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3.交わした熱 ※
訪問先を辞して店に戻ってきた時、既に陽は暮れていた。
「君はもう帰ってもいいよ」と言われたがついてきたのは、もう少し話をしたかったからだ。先程までの仕事のことも、自分が隠していることも。
だから弥永が店じまいをするまでの間も、ずっと店内で待っていた。思えば、突然押し掛けてきたこんな素性の知れない人間を店に入れ、自由にさせているのだから弥永も警戒心がない。聖がそんなことを言える立場ではないのだが、おおよそ男性的とは言えない外見といい、お人好しそうな人柄といい、この人は大丈夫だろうかと心配になる。
「弥永さん、ほんとに手伝えることないんすか」
「え? あぁ、大丈夫だよ。さっきのお客様も一旦保留になっちゃったしね」
「あれ、良かったんすか? せっかく査定したのに、無しにしちゃって」
聞いたところ、買い取った着物はECサイトで販売しているのだそうだ。そのための仕入れが白紙になってしまったわけだし、弥永が毎度あの調子だったらと思うと、他人事ながらここの経営が心配になる。
縺れていた親子の関係を解き、解決に導いたのは他でもない弥永だ。観察眼だけではなく、人の心を読むことも場の空気を掴むことにも長けているこの男は、やっぱり興味深い存在だと思う。でも、あまりにもお人好し過ぎやしないだろうか。
表情に出ていたのだろう。帳簿に何か書きつけていた弥永は顔を上げて、「商人ってのは、こういうものなんだよ」と笑った。
「あのご家族、今回の件でうちを信頼してくれた。次に何かあれば、まずうちを選んでくれるさ」
「そういうもんすかねぇ」
そうかもしれないが、なんとも気の長い話だ。でも、のんびりと話す弥永の顔を見ていると、まぁ大丈夫なのだろうという気もしてくる。なんというかこの人は本当に、掴みどころがない。
「そういや、さっきは無茶振りされて焦りましたよ」
「へぇ、君はその文句を言うために残ってたの?」
「そうじゃねぇけど、弥永さん、案外そういうとこあんだなって」
焦る聖を見て面白がっていたのは間違いない。抗議を込めて、怖いと言われた顔でじっと睨んでみせる。ふっ、と弥永の顔が緩んだ。
「悪かったね、お詫びをしようか」
「えっ」
「それで待ってたんだろ? もう終わる。行こう」
思いがけない展開に、聖は反応が遅れた。だって、このあと誘おうと思っていたのは聖の方なのだ。弥永ともう少し話をしたかったのも――この人のことを、もっと知りたいと思っていたのも。
「え、えっと、弥永さんて、飲めるんすか」
だから、碌な反応も出来やしない。肩越しに振り返った弥永は「どうだろうね。このあとのお楽しみ」と目を細めた。
和服姿の男性など珍しいだろうに、誰も頓着することなく気さくに接客をするあたり、この店は弥永の行き着けらしい。カウンターとテーブルがいくつか並んだ昔ながらの大衆居酒屋は地元の人たちで賑わっていた。
とりあえずビールで乾杯をし、ホタルイカだとか玉子焼きだとか一夜干しだとか、定番のものが出揃ってからが弥永の本領発揮だった。豪快とは程遠い静かな飲み方なのに、弥永の杯はいつの間にか空になっている。ビールの追加とハイボールが瞬く間に消えた頃、聖はようやく一度目のおかわりを頼んだ。
「ん……じゃあ芋の水割りで」
変わらぬ表情で注文した弥永は、聖の視線を受けてバツが悪そうに視線を逸らした。
「あ、ごめん――ペース、合わせられなくて……」
「いや、全然気にしないでください!」
どちらかというと、合わせられていないのは聖の方だ。飲めないわけではないのに、今日は鈍ってしまう。それに、弥永のこの反応は意外だった。ここに来るまでは余裕たっぷりで、鯨飲を知られることを恥ずかしがるような様子ではなかったのに。
聖の疑問は伝わったらしい。弥永はそれに応えるように、視線を逸らしたまま口を開く。心なしか、白いはずの頬が薄く染まっていた。
「――こういうの、久しぶりで。ちょっと、楽しくなっちゃって」
