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4◆イシャン

 クソみたいな人生と言われたら、まあそれはそうでしょう。とお答えするほかない。  まったくもってその通り、私の人生の半分程度は見事なクソだ。  総合して半分と言ったものの、幼少期だけをピックアップしてみれば十割クソだったと断言できる。この場合のクソは、『とてもひどい』という形容詞的な意味合いと、『動物の排泄物』そのものの、どちらも兼ねていた。  物心ついた頃、私はインドに居たので、己のことをインド人だと自称しているが、さて本当にインドの血が流れているのかどうかはわからない。  私は孤児で、ストリートチルドレンで、物乞いで、男娼だった。  厳しいかの国のカーストからもあぶれた最下層の子供。売るものなど自分の身体しかない。あの国にはヒジュラーという存在もあったが、私はそのカーストにすら組み込まれていなかった。  さてどうやって日々を生きていたのか、思い出すことは難しい。  正直なところ、記憶が混濁している部分が多い。  クソのようなクソまみれの生活を細切れに続けていった先、何度か死にかけ、何度か捕まり、何度か売られ、気が付けば私は英語の国に居た。  私が奴隷として、またはただの肉として人生を終えることがなかったのは、物を覚える力が飛びぬけていたからだ。そして、それを見つけてくれた大人に出会えた幸運も付け足そう。  私は記憶力が良い。特に、耳から入って来た音は、相当なことがなければ忘れない。どうやら理解力も並みよりはよかったらしく、教えられるままに世界の言葉を覚えた。  勉強は、私の人生の中で数少ない安らぎだった。集中していれば、どんな過酷な人生も、食事のまずさも、夜伽の痛さも忘れられる。  しばらく金持ちの物珍しいペットとして飼われていた記憶がある。このあたりの時系列もなんというか、シャキッとしていない。言葉の濁流は今でも思い出せるのに、私がどこで何をしていたかは曖昧なのだ。  いつかは忘れた。どこかも忘れた。おそらくはその時の飼い主が主催した悪趣味な見世物パーティーだったのだろう。何かの縁でその場に居合わせた妙齢の女性は、私が出会ってきた人間の中で初めての『まっとうな感性』を持ち合わせていた。  いや、まあ、あの組織の関係者であるというだけで、正直倫理観やらなにやらは狂っているのでしょうけれど、そこは見ないふりをする。誰しも欠点がある。完璧な人間などいない。彼女の職場は欠点だらけだったが、彼女が私に対して見せてくれた誠意は百点満点だった。  貴方の耳は、私達にとって財産になるだろう。肉としての生活を辞めて人として働きたいと願うなら、次の新月の日に、ここを抜け出して東の川まで走りなさい。  私の耳元で、私の飼い主が知らぬデンマーク語で囁いた彼女に従い、私はそれまでの生活と名前を捨てた。  それからの半生は、うーん、まあまあクソ、くらいのものだろう。私は基本的に学ぶことを好んだが、人間も人間以外のすべても基本的に死ねばいいと感じる畜生だったから、かの組織には随分と教育された。 「というわけで、まあまあ楽しく宇宙人の観察をこなす日常ですよーという大変なハッピーなお話なのにどうして身体を引くのでしょうねタンゲさん。この話振って来たのアナタでしょタンゲさん」  百円ショップで買った揃いの箸を持ったまま、見事固まる向かいの席の青年に解せないですねーと笑顔を向ける瞬間は、正直楽しい。  私は所謂サディストと言われる程他人に興味はないはずなのだけれど、ウスイタンゲ青年はどうにも、私の人間らしい部分を刺激する。 「ええ……いや、なんか……今後の人生っつーか仕事の参考に、って軽い気持ちで訊いただけなんすけど……なんですかその、しんどい映画のしんどい部分みたいな話……」 「うはは。確かにー三時間超大作のじっとーりしたいやーな部分を煮詰めたような人生ですよね~。あ、その唐辛子たべられませんからねーどれ、貸してください避けてあげましょう」  彼の取り皿の辣子鶏から、いそいそと赤い実を取り除く。  本来は唐辛子の隙間に隠れた鶏肉を楽しくつついていただくものだが、タンゲ青年は妙にぼんやりとしているところがあるから、うっかり食べてしまいそうで危ない。  