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5◆槙枝惣
おれは、おそらく人間よりも耳がいい。
厳密にいうとおれが音を拾っている器官は耳ではないのだけれど、じゃあ何と言われると人間の部位では説明しがたいので、簡単に『耳が良い』と表現する。
聴力というやつを測ったことはあるけれど、それがどんな結果だったのかは教えてもらっていない。おれの身体検査は人間が納得し研究するためのもので、おれがおれを人間の尺度で知るためのものではないからだ。
それでもまあなんとなく、他の人よりも遠くの音を拾っているんだろうなぁ、というのは感覚でわかる。
イシャンが反応しない犬の声(彼は犬が苦手だから鳴き声がするととても嫌な顔をする)、トクイチさんが気付かないほど遠くの消防車の音(トクイチさんは消防車が通りかかるとすぐにどこが火事なのか調べる)、丹夏くんが聞こえてないと思っている夜に小さく口ずさんでいる歌(彼は自室でよく作曲をしているから)。
そういうものを、おれは敏感に拾う。
煮ても焼かれても切られても死なないおれが唯一死ぬとしたら、音のない世界での餓死なので、そういう意味では生存のための進化なのかもしれない。
おれは遠くの音を拾う。細かい音も正確に拾う。
だから、時折この建物の玄関を叩く女の子が、ついに昨日丹夏くんの手を取って彼を連れ出してしまったことも聞き取ってしまっていた。
その後彼らがどんな話をしたのかは知らない。おれの異常な音への執着も、半径一キロ程度しかその能力を発揮しない。
駅の先のファミレスに行ったのかも。それとも、その先のカラオケかも。電車に乗って別の街に行ったのかもしれない。
おれは丹夏くんを連れて行ってしまった彼女の名前が針ヶ谷スズハということも、彼女が丹夏くんの才能をとても気に入り熱心に一緒に歌おうと説得していることも、丹夏くんがその熱心さに少し困惑していることも知っている。
彼女は別に、丹夏くんのことが好きだとか、彼と番になりたいとか、そういう目的があって連日会いに来ているわけじゃない。彼女がほしいのは、丹夏くんの歌という才能だ。
そんなことはもちろん、承知しているのだけれど。……でも、人間の文化ってやつはやたらと雄と雌がセットで描かれているし、どの映画もどの小説も、目を通す度に当たり前のように『恋愛』というキーワードが出てくるものだ。
おれの種族には雌雄がない。だからわざわざ自分以外の誰かを選ぶ必要もないし、誰かを特別だと思うこともない。
人間の世界で生活して、彼らのことを学び、彼らの感覚を知り、彼らのとても強い自我と感情を知り、おれも引っ張られるように随分と自我を強くしたと思う。
昔は、おれがおれだという自覚はそれほど強くなかったものだ。基本的に単体で生きるおれたちには、他の個体との区別や強い自我は必要なかったのかもしれない。
いや、おれの自我のことはどうでもいいのだけれど……。
そう、ええと、丹夏くんのことだ。丹夏くんと、彼と一緒に歌うことになるかもしれない彼女のことだ。
昨日彼女に手を引かれて出て行った丹夏くんは、二時間後に一人で帰宅した。
そっと音に意識を集中するおれに、眠そうなトクイチさんとぐったりとした丹夏くんの会話が届いた。
んで、どうなったんだバンド。金髪ちびっこと再結成?