「えっ……」
「あっ、ほら、焼き鳥が来たよ。食べよう。ここの美味いんだ」
慌てたような声では、ちっとも上手く誤魔化せていない。運ばれてきた焼き鳥を小さな口で咀嚼する弥永の、「楽しくなっちゃって」という言葉だけが、酒を飲んで熱くなった胸の中でほかほかと残り続けていた。
ここに来てから、大した話はしていない。
店の看板メニュー。好きな食べ物と酒。最近のニュースや季節のこと。出会ったばかりの二人なのに、互いのパーソナルな部分にはほとんど触れていないことに気が付いた。
思えばこの人にとって聖が怪しい男であるのと同じように、聖にとっても弥永紬は得体の知れない存在だ。
それなのに、妙に心地よい。楽しくなっちゃって――といったその感覚は、聖の方にもちゃんとある。
多分――俺たちは、相性がいい。
唐突にそんなことを思ったら――心が、零れていた。
「俺も――久しぶりなんです」
「え?」
「酒、飲んだりするの。その……祖母が亡くなってから、こういうこと、していなくて」
「あぁ……」
言ってから、しまった、と思った。こんなことを言うつもりじゃなかった。出会ったばかりなのに。話さないといけないことは他にあるのに。この人自身のことを聞きたいのに。
それでも、弥永の柔らかい視線に受け止められると、言葉が止まらない。
「一人で、育ててくれてたんです。俺の両親、早くに事故で亡くなって」
「うん」
「葬式って、遺族のためにあるっつーのは本当なんですね。ばあちゃんが死んだあと、ずっと忙しくって悲しむ間も無くて、お陰で泣かずに済んだんです。でも、ようやく一人で落ち着けたって思ったら、急に疲れたって思っちゃって」
仕事をする手が止まり、身の回りのこともまともにできなくなった。このままじゃ駄目だと思いながら、広くなった家を見渡すたびに膝の力が抜けた。祖母が子どもの頃から暮らしていた立派な平屋は、一人でいるには広すぎる。冷蔵庫の唸る音が、回りっぱなしの換気扇が、荒れた庭で鳴く虫の声が、空洞のようになった心の中でぐわんぐわんと鳴り響いていた。
「だから俺――久々だったんすよ」
少しずつ片付けをはじめた中で――あの日出会ったのが弥永紬だった。
いつぶりだっただろう。何かが始まるのだと、心が動いてワクワクしたのは。この感情は、ただ孤独を埋めるためのものかもしれない。それでも――
「……わかるよ、なんて言ったら失礼かもしれないけど」
「弥永さんのご家族も?」
弥永は笑って答えなかった。
それが余計にもどかしく思う。
あぁ――俺は。
この人に手を伸ばしたいんだ。
自覚した途端、体中に熱が回る。
許されるかもわからないまま、目の前に投げ出された手に触れようとした時。
「――っ」
ふいに、目の前の人の身体から力が抜ける。ふにゃり、と上半身をしならせると、なんと弥永は机に突っ伏してしまった。
「ちょ、大丈夫ですか!? 気持ち悪い!?」
「あー……またやっちまったか……」
「また、って……?」
居酒屋の店主と思しき男性が、呆れたように頭を掻いた。
「この人、前にも同じことしでかしたんだよ。普段は弱くねぇのに、時々こうなる」
「こうなるって――」
よく見れば、髪の隙間から覗く横顔は穏やかなもので、すやすやと寝息まで立てている。この人にも、隙はあるのか。それに、普段は弱くないというのはつまり――
(――俺と同じで、緊張していた、とか)
そう思うのは自惚れかもしれない。だけど、ようやく見つけたこの人の素の表情に心が解けていくのを感じる。これもまた、しばらく覚えのない感情だった。
「はい、お水。どうする? まだ閉店まであるし、少しなら休んでてもいいけど」
「大丈夫っす。俺が送って行くんで」
そうは言ったものの、力の抜けきった人間の体は重たい。歩いて帰れる距離とはいえ、タクシーを呼べばよかったと後悔したが今更だった。背負った弥永の和服がずれて、脚が露わになりそうなのを気に掛けながら、「よいしょ」と背負い直す。
「……大丈夫っすか?」
「っふふ、うん。あぁ」
「もー」
