3 / 10

2.依頼人の秘密

 作家の仕事は不安定だ。今はまだ、祖母が残してくれた家と遺産があるから、専業としてやっていけている。だけどこれがいつまで続くのかわからない。五作目が文庫化する、というのはかなり順調な方であるらしい。  だけど最近、聖は書けなくなっていた。  日がな一日机の前に粘ってみても駄目。気分転換とインプットを兼ねて美術館や古書店街を巡ってみたけれど何も湧かない。試しに規則正しい生活というものを実践しようとしたが、たった数日で、滅多に崩さない体調が悪くなった。  理由は明白だ。祖母が亡くなり、生活が変わってから。頭の中が常に靄が掛かったように錆びていた。いまだに立ち直れていないというわけではない。一人で泣いたり、孤独に苦しんだりすることはなかった。むしろ、一人暮らしは性に合っていたのだと感じているくらいだ。  だから、これはきっと疲れているだけ。色々あったから。ちょっと休んだら、また書けるようになる。そうやって、自分に言い聞かせながら、真っ白な画面の前に座っている日々に、焦燥だけが募っていた。  それが――こんなふうに一変するなんて。 「――わっ、すげぇ」  弥永呉服店からの徒歩圏内にあった依頼人の家は、立派なゴシック建築の洋館だった。  特徴的な三角屋根が棟のように立ち、アーチ形の入り口が見えている。その扉を中心に左右に別れた建物は煉瓦造りになっており、古風な品を湛えていた。緑の芝と脇に花壇のある庭は、最低限の手入れこそされているものの、蔓は伸びっぱなしになっている。  ミステリ小説の舞台にもなりそうな、旧家の一族が住む洋館。そんな印象を受けた。  岩崎邸や旧古川邸といった有名どころは観覧したことがあったが、実際に人が暮らしている場所に入るのは初めてだ。これは想像以上に、良い経験が出来るバイトかもしれない。  感激する聖をよそに、弥永は門の前まで進み出た。 「ほら、行くよ。それにしても君、こういう建物に興味あるんだね」 「えっ? あぁ、まぁ」 「ちょっと意外かも」  くすりと笑われるのと、呼び鈴が押されるのは同時だった。またしても聖は黙らざるをえない。  別に作家だということを隠すつもりはなかったが、なんとなく言いそびれていることには気付いていた。手伝いをしたいと言った動機が不純だとは自覚しているし、それに弥永は、自分がネタにされることを嫌がるかもしれない。 (でも、早いとこ言わなきゃだよな……) 今日、この仕事が終わったあとにでも改めて話そう。  そう決意して、聖は弥永の後に続いた。 「本日はよろしくお願いいたします」  丁寧に頭を下げた女性――依頼主の杉崎は、二人を和室へと招き入れた。  すらりとした長身と、固く結った黒髪。今日は地味なワンピースを着ていたが、涼しげな目元からも、和装が似合うように見える。立派な屋敷に暮らし着物を嗜む奥様、というよりはやや若い印象だ。聖の一回り上くらいだろうか。  案内された十二畳ほどの和室には、既にたとう紙(着物を保管する包紙をそう呼ぶのだと弥永に教わった)から取り出された着物や帯が、床を覆うように並べられていた。華やかな訪問着から小紋、留袖など種類も様々であり、どれも上等なもののようだ。 「これは――すごいですね」  世辞か本心か、弥永は嘆息する。一方で、女性の反応は薄かった。 「すべて手放したいんです。値段はつきますでしょうか?」 「えぇ、拝見させていただかないことには詳しいことは言えませんが」 「値段は気にしません。いいようにしていただければ」  そう言って、依頼人は部屋を出ようとした。 「あ、お待ちください。汚れなどがないか、この場でご一緒に確認いただきたいのですが」 「必要ありません。勿論、あとから責任を問うような真似はしませんのでご安心ください」  にべもない言い様だ。彼女は改めて頭を下げると「終わったらお声がけください」と出て行った。 