私は良いが、彼はそこまで香辛料を好まない筈だ。ちなみにもう一人の住人も辛いモノを好まない。  レモンハウス(と私は断固呼ぶ)の無駄に広い台所は、一階の奥にある。  この古めかしい木造二階建てはどこぞの会社寮だったらしく、個室の中にトイレもシャワーもキッチンもない。  私が苦心して調達した宇宙人の隠れ家に勝手に住み着いた日本人二人におかれましては、ぜひとも勝手に生きてほしいものだがなんと彼らは私が憐み少々引いてしまう程、料理が、そう、調理全般が、できなかった。  ……うーんタンゲさんはまだマシだけれど。彼はとにかくモヤシ料理しかできない呪いにかかっているので、今はその呪いをキャベツと茄子から解いている最中だ。  仕方なく『材料さえ買い込んでいただければ調理しましょう仕方ありませんねひれ伏して崇めて盛大に感謝してくださーい』ということで、百パーセント善意で日々、彼らの食事係を買って出ていた。  我ながら甲斐甲斐しい。といっても私は毎日大変暇なので、なにかしら手を動かす用事がある、ということは歓迎すべきことかもしれない。  本日のメニューは辣子鶏(鶏肉と唐辛子の中華炒め)、茄子とピーマンの煮びたし、トウモロコシと卵の中華スープだ。どの季節でもなんでも揃っているスーパーマーケットに恵まれた国だが、それでも季節の野菜を食すと四季を感じてしまう。  ふわっとした卵スープをずずっといただきつつ、思い出の中のクソの臭いをさっさと追い払った。折角柔らかくふわっと浮かんだ卵からクソの香りが漂いそうだ。  私の人生の半分はクソだったし、幼少期は十割クソだったけれど、今現在は比較的クソとは言い難い生活を満喫しているのだから。あえて嫌な記憶をほじくり返す必要はない。  普段は封印してまるでなかったかのように押し込めている過去を、つらつらと語ったのはタンゲさんの為だ。  イシャンさんって、どういう経緯で今の職についたんですか。  少し遅い夕飯時にふとそんなことを訊かれたものだから、しばらく考えた私は私なりの誠実さと意地悪さで、誤魔化さずに素直に語った。  私の職とはつまり、宇宙人の監視だ。  私が所属する組織に正式名称はない。言えない、のではなく存在しない。定期的に名前を変えているし、誰も彼も覚えようとしないから、職員すら皆好きなように呼んでいる。  私はしばらく前まで通称だった《パンドラ》という呼び名が個人的にグッとくるが、中二病すぎるという指摘も多く結局《監視組織》だの《監視する人々》だのつまらない名前が横行している。若干解せない。  まあ、名前などどうでもいい。大切なのはその仕事内容。  そう、我々は未確認生物等の地球上に存在するはずのないものたちを『監視』する。巷で人気の某確保、収容、保護財団と間違われることが多いが、あれは別のモデルがあったはずだし、私達は確保も収容も保護もしない。  監視。ただその一点のみ、我々は遂行する。  ――と、言うと大変格好いいのだが、要するに確保も収容も保護もできるほど科学力が足りていないのだ。  現状衛星にすら手が届かない人類が、宇宙という空間を颯爽と移動して難なく地球に溶け込むモノたちを捕えておく術などない。  せいぜい抹殺くらいしか選択肢はないのだが、下手に手をだして人類皆殺しにされても困るので、やっぱり観察しかできないのだ。 「…………さーせん、あの、急にSF映画になるのもどうかと思います……しかも日常シュール系……」 「言い得て妙ですねぇーアナタのその感性と語彙力、ワタシも見習いたいものですー」 「つーか、収容も保護も抹殺もできねーのに監視してて、なんか意味あるんですか?」 「ありますとも。だって人間は台風を消滅させることはできませんが、気象状態を観察して台風の経路を予測するでしょう? さて、収容も保護も抹殺もできない台風を観察するのは何のため?」 「……被害を、最小限に抑えるため……?」  イエス。彼の基本学力は若干低めだが、頭の回転は悪くない。 「あー……えーと、つまり、イシャンさんたちが槙枝さんを観察するのは、いざやばいことが起こりそうになったら人類に避難を促す、為?」 「まーそのくらいしかできませんからねぇ」  確保など、収容など、保護など烏滸がましい。  我々人類は彼らに対して、外から観察する程度の干渉しかできないのだ。  