これは貸しっすよ、と言った聖の言葉なんて、きっと覚えちゃいないだろう。やれやれと溜息を吐く。火照った体を冷ますように呼吸を続けると、少しだけ頭が冴えてきた。春を惜しむ頃の夜は一番心地良い。
駅前の繁華街から離れ、静かな商店街が近づいてくる。外灯だけが点いたまま、ぼんやりと浮かぶそこは蜃気楼のように見えた。
「ねー、弥永さん」
「んー……?」
背中の声は不明瞭だった。ふわふわとした夢見心地の中、意識はあるのに眠っている。そんな酒に酔った時特有の感覚は聖にも覚えがある。これがすべて夢だと錯覚する、妙な多幸感と、どこか捨て鉢な気持ち。弥永はきっと、その中にいる。
だから大丈夫だと、聖は踏み込むことに決めた。
「弥永――紬さんって、いくつ?」
「え? へ、へへっ……」
「照れてんすか? 恥ずかしがるもんじゃないでしょ、年齢、いくつ?」
「――三十」
「えっ」
「と、ふたつ」
「……へ、へー」
まじか。思わず声が出そうになった。
最初の印象と違い、ある程度自分よりは年上だろうと思っていた。しかしそれも二、三歳の話だ。それが、八歳も離れているとは。
(――俺が小六の時、この人はもう二十歳かよ……!)
歳の差を意識した途端、背負った体が重たく感じる。この無防備な姿から目を逸らしたくなり、支える腕に力が籠った。
「鍵、どこですか?」
「ん? この中」
そう言って弥永は片腕を持ち上げる。ずるりと袖が落ちて、白い二の腕が剥き出しになった。
この中って――まさか袖?
袋状になった着物の袖から物を取り出すには、袖口から手を差し入れるしかない。どうしよう。聖が戸惑っている間にも、弥永は無防備な腕をぶらぶらとさせている。こっちの方がよほど目に毒だ。
「……ちょっと、失礼しますね」
覚悟を決めた聖は、息を止めるように手を差し入れて、素早くキーケースを引っ掴んだ。
「あ、あの、俺、これ以外に触れてないですから!」
そもそも背負っているのだから今更なのに、聖は意味のない言い訳をした。当然、酔っ払いは聞いていなかった。
店の二階にある居住スペースになんとか運び込んだ時、時刻はもう二十三時を過ぎていた。
彼は一人住まいらしい。見た目通りの純和風の部屋――というわけではなく、ダイニングキッチンの奥に続く和室には、ソファとローテーブル、テレビが置かれている。左手にある襖がわずかに開いており、先が寝室ということがわかった。
勝手に部屋を覗くのは悪いと思いながらも、好奇心が抑えられない。弥永をソファに寝かせ、開いた隙間から中を覗き込んだ時――見えたものに、心臓がことりと音を立てた。
(あれって――俺の……?)
薄暗い部屋の壁一面は、本棚だった。どうやら弥永も本をよく読むようだ。片付けの苦手な読書家らしく、並んだ本の前や上にも無造作に積んである。その中に、聖の筆名――清野鷹士の本を発見した。今から三年前のデビュー作――『摩天楼の殺人』だ。
棚の上段に重なる本の一番下に置いてあることを考えると、聖が作者だと知って買ったというわけではなく偶然だろう。それが一層、嬉しかった。決して誰もが知る人気作家というわけではない聖の本を弥永が持っていたということは、運命的なように思える。
だからこそ――早く言わなければ。これは取材なのだと。貴方をモデルにさせてほしいのだと。不義理であると思われる前に。
「……高瀬くん」
微睡みの中で甘えるような声が、名前を呼んだ。
振り返ると、仰向けでソファに横たわる弥永の目が薄らと開いている。気崩れた和服の胸元から覗く肌は薄く染まり、静かに上下していた。
「あ、大丈夫っすか? 水なら飲め――」
近寄った拍子に、唐突に腕を引かれる。驚いたその瞬間、どうしてか聖は抗わなかった。それはほんのささやかな、振り解くことになんの苦労も必要のない力だったのに。バランスを崩した体が、出会ったばかりの男の体に覆い被さるのを遠い意識で捉えながら、そういえば俺自身も酔っていたんだ、ということを思い出していた。
露わになった白い喉が、何かを求めるようにこくりと動いた時、聖はその頬に手を伸ばしていた。
「……紬さん、俺」