……する、かもしれないです。
ちゃんと選好んだのかよ。他人のせいにして選んだ道は後悔した時きっついぞー。
ちゃんと、はい。選好みました。押しきられた感はまあ、否めないですけど……。
え、まじか。お祝いじゃねーか。でも今日はねみーしモザイクおわんねーしねみーからとりあえず明日だな。いや台風くっから台風通り過ぎて檸檬屋敷の屋根が無事だったらだな。
俺のお祝いまでのハードル高いっすね。
そう言って笑った丹夏くんは、あのきれいな声で小さくおやすみなさい、と呟いてから静かに二階への階段を上って行った。
いつも、音楽の話をするときは少し重い声だった。でも昨日の彼の声は随分と軽かった。重い何かが、スッとなくなったみたいだ。
おめでとう、とトクイチさんは喜んだ。
きっとおれも、おめでとう、と言うべきなのだろう。
でもなんとなく、何ていうか、……何かがつっかえたような、不思議な気持ちだ。
おれは自我とか感情とか、そういうものに関しては人間よりも疎い。鈍い。だからおれが抱えているこの気持ちが一体何なのか、これは人間に置き換えるとどういう感情なのか、わからない。
一応反人類的な感情の芽生えだったら困るので、先ほどイシャンにすべて話して意見を求めてみた。
おれの話をなんだか心ここにあらずという感じの珍しい状態で聞き終わったイシャンは、珍しくびっくりした顔をしてから、いつも通り笑った。
いや、いつもよりもう少し目じりが下がっていたかもしれない。トクイチさんが『胡散臭い』と言っているときではなく、『いつもあの笑い方してりゃいいんだ』と言っているときの顔に近いと思う。
「世の中何が起こるかわかりませんねーワタシ的には大歓迎ですが。そのままいっそ、メロメロになって首ったけになってしまったらよろしい」
「……きみはたまに、わざと主語を抜くからいじわるだなぁと思うなぁ」
「いじわるだなぁってことについに気が付いたんですから、本当に進歩です。いや、退化なのかな? アナタに感情と自我が芽生えることは、アナタにとっては退化かもしれないですよね。どちらにせよ、人間側は八割大歓迎です。退化だろうが、進化だろうが、宇宙人が人間に明確な好意を持ったことに変わりはありませんからね。愛憎に溺れて人を殺したいと思うようになったらちょっと要相談ですけれど、好きなモノができるのは、シンプルに、うん、よいことです」
「すきなもの」
そう言われて初めて、ああそうかこれが個に対する好意なのか! と気が付き、本当に驚いてしまった。
驚く。そんな感情だって久しぶりだ。おれは基本的に鈍感なのに、昨日から随分といろんな感情を持て余している。
そうかおれは、丹夏くんがすきなのか。彼のことを気に入っていて、彼がおれ以外の人間と仲良くしていることが、番になりそうな異性と一緒にいることが、嫌なのか。彼の歌がおれ以外に向くことに、不満があるのか。……成程これは、イシャンもびっくりな非常に人間的な感情だ。
何故急に人間的な感情が芽生えたのか、理由もきっかけもわからない。ゆっくりと培ってきたものに今日初めて気が付いただけかもしれない。丹夏くんの登場で急に進化(または退化)が加速しただけかもしれない。そんなものはおれにもわからないが、とにかく事実としておれは感情を実感している。
感情の存在に気が付き納得したのはいいのだけれど――いや、よくない。全然よくない。
だって今日は丹夏くんがおれの部屋に来ることが決定していたからだ。
地球の表面を滑らかに滑る気圧の渦が襲ってきたとき、この星の人々は家に立てこもって、災害が通り過ぎるまでの時間を祈りながら過ごす。
トクイチさんは、一階の外壁を少し補強したけれど、二階は何かが飛んで来たらアウトだ、と言っていた。だから二階に住んでいるイシャンと丹夏くんは、今晩だけ一階で寝ることにしたのだという。
お前の部屋空いてんだろ、ちょっと丹夏寝かせとけ。この前トクイチさんにそう言われたときは、もちろん問題ないよとさらりと了解した。問題はなかったのだ、そう、ついさっきまでは。おれが、感情なんてものに気が付くまでは。
うっわぁ。どうしよう。
いや、あの、どう、って言っても、どうしようもないんだけど。
なんだか全部がそわそわとする、気がする。
おれは内臓とかないし肌の感触とかも曖昧だから、なんていうか、どこがそわそわするのかも明確ではなくて気持ち悪い。心臓もないし血圧とかもないから、『胸がどきどきする』とか『顔が熱くなる』ってこともない筈なんだけど、全身がぐわっとするような気がしてきた。
ていうかなんか、体内の水分濃度が上がっている。普段はほとんど変化なんかないのに、丹夏くんのことを考えておれがぐわっとする度におれの中の水分濃度が若干上昇するのだ。
……知らなかった。本当に今初めて知った。
おれは恋をすると、ちょっと全身が水っぽくなるらしい。
えええ……。なんか、もっとこう、せめて、ふわふわ浮いてしまうとか(いやちょっとびっくりしたり慌てたりしたせいで重力計算ミスって一瞬床にへばりついちゃったけど)、色が変わっちゃうとかのほうが良かったなぁ……。
水っぽくなるって、なにそれ。
仕方なく外気に触れている表面から水分を分散させるけど、水はどんどん沸いてくる。
このままだと人間に似せて固定している外見が維持できない。ただでさえ人間的外見の固定は不得意で、特殊な金属でピン止めしてどうにか保っているというのに。