などと、格好つけてみたものの、私個人の仕事は非常に平和なものだ。  何と言っても対象M-119こと仮名マキエ・ソウは、私達とのコンタクト初期から表明しているとおり、人類及び地球上のあらゆる生物について、破壊あるいは干渉の意図がないのだ。  故に私は暇である。  暇すぎてついにしびれを切らした私は、ファミレス、コンビニ、チラシ配り等々、外国人が紛れ込んでも違和感のない程度のアルバイトに精を出しているものの、それでもやはり時間が余る。  このところは日本風の保存食の作成に手を付け始めた。ボトルシップを作ることには飽きたし、よくよく考えてみたら私はボトルシップを飾る趣味もなかったし。 「ああ……あの梅干し、食費節約の隠し玉とかじゃなくて、暇つぶしだったんだ……」 「お金なら余る程ありますよー。我が社は景気だけはいいですからねぇどっから湧いて出てる金か知りませんけど、まあ、間接的に地球人類を護っているわけですから防衛費ですよ。建物の維持費と食費以外にお金なんか掛かりませんからー」 「そのお金で床の補修したらいいんじゃ……」 「えー。必要です? 避けながら歩くの楽しいじゃないですかー。床よりさきに、アナタの熱心なストーカーが連打しすぎて壊したドアチャイムをどうにかしようかなぁと思っているところですね」 「……それは、あの……本当にすいませんっした俺が謝るのもなんか癪なんですけど」 「その後、彼女説得できたんです?」 「………………」  おっと、目を逸らしたということはノーということか。  まったく彼は本当に見た目よりも随分と気弱でかわいい。私の好みではないけれど。 「まあ、意中のギタリストの後をつけて住居に押しかけてまで口説いてくる熱意は、少々はた迷惑ではありますが。バンドメンバーを探しているのは、アナタも同じでは?」 「そう、なんすけど」 「女性は嫌?」 「いや、そんなことは……。でも、俺、バンド組むごとに揉めてて、なんかもう、一人でやった方がいいのかな、とか思ってて」 「ほーう。まあ、アナタも彼女もギターボーカルですしねぇ。被っちゃってるのだから、そりゃ悩みますよね」 「……ほんと、イシャンさんは何でも知ってますね」 「ふふふ、秘密組織の一員ですからねー。レモンハウスに多少でも関りがある人間の素性はさくっと調べるのが日課ですからね。暇つぶしに丁度いいですよーおかげさまで日本のアダルトビデオの女優に異様に詳しくなってしまいましたけどー」  茶化して笑いながら、空になった皿を重ねて手を合わせた。  ゴチソウサマデシタ、という言葉も日本のよい文化だ。特別食物に感謝しようとは思わないが、食事を切り上げる明確な言葉が存在するのは気持ちいい。  洗います、とタンゲさんが席を立ったタイミングで、ひょっこりと顔を出したのはもう一人の居候だ。  そんなに何もかも青いのだから、わざわざ黒髪ばかりの日本に行かなくても。と、八年前の私は不安を訴えたものだが、トクイチさんの赤い髪を見るたびに『むしろ日本で良かったなぁ』と思う。赤、青、黄色、緑、果てはシルバーからレインボーまで、他人がどんな髪色をしていようが、冷たい無干渉を貫く国だ。とてもありがたい。  今日も髪を括ったサムライ男は、非常に疲れた顔を隠さない。不機嫌なのではない。愛想笑いが面倒なだけで、この顔が彼流の愛想なのだ。 「…………イシャン……水……」  あ、いや訂正。今日は普通に疲れているらしい。 「炭酸水とオレンジジュースとコーラとただの水、どれがよろしい?」 「炭酸……」 「また随分とお疲れですねぇ、夕飯どうします? まだ暖かいですけれど」 「いま食う。モザイクかけがおわんねーしぬ。つかよく見たら女の私物に版権キャラいんの。全部モザイクなんすけど嘘だろモザイクかけんのは股だけにさせてくれよ……」 「わぁ。アングラなお仕事も結局は地味作業ですねぇ」 「つか丹夏、このまえの金髪ちびっこ、また玄関先に来てたぞ。裏庭から覗くのやめろっつったからか知らんけど、正々堂々玄関ぶっ叩いてたから、いますぐ行ってやめさせろ。ピンポンの次はガラス戸ぶっ壊すかもしんねーぞ」 「え。え!? す、すいません、すぐやめさせます……!」  あわあわと席を立った若人は、若干扉にぶつかった後に慌てて廊下を走って行った。  