続く言葉は、薄く開いた唇の中に呑み込まれた。どちらから求めたかはわからない。熟れたキスはアルコールの味がして、それがこの行為の唯一の言い訳である気がした。
(……どう、しよ。これ、止められない――)
「は……っ、あ――」
舐めるように重ねていた唇を割り、舌を絡める。厚みのない弥永の身体は小さく震えた。なんだか悪いことをしているような気になったが、今更引き返すことなど出来ない。じゅ、と音を立てて舌を啜り、誤魔化すように深く喰らった。どちらのものかもわからない唾液が零れる頃、固い熱が腹に触れた。
「ここ、苦しそう」
着物の上から、形が浮かぶように手を添わせる。割り開いて触れることまでは出来なかった。ここまでなら、許してもらえるかもしれない。戯れで済むかもしれない。引くなら、拒んでもらうなら今だ。そう思ったのに。
濡れたような視線が絡み合う。キスの一つでとろけたような弥永は、しかし目の奥だけは凪いでいるように見えた。もしかして、酔いが覚めた? そう思ったら、途端に自分がやっていることが俯瞰して見えた。
「――あっ、ご、ごめんなさい、俺」
「君も」
辛いだろう、と熱っぽい声で囁かれたのと、ズボンを押し上げていたそれをふわりと撫でられたのは同時だった。思わず腰が引けそうになる。布越しに触れられただけなのに、疼いて仕方がない。
「は、ぁ――それ……っ」
「脱いで。手で、シてあげる」
弥永の口から零れる下品な言葉は、耳から注ぎ込まれる媚薬のようだった。唾液が溢れ、喉が鳴る。熱に思考が鈍る。繋ぎ止めようとする理性は、震えるような興奮を前に霧散していった。もう遠慮など出来ない。
性急に自ら下を脱ぎ去ると、弥永の手を掴んで触らせる。細い指が勃起した性器に絡みつき、快楽を齎そうと動きだす光景はあまりに現実離れしていた。それなのに、腹の底から疼く快感は紛れもなく本物だった。
「あぁっ、ん……っ」
「イイ? 下手だったら、ごめんね」
どこか余裕のある弥永の様子に、焦れた思いが湧き上った。衣擦れの音をさせながら艶めかしく動く脚を割り開く。聖は初めて、他人の熱に直接触れた。
「ひ、っ――ぅあ……!」
慣れた手つきで聖の性器を擦っていたはずの弥永は、まるでうぶな反応を示した。快楽から逃れるように首を振り、必死に噛み締めた唇から、堪えられない甘い声を零してゆく。
(――すげぇ、かわいい)
一度そう思ったら、攻める手が止まらなかった。
「あっ、あ、ぁああ……!」
先走りで濡れた性器はぐちゅぐちゅと淫らな音を立てた。饐えた雄の匂いが濃厚になる。乱れた呼吸はもう、どちらのものかわからない。
どうして。
どうして――こんなことになっているんだ。
答えは出ないまま、折り重なるように体を寄せる。
服を着たまま、互いの熱だけを握った手は脳を溶かすほど淫らで。
「あ、きもちい……っ、イく……!」
「は、ぁあっ、あんっ、――っ!」
それぞれの手の内に放った熱は、この瞬間が夢ではないことの証だった。
遠のく意識の中で、目の前の体温に縋り、抱き締める。信じられないことをしてしまった。微かに残った理性はそう考えているのに、こんなに安心した眠りは随分と、懐かしいことのような気がしていた。
それからのことは、あまりよく覚えていない。
やってしまった――と顔面蒼白になりながら飛び起きた時、時刻は既に朝を大幅に超えていた。足音を殺して一階の店の様子を見ると、弥永は昨日と変わらない様子で店に出て、接客をしている最中だった。
――完全に、話をするタイミングを逃しちまった……。
頭を抱えつつ、せめて迷惑を掛けないうちに出て行こうと身支度を整え始めた時だった。
「――紬さん、お人好しすぎねぇ……?」
テ――ブルの上に置かれていたメモは捨てるに忍びなく、聖のポケットの中に収まっている。
――シャワーは自由に使ってください。お腹が空いたならこのコンビニパンをどうぞ。次の仕事については、また連絡します。
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