もうこれ、口からオエッて出しちゃった方が早そうだな……。
なんかこう、初めて気が付いた自分の新しい体質にがっかりしすぎて、丹夏くんへの気持ちを一瞬だけ忘れ、手近にあった空き缶を掴んだ。たぶん、トクイチさんが煙草を吸うときに置いて行った灰皿代わりのビール缶だ。
体内に溜まった水を吐き出したことなんかない。一度もない。だからとりあえず、明確なイメージを探す。そうだな、えーと……飲みすぎた日のトクイチさんかな。歯磨きをしているときのイシャンよりは、的確なイメージだと思う。
胃の中の未消化のものを吐き出すときのように、おれはペッと恋で溢れた水分を吐き出した。
と、同時に(ひどいことに)(とても最悪なことに)おれの部屋の戸が開いた。
「……ま、きえさ、何してんすか……!」
すごくびっくりした、という顔をして、布団を放り投げた丹夏くんが駆け寄ってきた。
何もない部屋なのに何もない地面にちょっと躓いちゃった彼は、もだもだしながらおれにたどり着くとすごく心配そうに背中に手を当ててくれた……けどおれの方こそ慌てて飛び退く。
こんなに機敏に動いたのは久しぶりだ。
別におれの運動能力は人間より劣ってはいないけれど、おれは一日中椅子の上に座っているだけでも問題なく生存できるから、動く必要がなかっただけだ。筋肉が退化したり床ずれしたりしないんだもの。
うっかり俊敏に避けてしまったせいで、また丹夏くんを驚かせてしまったらしい。
おれが嫌がって飛び退いたと思ったのかもしれない。いや違う違う、と言うために、口元の水分を拭う何かを探す……くっそ、もう、ほんとうにおれの部屋は何もない!
しかたなく袖で拭い、なんだか呆然と突っ立っている丹夏くんに手をふる。
違う、というジェスチャーで、よくイシャンがやる動きだ。
「あの、違う。違うんだよ、今おれすごく水っぽいから、きっと丹夏くんを不快にさせちゃうし触らない方がいいって思って、別にきみに触れられるのが嫌だとか困るとかではなくて!」
「水っぽい……? 槙枝さん、どっか悪いんですか? だってそんな、水吐いてんの初めて見たし、つか椅子から立ち上がったの久しぶりに見たし、なんか無理してんじゃ……」
「ちがうーってば。とりあえずおれは元気です。ね? ほら、五体満足って言うんでしょこういうの。とりあえず布団拾って、お入りよ。……ちょ、だから、今水っぽっいて言って……っ」
「心配なんです」
おれの制止を振り切って、丹夏くんは大股で近づいてきて、あっというまにおれの腕を取る。
脈なんてない。体温もきっと丹夏くんより低い。だから丹夏くんに伝わるのは、おれの意味不明な水っぽさだけだ。
「顔上げてください。なんか、いつもと違いませんか、槙枝さん。なんつーか……目がうるっとしてるし」
「だからーいまのおれは、水っぽいんだって……あの、もう離してもらえると、とてもうれしいんだけど」
「やっぱり変です。槙枝さんが嬉しいとか言うの、俺聞いたことない。……台風の気圧とか、関係あったりする? イシャンさん呼んできます。まだ電車は動いてるし、トクイチさんなら車運転できるし、具合ヤバいならすぐに適切なとこで、対処してもらった方が――」
……ああ、なんて不便なんだろう、と思う。
真剣なきみの表情を見上げながら、おれときみの種族の違いに憤る。感情ばっかり湧いて出てくるのに、おれの身体は相変わらずただの宇宙人だ。
こんなに彼の言葉が嬉しいのに、こんなに彼に触れてびっくりしているのに、体温が変わったり脈拍が速くなったりはしない。
おれの顔が真っ赤になれば、おれの鼓動がきみに伝われば、口に出さなくたって伝わるかもしれないのに。
生憎おれに起こった変化は水分量が変わるなんていうわけのわからないものだけだったから、素直に心配してくれる丹夏くんに安心してもらうには、本当のことを告白するしかない。
口を開き空気を振動させ、声を言葉にしなくては、伝わらない。
「あのね。本当に具合が悪いとか、どこかおかしいとかじゃないんだよ。おれのからだは、きみたちと違ってかなり頑丈だから。今日はちょっと、初めて覚えた感情ってやつに、びっくりして、というかそのせいで水を吐いちゃったみたいで」
「初めて覚えた、感情……?」
「うん、あのー、実はおれはきみのことが好きだって気がついちゃって」
「…………………うん?」
あ、まずい、これは信じていない反応だ。
というか何が起こっているのか、ちょっとわかっていないっぽい。無理もない、おれの顔はどう見ても平常心だろうし、愛とか恋とかを告白する人間の様子とは随分とかけ離れていることだろう。面倒くさくて瞬きカットしてるし、余裕なくて微細な表情に気を配っていない。丹夏くんからしてみたら、能面のような無表情な男からの唐突な告白なのだ。
だって仕方ないじゃないの、宇宙人なんだもの。
それでもきみの好意が嬉しいし、きみの隣に居たいと思うんだもの。
「………………迷惑?」
なんかこう、『は?』みたいな顔している丹夏くんを殴りたいような気持になってきて、眉を寄せて睨んでしまった。なるほどこれが怒りってやつかぁ。随分と、気分が疲れる感情だ。
おれに睨まれたはずの丹夏くんは、何故か急にぶわっと赤くなって、そのあと首をぶんぶん横に振ってから、つっかえるようなおいしい声で『めい、わく、じゃ、ない、です』と言った。
迷惑じゃないです。
その言葉は、おれの聞き間違えじゃないよね?