炭酸水をグラスに注いで、コトンとテーブルに置く。いままで私が座っていた席に腰を下ろしたトクイチさんは、別段苛立った様子もなく息を吐いた。 「わっけーなぁ。バンド勧誘とか青春じゃねーの、って思うとなんかちょっと殴りたくなっからオレも歳だなぁー」 「三十四歳でしょうトクイチさん。十分若いですよー」 「おまえほんっとなんでも知ってるから嫌だわ。プライバシーって知ってるかインド人」 「そんなものね、宇宙人と同居をしているあなたたちには、あってないようなものと思ってください。紙より薄っぺらいですからね。オブラートの方が厚いですよ。それを承知で居候していますでしょ?」 「あーいや……おまえに必要なのはプライバシーの配慮じゃなくって、デリカシーか……」 「わぁ、失礼ですねー。暴言ですねー。今日も酷いですねー。ごはん取り上げちゃおうかしらー」 「時々近所のおばちゃんみたいになんのやめろ、おもしれーから」  くつくつ笑って、大皿から鶏肉を摘まんで口の中に放り投げる。辛いですよ、という暇もなかった。辛いですよ、と私が言うまえに食べてしまうアナタが悪い。  私はただ、辛いですよ、と今更な言葉を告げながらそっと炭酸入りのグラスを差し出すだけだ。 「…………かっら!」 「いやぁ、どうみても辛いでしょうよー。トクイチさん用には別皿にカシューナッツ炒めを作ってあったのにー。はいはいお水飲んで飲んで。あ、でも辛い物のあとに炭酸水って痛いです?」 「いってえ……けど、かっれーよりはマシ……っあーいてえー」 「三十四歳なのに辛いの痛いんですねぇ」 「三十四歳でも嫌いなモンくらいはあんだろうがよ」 「辛いモノ、シイタケのニオイ、女の愚痴、でしたっけ?」 「……今日のオレは疲れてっから、何でも知ってるインド人を殴ったりはしねーけど、別の日には言葉で殴るかもしんねーから覚悟しとけよ」 「うふふ。うそばかりー」  トクイチさんが少しだけ怒ることがわかっていて言葉を垂れ流すのだから、八割くらいは私が悪い。後の二割の悪は、私に心を許しすぎているアナタの鈍感さだ。  好きなものを三つ、嫌いなものを三つ。これは先日、意気消沈しながら面接から帰宅したタンゲさんが、私達に披露した笑い話だ。  私とトクイチさんは多いに笑った後に憤慨し、マキエさんはきょとんとしつつもタンゲさんの背中を柔らかく叩いていた。私達が笑い怒る理由はわからないが、タンゲさんが悲しんでいること自体はわかったのだろう。  あの宇宙人は、不思議ととても生温い。優しいわけではないのだけれど、半歩程度近寄って、どこか痛いの? と屈んでくれる。そんなイメージがある。  本人に自覚があるのかないのか、どうもあの不幸な日本人の青年に対しては特に、寄り添う姿勢が強いのだけれど――さて、タンゲ青年と同じ感情なのか、それともただの捕食者としての本能なのか。  別にどちらであっても、タンゲさんが死ぬことはないので(捕食するといってもマキエさんの主食は音であり、声であり、決して命や肉ではない)ま、どうでもいいかと思う。  私はこの国で暮らし始めてから、あまり悩まなくなった。  清潔で、潔癖で、無干渉な優しさの国。私のクソ百パーセントの幼少期とは正反対の国。こんな国に来てまで、過去の自分を憐れむ必要はない。そう思う。  というかうだうだと考えこむとよろしくない悩みが、チラチラと私の視界の端に映ってくるからできるだけ心を無にしてどうでもいいですものーという体を保っていたい……というどうしようもなく駄目な理由もあった。  私の直視したくない苦悩の根源である赤い髪の三十四歳日本人男性は、グラスの炭酸水を飲み干してから私の箸で私が残していたスープを勝手に平らげ、満足げな息を吐いてから立ち上がる。 「んーあー……若干栄養入れたらなんか行ける気がしてきたわ……やっぱ作業しながら食う」 「ワタシにできることがあれば、多少でよければお手伝いしますけれど」 「いや、おまえほら、インド人じゃん。なんかアレだろ宗教とかでセックスは不浄みたいなアレあんだろ知らんけど」 「それイスラムの方じゃないですかねーワタシも詳しくはありませんけど。名字もないワタシに、信仰する宗教なんかあるわけないでしょう」 「なんか地味に重そうなセリフぶっこむのやめろ、反応に困っから。なんにしても手伝いはいいわ。