「なぁんか、妙な感じでしたね」  そう声を掛けたが、弥永は生返事のまま何かを考えているようだった。  弥永呉服店の検品は丁寧で、客に時間を貰っても可能な限り一緒に確認をするのだと聞いた。聖が持ち込んだ日もそうだ。その場で確認することで、預けたあとの状態に関するトラブルも避けられる。しかし依頼主自身がああ言ったのでは仕方がない。弥永も割り切ったようで、奥から順に手を付け始めた。こうなれば素人の聖が手伝えることはほとんどない。 「畳み方は覚えてきたかい?」 「はいっ!」  強引に押し切り雇ってもらうことを漕ぎ着けたあの日。弥永は今日の仕事を手伝うよう指示するとともに、一つだけ宿題を課した。それが畳み方を覚えてくることだった。  商品にはならないものだからといって持たせてもらった数種類の着物や羽織、襦袢などを持ち帰り、聖は家で今日のために練習をしてきたのだ。  ちょうど今、本業の方で追われる仕事はなく(それはそれで不味いのだが)新しい経験は作家としてプラスでしかない。動画を見て繰り返し練習をし、折り紙のような畳み方はすっかり身に付いていた。 「じゃあ、私の点検が終わったものを畳んでいって。分けてほしいものは指示するから」 「任せてください!」  作業のために膝を付いた弥永の隣に勢いよくしゃがみ込む。と、弥永は聖の顔をまじまじと見ていた。 「へ、え、なんすか……?」 「いや……ほんと君、最初の印象と違うなぁって」  素直だよねぇ――と感心したように言われ、聖は居たたまれなくなった。飄々とした弥永の表情からは、言葉通りの感情しか読めない。含むところがあるわけではないことはわかっているが、それでも聖としては、隠し事がある身だ。素直な性質だと言われることは多いけれど、今はその限りではない。それに―― 「ん……?」  改めて、弥永紬の顔を見つめ返してしまう。  細く艶やかな髪と、その合間から覗く灰色がかった瞳。  やや幼げな顔立ちに浮かぶ、理知的な大人の表情。 (あれ――)  吸い込まれるような気がして、思わず目を逸らした。  聖が興味を持ったのは、弥永の仕事ぶりとそのキャラクター性だ。彼のパーソナルな部分――ましてや外見なんて、意識したつもりはなかった。そのはずなのに。 (――なんだよ、これ)  体の底が熱くなる妙な胸騒ぎは、しばらく去ってはくれなかった。 「よし、これでおしまい」  最後の帯まで点検が終わり、弥永が帳面に状態を書きつける。その間に聖は畳んで、指示された山に重ねた。帯や小物は種類ごとに、着物は二山に分けられている。 「弥永さん、この着物の分類って――」  ふと気になったことを尋ねようとしたタイミングで、襖が細く開かれた。依頼主の杉崎が様子を見に来たらしい。気付けばすでに一時間以上経過している。 「いかがでしょうか?」 「ちょうど今お声掛けしようと思っていたところでした」  奥に寄せられていた座卓で依頼主の出してくれた茶を頂きつつ、弥永が買い取り価格について相談を始めた。その間に、聖は品を段ボールへと詰めていく。価格が付かないものは処分してほしいとのことなので、すべてを引き取ることになった。 「弥永さん、この荷物って」 「あぁ、発送手配をしてもらえるかな? 受け渡しだけこの家の方にお願いすることになっているんだ」  と、箱の蓋を閉じたその時だった。 「彩子……?」  襖が開き、小柄な老婦人が顔を覗かせた。それと同時に、彩子と呼ばれた依頼人はハッとしたように顔を上げる。 「お母さん」 「どうしたの――この方々は?」  依頼人は素早く席を立つと、困惑したような老婦人の視界を遮るように立ち塞がった。 「お母さん、着物、売ることにしたから」 「えぇ!? 待って、そんなの聞いてない!」 「そうだよ、だって言っていないもん。この方々は私が呼んで来ていただいたの」  紹介をされたところで歓迎を受けるような立場ではないらしい。