「本当に? おれ、宇宙人だし、なんか恋しちゃうと全体的に水っぽくなるみたいなんだけど、それでも大丈夫? 水っぽいおれでも好きでいてくれる……?」
「なんすかそれ可愛いかよ。水っぽくなるって何、あ、でもなんか確かにしっとりしてますね、可愛い。言われてみれば顔もちょっと汗ばんでる感じですね可愛いです」
「丹夏くん、言語能力がバグってるけど……」
「ちょっと現状のハッピーさが俺の限界を上回ってます。トクイチさん流に言うと処理落ちってやつです」
ああー、携帯ゲーム機を真剣な顔でつついてるときのトクイチさん、確かにたまに、そんなことを叫んでるね。
「だって、俺はずっと、槙枝さんのことが好きだったけど。モロバレで好きだったけど。マジヒトメボレだったけど。槙枝さんは、全然そんな、人間なんかに恋しませんよってスタンスだったし、え、急にマジでなんで、みたいなパニックっていうか」
「だって、きみのうたは、おれだけに歌ってほしいと思ったんだよ」
それって好きってことでしょう?
もしかしたら、きみの恋とは別の感情かもしれないけれど。人間の感情とは少しずれているかもしれないけれど。
おれがきみを独り占めしたいと思った気持ちは、まぎれもなくただ一人、碓氷丹夏という一人にしか感じたことのない感情だ。
恋なのか愛なのかと言われたら断定はできない。それでもきみは、おれの『すきなもの』なのだ、ということは間違いない。
「おれはね、丹夏くんが好きだよ。好きだなって思うたびにちょっと水吐いちゃうかもしれないし、種が違うから、子孫は残せないとは思うけど。それでもよければきみの、種族違いの番に、おれはなりたい」
「……告白が、宇宙人すぎる……」
「宇宙人だもの」
ふふふと笑えば、赤い顔の丹夏くんにぎゅうっと抱きしめられてまた水を吐きそうになった。
丹夏くんは人間型のおれより少し背が高い。おれは外見を整えることがあまり得意ではなくって、この顔とこの背格好以外だとあんまり安定しないから、きっとこれからも彼に抱きしめられるときはこんな風にちょっと抱き込まれるみたいになるんだろう。
「はー……水になっちゃいそう」
「つか俺もテンパってて、汗ばんでるかもしんない……」
「あー、そっか、人間は汗もかくよねぇ。じゃあおれがちょっと水っぽくても、そんなに変じゃない?」
「たいして気にはなりません、今のところ。そんなことより、あの、ちょっと、お願いがあるんですけど……」
「え、なに?」
「……キスしたら、おこる?」
ものすごく小さな声だった。普通の人間なら聞き逃しそうなくらいに小さくて、熱をもった甘い声。
きみのそんなおいしい声に、おれが抵抗できるわけもない。ていうか可愛すぎてぐわっとしてどばっと水吐きそうになった。
……恋をすると馬鹿になるって小説によく書いてあったけど、あれって比喩じゃなくて本当にそのままの意味だったのかも。おれの語彙力、日本語を取り込み始めた当初くらいに下がっていそうだ。
幸いなことに、今おれの口の中は濡れている。ただ外見を似せているだけで、食事をとる器官でもなんでもないから、基本的におれの咥内は唾液で湿っていたりしない。
おれが恋をすると水っぽくなる体質でよかった!