同居人に手伝ってもらうような仕事でもねーしさ。あー……明日までに終われば、まあ」 「明日が締め切りなんです?」 「いやそういうわけじゃねーけど、明日台風の予定じゃん?」 「はあ。お天気予報はそう申していますけどね」  夏の終わりは、台風の季節だ。トウモロコシと茄子の代わりに栗とキノコが並び始め、ついでのように台風予報が連日舞い込む。  この度の台風何号とやらは、相当な大きさと強さらしい。頻繁に『命を守る行動を』というニュースが目に入るものの、裏庭の檸檬の鉢を室内に取り込み、あとは屋根が飛ばないようにと祈る他に出来ることもない。  一階の窓はトクイチさんとタンゲさんがベニヤで塞いでくださった。  もしものことがないとは限らないので、二階在住の私とタンゲさんはさて食堂で一晩明かそうか、と話し合っていたのだが。 「丹夏はあれだ、槙枝んとこにぶっこみゃいいだろ。こんな機会でもなきゃあいつ一生宇宙人に青春片思いしてそうだしよ。丁度いいから一晩ぶち込もう」 「アナタ……そんな……これを機に正式にふられたらどうするんですか……」 「そんときゃ新しい人生踏み出しゃいいだろうが。んなことよりてめーだよ。こんなせめー板の間に布団敷かなくてもオレの部屋ベッドあんだから、オレんとこで寝りゃいいだろ」 「……………………え。え? あの、いや、……え?」 「おまえ、ガチで驚くと表情消えんのな……万が一屋根飛んだら最悪命もぶっ飛ぶだろーがよ。オレの部屋のベッドってまあつまり知らん男女が致してる撮影スポットだけどよ、寝るだけなら寝れんだろ。それまでにモザイク処理は終わらせっから、気兼ねなく寝ろ」  さて、私は彼に何と答えただろう。  正直な話、記憶がおぼろげで覚えていない。私は昔から、嫌な話や考えたくない事からは目を逸らし記憶をぶつ切りにする癖がある。  トクイチさんのことが嫌いなのではない。その逆だ。  私が彼の好意にさらりと礼を述べ、いつものように軽口を返せない程動揺してしまったのは、私のなかで燻るどうしようもないまるでティーンエイジャーのような感情のせいだ。  トクイチさんは他人の事情には配慮できるわりに、己に向かう感情には鈍感だ。鈍い。とても鈍くて涙が出るほど鈍すぎる。  だから私の動揺は、単に『他人がセックスするような寝床で寝ろと言われて困っている』程度に思っている事だろう。全く違いますすっとこどっこい、と言えたらどんなに楽だろうか。  でも、言わない、言えない、そう決めたのは私だ。  私はゲイだし、彼はストレートだ。告白の先に何が待っているのか、楽観的な予想ばかりできる歳ではない。タンゲさんは若い。新しい人生を踏み出す機会もあるだろう。だが私は、この家から出ることも叶わない。  やはり何か勘違いしているらしい鈍感純朴なサムライは、潔癖なのはわかるけど命は大事だぞ、と私の背中を叩いてから、カシューナッツ炒めの皿と米を盆に乗せ、さっさと自室に戻ってしまった。  残された私は息を吸う。長く吐く。  そうして食器の片づけもそのままに、向かいの宇宙人の部屋の引き戸をガラリと開けた。  今日も青い彼はぼんやりと事務用の椅子に座っているだけだ。ただ、最近は小さく歌を口ずさんでいることが多い。それはタンゲ青年が時折自室で弾き語っている歌だということを、本人もタンゲさんもたぶん、まだ気が付いていない。 「……イシャン?」 「すいません、ほんの二言でいいので。私の声を食べてください」  ふわっと笑うマキエさんの顔からは、私の挙動不審さは読みとれない。  私はきちんと笑えていたかわからない。この人は宇宙人だから、地球人の感情の機微を表情から読み取ることは苦手なのだ。  好きなものを三つ、嫌いなものを三つ。  私には、そんなに思い浮かぶものがない。それでもただひとつ、好きだと思える人がいる。  言うつもりはないけれど、それでも時折、溢れて吐きそうになる。そんな時に私は申し訳なく思いつつも、宇宙人の部屋の扉を叩くのだ。  ああ、臆病で困る。鈍感で困る。でも、伝えるつもりは毛頭もないもので。  あなたがすきです、と吐き出した、私の言葉はすっぽりと、宇宙人の腹の中に食われて消えた。

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