依頼主の母親は変わらず困惑したまま、弥永と聖、娘の顔を交互に見ている。  娘が母親の着物を勝手に売ろうとしていた――というのが真相らしい。参ったことになりましたね、と弥永に視線を送ったら、彼は落ち着いた様子で二人の女性のやり取りを見つめている。もしかして―― 「弥永さん、わかってたんですか?」  聖の問いに視線だけで応えた弥永は、しなやかな所作で立ち上がると母親に向かって名刺を差し出した。 「お邪魔しております。弥永呉服店の弥永紬と申します。この度は、大変素晴らしい品々を拝見させていただき感謝しております」 「感謝って、でも、私は」 「えぇ、行き違いがあったようで申し訳ありません」  弥永の丁寧な物腰に気圧されたように女性二人は黙った。  トラブルに巻き込まれたことを咎めるでもなく、彼は静かに二人に向き直る。 「よろしければ、事情を聞かせていただけますか?」  座卓に弥永と聖、杉崎がつく。杉崎の母は脚が悪いのか、娘が持ってきた小さな籐椅子に腰掛けた。二人の母子は居心地が悪そうにしていたが、やがて決心したように娘が口を開いた。 「我が家は――この屋敷の大きさほど、裕福な家庭ではありません」  彼女は部屋を小さく見渡す。その目尻や後れ毛に生活への疲れのようなものが見え、その言葉が謙遜ではないことを知った。思えば庭は荒れていたし、この女性も資産家の娘といった様子ではない。 「この家も、母の両親――つまり祖父母から引き継いだものです。確かに私が十代だった頃はまだ裕福でした。母が着飾っていたのもその頃です。綺麗で、華やかで、自慢の母でした。ですが、祖父母も父も他界し、残されたのは私たちだけなんです」  彼女は伏せた目を上げた。意思の強い視線だった。 「以前から私は、分不相応な生活に疑問を持っていました。清貧であるべきなんて思っているわけではないけれど、父の残した遺産も多くはありませんし、私が働くしかありません。母の面倒も見ていくつもりです。でも――母はもう着られない着物を、裕福だった頃を忘れないために手に取るんです。身体も悪くて、着ることもしないのに」  弥永は一度、受け止めるように頷いた。母親はなにかを言いかけたが諦めたように下を向いた。 「勝手なことかもしれませんし、母が大切に思っているなら尊重すべきだとわかっているんです。でも、しつけ糸も残ったままの、袖を通していないものを大事にしている母を見ていると、なんだか手元に置いてあるのが辛くなって――」  それは、聖たちがここに来てからずっと気丈に振る舞っていた依頼人の初めて見せる弱音だった。微かに声を詰まらせ、下唇を噛んだ彼女はそのまま押し黙る。ちらりと母に寄せた視線には、叱責と謝罪とが入り交じっているように見えた。 「なるほど。事情はよくわかりました」  重たくなった座敷に、弥永の声が響いた。  皆がはっとしたように彼の顔を見る。  決して場から浮くような声ではない。溶け込むように優しいのに、雲を払うような――それは一陣の風のようだった。 「お母様は、いかがでしょうか。こちらはお母様の持ち物ということですが、お嬢様のご意見に相違はありませんか?」  弥永の問いに、老女は逡巡するように目を泳がせる。一瞬、縋るような視線を弥永に寄せたと思ったが――やがて小さく頷いた。 「えぇ、娘の言う通りです。私はもう脚もよくないし、持っていても仕方ありません。一生懸命働いてくれる娘に失礼だったと、反省しました」 「お母さん、私は、そこまでは」  娘の言葉を、母は首を振って遮った。  これで、話はまとまったはずだ。しかし何とも言えないやるせなさが残る。これでいいのだろうか。思わず弥永を見ると、彼は小さく微笑んで「高瀬くん、着物を入れた方の箱を持ってきてくれるかな」と言った。 「は、はい」  片付けたばかりの二箱を運ぶと、弥永は「ところで」とまた空気を変えるような声で言う。 「高瀬くんはうちの新人なんです。