いやこのために体液として分泌したのかもしれない。なんにしても、わざわざ咥内を湿らせる必要もなく、とてもスムーズにおれは人間っぽく口を開けることができたはずだ。
たくさん映画を観ていていよかった。
おれはキスをする習慣なんかないし、もちろん初めての行為だ。けれどこれが人間にとっては最良の愛情表現だということを学んでいる。
丹夏くんの唇がおずおずと、おれの唇に触れる。もっと敏感にきみを感じ取れたらいいのに、もどかしい。でも、きみが気持ちよければまあ、それでいいし、きみがかわいいからもうどうでもいいかな。
とても恥ずかしそうに、おれの唇を舐める丹夏くんに、どんどんとおれも水っぽくなる。洒落じゃなく水になりそうで怖い。
おれが水っぽいどろどろした何かになっても、丹夏くんは可愛いとか言いそうだけど、できることならば彼が好きだと言ってくれる外見を保っていたい。
ちょっとだけ舌を絡めるようなキスを終えて、丹夏くんがもぞもぞと自分の唇を舐めた。
……いまの、良かったな。うん。おれ、丹夏くんのうただけじゃくて、顔も好きなのかも。なんてじわじわ眺めていると、丹夏くんは急におれの首筋を舐めた。
「……っ、わ、何……」
いやくすぐったいとかはない。感覚が鈍いから。それはそれとして、急にアクションを起こされるとびっくりはする。丹夏くんは、いきなり触ってくるようなタイプじゃないと思っているから、なおさらだ。
「…………なんか槙枝さん、すっぱいんですよね…………口ん中だけかと思ったら、やっぱ肌もすっぱい」
「え。なにそれ。水? 分泌物のせい? おれ、何味なの?」
「なんつーか、レモンっぽいです」
「……あ!」
そういえば、と思い当たることがあった。
この屋敷の名前がレモンにちなんでいたからおれは、裏の庭にレモンを植えた。おれは味覚も嗅覚も鈍い。だけれど、レモンの強い酸味と香りは、ぎりぎりおれの感覚にも響いた。
だからおれは育てたレモンを時折食べる。
おれが音以外に体内に取り込む、特になくてもいい栄養素。それでも人間の気持ちを少し理解できる、面白い食べ物。それがレモンだったから。
「……たまに食べてる、からかな。おれは排泄とかしないし、基本的に細胞が変わったりもしないから、ずーっとレモンの要素が残ってるのかも……」
「槙枝さん、レモンでできてるんです……? え、なにそれ、ちょう爽やかじゃん……てか初ちゅーはガチでレモンの味だったんですけど……」
「初めてだったの?」
「うん。……ていうか初恋なんで、これ」
「うわぁ」
「…………もっと可愛い反応してほしかった」
「いや、だっておれ、宇宙人だからね」
宇宙人に初恋だなんて、可哀そうだし笑えない。それでもおれは、他の人にしなよなんてもう言えなくなってしまった。
宇宙人なのに、恋なんかしてしまったからだ。
「とりあえず、布団敷いた方がいいんじゃないかなぁ。別におれは、立ってても疲れないけど、きみは寛いだ方が良いと思うし」
「……布団敷いたら布団の上でいちゃついてくれます?」
「構わないし嬉しいけど、でもおれたぶんすごい水っぽくなっちゃうよ? 布団、びちゃびちゃにならない?」
「………………その言い方あの……よくない……」
「え、そうなの? 人間難しいね?」
ちょっとよくわからなかったから、後でイシャンに聞こう。人間の、日本人の情緒もスラングもまだ知らないことが多いけれど、これからまた学べばいいかなと思う。
おれは恋をすると水っぽくなる。その上、レモン味らしい。
そんなどうでもいいことを知り、さらに人間の感情をいくつも学んだ。
きみを拾った大雪の日。きみに恋した台風の日。なんだかいつも、悪天候とセットでおもしろい。おもしろい、なんて感情も不思議なもので、おれの心情の進化と退化の結果は一体どこに行きつくのかな、ってほんの少しだけどきどきした。
元々おれは、この星になんの敵意もないんだけれど。きみのせいでちょっとだけ愛情ってやつを覚えた日だった。
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