるさくて、おれはじっとしていても食べるものに困らないのだ。  この星の人々が定義している『生物』ですらない。栄養を取って生命を維持している、という点以外は、おそらくこの地球上のどの生物とも違う構造をしている筈だ。  内臓も血液もない。筋肉組織もない。じゃあ水を運ぶ管や葉緑体があるのかと言えばもちろんそんなものは存在しない。おれの身体はのっぺりとした均一な物体で、ただ音を食べて存在するだけの何かだ。  自分が何かということを、文明の違う生命に説明することは難しい。  人間たちだって喋る鉱石に『どうして水を飲むのか』と問われたらちょっと考えてしまうだろう。自分の身体のことを文明レベルで理解している人は、きっと少ない。  おれだってまあ、似たようなもので、こういう生き物なんで理解してくださいでごり押した部分が結構あった。  音を食べる。音さえあれば死なない。音を聞く以外の感覚は少し鈍い。身体はかなり自由に変形できる。そしておれは、人類に害を与えるつもりはない。  この説明を全部信じてくれたのかはわからないけれど、とりあえず今のところは平和に日々を過ごしていた。  七年前に、住居を日本に移した。それまでおれを見るだけの係はIと呼ばれていた背の高い男性だったけれど、日本には彼も同行した。  日本の地を踏んでから、おれは彼のことをイシャンと呼ぶようになった。イシャンはよく笑うようになったので、おれも真似をして表情というものを覚えて行った。  彼が『行き倒れていたもので』と日本人の男性を背負って帰って来たのは、たぶん二年くらい前のことだ。  アルコールに酔って死ぬ寸前だったその人は、しばらく滞在して療養したのちに『ここで暮らしたい』と正々堂々と直談判してきたから仕方なく、宇宙人なんでちょっと無理ですって告白したのに、なんだそんなことかと笑った。野瀬徳市さんは、その日から同居人になった。  人がいる生活は騒がしい。人がいる生活は麗しい。  欲を言えば少し軽めの男性の声がおいしいのだけれど、生憎とトクイチさんが連れてくる『エーブイジョユウ』という人たちはみんな、甲高いざりざりした食べ心地の声ばかりだった。  それでも、食べるものがないよりはマシだ。  そんな当たり前のことに気が付いたのは、空から白い水の結晶が降ってきて、徐々に降り積もった冬の日だった。  いまから半年前の冬の日。とても白かったあの日。  人で言うところの触感というものが、おれはあまり鋭敏ではない。  切られても焼かれても殴られても命に別状がない。特別身体の表面や感覚を鋭敏にしなくても、おれは生き延びることができる。発達する必要のなかった気管と能力は、結局備わらずに切り捨てられた。  そんなわけで、おれには『寒い』という感覚があまりない。  ただ気温が下がっていることはわかるし、ようするにこれが冬って季節の雪ってやつだ、ということくらいは流石に承知していた。日本の生活も七年だ。移ろう四季にもいい加減慣れる。  その七年の中で、こんなにも雪が積もったのは初めてだ。  異常気象ってやつに違いない。  おれにしてみたら、こんな不安定な大気の中で繁殖している人間の方が異常なんだけど。……でも、確かに異常だと騒ぐ気持ちもわかる程の大雪だった。  日本に来る前のおれは常に室内で監視されていたし、外の音を食べて生きるような環境じゃなかった。だからおれは初めて知ったのだ。  大量の雪は、音を吸収してしまうということを。  おれの監視役のイシャンはその時、近くの食事処に出かけていた。  食事をするためではない。イシャンは食物の調理ができるから、わざわざ外部で食事をする必要はない。  彼は料理がうまい……らしい。おれは人間の食べ物を摂取しないのでよくわからないけれど、トクイチさんがひどく苛立たし気に『アイツの飯食ったら他のモンが湯がいた紙みてーな気分になる』と喚いていたから、きっと相当な腕に違いない。  料理がうまいイシャンが食事処に出かける理由はずばり、働くためだ。なんと彼はおれの監視を小型の機械に任せて、勝手に副業を始めてしまったのだ。  職務怠慢だよね。でも、アナタは本当に特に何もしないので飽きました、と言われてしまうと、この前やっと覚えた苦笑いを浮かべるしかない。  そしてその日のトクイチさんは、なんとひどい熱で寝込んでいた。  秋になってもぺらぺらな甚兵衛一枚、Tシャツ一枚でうろうろしているからだとイシャンは笑っていた。彼が居ついてから、イシャンは更によく笑うようになった。  そんなわけで、頼れる人は一人もいなかった。  最近のおれは少し贅沢になっていたのだと思う。自分で何か音をたてる気がおきない。麗しい雑音が恋しい。ただ生きているだけでこんなにも煩い、素晴らしい星。その真っただ中で、自給自足をするなんて馬鹿げている。  おれは飢えていた。そして少しだけ我儘な気持ちを持て余していた。  だから、スポーツドリンクがほしい、というトクイチさんのお願いを、これ幸いと言い訳にして白い世界に飛び出した。  もっさりと降り積もる雪。白い雪。音を食べてしまうおれの天敵のような水の結晶。  地面に積み重なった雪を踏みしめ、特に寒くはないけれど薄着だと怪しまれんだろ、と瀕死のトクイチさんがひっかけてくれたマフラーに顔を埋め、おれはサクサクと雪を踏んだ。  べつに、外出が禁止されているわけじゃない。