まだ知識もないので荷物を運んでもらうくらいなんですが――」  これまでの流れを無視するように、突然、弥永は聖を紹介した。慌てて頭を下げたが、弥永以外の全員が、何を言いだしたのかわからずに困惑している。しかしそんなことは気にも留めず、彼は「ねぇ高瀬くん」とまたしても唐突に振った。 「さっき仕分けをしていて気付いたことがあったみたいだよね? 話してもらってもいいかな」 「えっ、今ですか!?」  柔らかいのに有無を言わせない弥永の視線。縋るように依頼人親子を見るが、当然二人とも首を傾げている。な、なんなんだこの状況は。弥永の無茶振りを恨んだが、今はやるしかない。どうにでもなれという気持ちで聖は口を開いた。 「あ――あの、弥永さんに言われて分けていた着物、多分なんですけど、二種類あったんです。最初は、しつけ糸が付いている新品とそうでないものかなと思ってたんですけど――糸が付いてるものも、生地の表面とか、少し古い感じのもあって。えっと……」  これ以上は無理だった。こんな無茶振りをされて上手く説明出来るわけがない。助けて――と素直に弥永を見ると、愉快気に笑って「いやいや十分、ありがとう」と引き取ってくれた。思っていたよりは鬼ではないらしい。胸を撫でおろしていると、弥永は「そういうことなんです」と箱の中から一着を取り出した。 「あ、それは――」  声を上げたのは娘の方だった。  薄藤色に古典の花が散りばめられた上品な華やかさのある着物。それは聖が違和感を抱いたうちの一着だった。 「――母が、よく着ていた訪問着です」 「えぇ、そのようですね。高瀬くんの言う通り、生地の擦れなどの使用感があります」  弥永は袖に手を入れて広げ、親子に見せるように示した。 「さて――高瀬くんが話してくれたように、こちらにもしつけ糸がついていますね。この糸は裏地と表地を馴染ませるためのものなので、新品に限らずとも付いている場合があるんです。たとえば、裏地を取り換えた時や、仕立て直しをした時に」  袖を示す弥永の手が、肩のラインに沿って登っていく。袖の生地と本体が繋がっている縫い目まで来た時に、その手は止まった。  縫い目より数ミリずれた袖部分に、うっすらと折れ線のようなものが見えている。 「この縫い目――袖付けと言いますが、その手前に微かに筋があるのがわかりますか? これは袖の生地を中に折り込んでいた分を出した跡です。筋消しという処理を施して極力目立たないようにしますが、このように多少残ってしまう場合もあるんですよ」 「えっと、袖を出した――ということは」  聖の疑問を受け止めて、弥永は老女に向き直った。 「お母様、こちら、仕立て直しをされていますよね。自分より腕が長く、背の高い方――お嬢様でも着られるように」  その言葉に、目を丸くしたのは娘だった。 「お母さん……?」 「そうした品が、いくつかありました。どうやらお母様は、お嬢様に残すために直していたようです。間違いありませんか?」 「えぇ……その通りです」  母は頷き、驚いたままの娘を見た。 「ごめんね、彩子の気持ちも聞かずに勝手なことをして。でも、せっかくだし、あんたにも着てほしくて……」 「そんな、だったら……」  言ってくれれば良かったのに、と言い掛けたのを娘は呑み込んだ。最初に対面した時の様子からすると、とても母が切り出せるような雰囲気ではなかったのだろう。小さな声で「……ごめん」と彼女は母に謝った。 「着物は、先の時代に繋いでいけるものです。お母様は過去を残したかったのではなく――お嬢様のこの先に、豊かな時が来ることを願ったのではないでしょうか」  弥永の言葉に、親子は視線を交わし合う。それから娘は弥永に視線を戻すと、少し言いづらそうに「あの」と口を開いた。 「申し訳ありませんが、買い取りについて――改めて、検討させていただいてもよろしいでしょうか?」  その申し出に、店主は迷いなく頷いた。 「はい、勿論ですよ」

ともだちにシェアしよう!