だからきっとイシャンに怒られることはないし、イシャンも怒られることはないだろう。  どんなにがんばっても黒になってくれない青い髪と目も、帽子とサングラスで隠した。髪はまあ、最近は似たような髪色の人間も増えて来たみたいだけど、目は流石に違和感があるだろう。  おれの本体は、というか、本来の色は青だから、うまく身体に色を反映できないとだいたい青色になってしまう。体毛の再現なんてリソース食いすぎだから無茶だ。  変装がうまくいったのか、それともみんな、大雪にいっぱいいっぱいで青い髪の宇宙人なんて注視している暇はなかったのか、おれはきちんとお使いをこなした。  ドラッグストアの軽やかな店内放送を食べ、主婦と思しき女性たちの立ち話を食べ、ザクザクと雪をかくたびに地面をひっかくスコップの音を食べた。  トクイチさんのための飲み物と食料品を買い、存分に彼らの音を満喫し、静かな部屋に舞い戻るべく帰路についた。……その時だ。  思わず、足を止めた。  とてもすてきな音が聞こえたのだ。  あまくて、かるくて、ふわっとしていて、とてもおいしい。なにかの旋律のような、静かな音。びっくりしすぎて、立ち尽くしたまま瞬きを二分くらい忘れてしまったけれど……サングラスが不自然なおれの瞬きを隠してくれていたと信じたい。  そのおいしい音は、か細い声の『歌』だった。  ふらふらと吸い寄せられるように足が動いた。早く帰ってトクイチさんに水分を渡さなければいけない。けれど、ほんの少しだけ、ちょっと寄り道をしたい。  言い訳をしながら分け入った公園のベンチに、その人は座っていた。  真っ白な景色のなかで、そこだけ塗りつぶしたように、黒い。黒いパンツに、黒い上着。髪の毛も黒いから、本当に真っ黒だ。  うっすらとあいた口から、零れるのはか細い歌声だ。  その人は、おれに気が付くと歌をやめて、ぼんやりと視線を上げた。何か大きな荷物を持っている。それが彼の大切なギターだということを、いまのおれは知っているけれど、そのときは荷物なんかどうでもよかった。  もっと歌ってほしい。もっと聞かせてほしい。もっと食べたい。きみのうたを。  勿論そんな風に声を掛けたらまずい。おれは宇宙人だけれど、地球上で地味にひっそりと暮らしていく知恵は持ち合わせている。  こんにちは、だろうか。それとももう、こんばんは、の時間だろうか。  おれが迷っているうちに、ベンチに座った彼は盛大に咳き込んだ。  ……よく見れば、目の焦点が合っていない。おれはこれと同じ顔をついさっき見て来たばかりだ――そう、熱でうなされる、トクイチさん。 「きみ、もしかして、具合悪いんじゃ――」  最大限注意を払って声をかけたというのに、真っ黒な彼は荒い息を吐いた後にぐらりと重心を失った。  慌てて駆け寄る。おれは寒いとか暑いとか冷たいとか、そういう感覚は鈍いのだけれど……支えた彼の身体は、確かに発熱していた。  イシャンがトクイチさんを拾ってきたとき、この国の道端で人が倒れていることなんかあるのだろうか、と不思議に思った。清潔で、豊かで、国民のほとんどに帰る家がある国なのに。  あの疑問は撤回だ。現におれはいま、外で倒れた男の子を支えている。 「…………大丈夫じゃない、ねぇ」  さて、どうしよう。  このまま放置して帰ったら、最悪死んでしまうかもしれない。  おれには地球人に加害する意図はないけど、彼らを助けなければいけない理由もない。  ただ、いまは日本の国籍を(どうやったのかは聞いてないけど)貰っていたし、市民としてひっそり税金も納めている。宇宙人だけど、人間である前に、一市民なのだ。  善良な市民は、倒れている人間を見殺しにはしない筈だ。うん。そうに違いない。  これは言い訳ではなく、とてもよいアイディアだった。おれはこの素晴らしい思い付きに従い、おいしいうたを歌う彼を――碓氷丹夏くんを、住居である檸檬屋敷に連れ込むことにしたのだ。  よくよく考えたら完全に『捕食行動』だ。でも、一見、というか一応人命救助だから、うん。  捨ててきなさいって言われるかなぁ、と思ったけれど。  でもイシャンもトクイチさんも、人間嫌いだなんて言うわりにおれには甘いし、きっと気に入られたら問題なんか何もなくなるに違いない。  そもそもトクイチさんも最初は取得物だった。ならおれだって、彼を取得したっていいはずだ。うん。……やっぱり怒られるかな。どうかな。こういう気持を、人間は『不安』というのかな。  めずらしくぐるぐると無駄なことをあれこれ考えながら、おれは我が家を目指して彼の身体と荷物を担ぎなおした。  おれはこのとき、檸檬屋敷の大人が彼を気に入るかどうか、それだけを気にかけていた。  まさか、目を覚ました初対面の青年に、雌雄の番が持つべき感情をぶつけられるなんて――そう、つまり、彼がおれのことを特別に気に入ってしまうなんて心配は、これっぽっちもしていなかったのだ。  そして同時に、おれ自身が彼に特別な感情を抱くことなんか、本当に全く、露ほども思っていなかった。おれは宇宙人だから。感情なんかないから。人間とは別の生き物だから。  その垣根を、お互いに超えてしまうなんて、微塵も思っていなかったから。

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