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6.夏祭りの夜

 こんなにも鏡の前で自分の姿を確認したのはいつぶりだろう。  何度も練習した浴衣を着て背筋を伸ばす。おかしなことはないと思うけれどどこか不格好に見えるのは、この緊張した面持ちのせいかもしれない。  一年程で辞めてしまった大学で、青春の真似事のようなことはした。好意を寄せてくれた女の子と出かけたこともあったが、ここまで浮足立った記憶はない。その子のことも憎からず思っていたはずだし、可愛い子だった気もしている。だけど――今思えば聖は、自分から誰かに心惹かれたことが無かったように思う。  明るく社交的な性格だった反面、休日は家で過ごすことが多かった。家の本棚に並ぶ蔵書をすっかり読みつくしていた頃には、自分の中に物語と言葉が浮かぶ循環が出来上がっていた気がする。その流れが、溢れるものが途切れないように、聖は人を見た。人と接した。人に興味を持った。人のことは好きだけれど、どこか一歩引いている。それが聖の人との関わり方だった。両親が早逝したことと関係があるのかは分からないけれど――誰かのことを強く思うことを、どこかで怖れていたのかもしれない。 (――情けねぇなあ、俺)  昨夜まであんなにワクワクしていたのに、直前になってこれだ。能天気なくせに気の弱い自分が嫌になる。とはいえいつまでもウジウジしてはいられない。自分の頬をぴしゃりと叩いた聖は、慣れない下駄をカラコロと鳴らし街に出た。  夜の帳が落ちた一帯には提灯の淡い灯りが滲み、街の活気を浮かび上がらせていた。道行く人々の喧騒とお囃子の音。ひらひらと泳ぐ金魚のような浴衣の女性たちの間を縫って、店の前へと辿り着く。既に閉められたシャッターの前に、弥永紬は佇んでいた。  グレージュの、遠目からだと無地に見える刺子柄の浴衣は爽やかで、弥永の艶っぽい黒髪がよく映える。 「いいね、よく似合ってるよ」  それが第一声だった。挨拶代わりの言葉だろうに、蕩けるように甘く聞こえる。それだけでまた緊張がぶり返しそうになったから、聖は慌てて「やったー!」とはしゃいで見せた。 「着付け、変じゃないですか!? 俺すっげぇ練習したんです!」 「うん、上手く出来てるよ。もう少しだけ帯が下でもいいかな」  何気ない仕草で、弥永の手が腰に伸びた。思わずはっとして身を引くと、弥永も驚いたように「あ、ご、ごめん」と手を引っ込めた。 「は、はは――えっと、行きましょうか?」 「あぁ、そうだね」  少しだけ歩調が速くなった弥永の白い首筋が、薄ら色付いているように見える。それが気のせいなのかどうか確かめたい。でもきっと聖も同じように、随分おかしな顔をしているだろう。一瞬だけ触れられた腰と、近づいた弥永の髪。その体温の残り香のようなものが、惜しいと感じた。 「あ――あの、弥永さん」「そういえばね」  伸ばしかけた手は引かざるをえなかった。重なる声と、重なる譲り合い。ノープランで口を開いた聖は「なんでもないっす!」で押し通して主導を弥永に渡した。 「あぁ、そう? いや、私も大したことはないんだけど。あと一時間くらいすると人通りが落ち着くと思うから、そしたら千秋のところに顔を出そう」 「そうっすね。俺もこの浴衣選んでくれた礼を言いたいですし」 「うん。それと、一応続報があったから。話そうと思って」  封印されていた箱についてなんだけど――と弥永が言い出したので、聖は肩透かしを食らった。もう少しで掴めそうだった雰囲気が、飄々と語る弥永によって日常に戻されていくことが惜しい。弥永がわざとそうしているのか、天然なのかはわからなかったが。  それでも、興味があることは事実だ。周囲に出店が並び始め賑わいが増す中で、弥永が語る場違いな話に耳を傾けた。 「確認したんだよ、煙草入れに覚えはないかって。そしたら正蔵さん、見たかもしれないって、自分のお父さんの写真を探してきてね」  それがこれ――と懐から出したのは、白黒の家族写真だった。若い夫婦が並び、その間に幼い息子が立っている。当時の写真らしく表情に乏しかったが、父親が子供の手を握っているところに家族の親愛が現れている。 「お父さんの帯にぶら下がっているのが、あの煙草入れだね。真ん中は正蔵さん。妹の峰子さんが生まれる前の写真らしい」  確かによく見れば、あの箱の中にあったものと同じに見えなくもない。ただし――と弥永は話を続けた。 「正蔵さんは父親が煙草を吸っているところをあまり見たことがないと言うんだよ。だからあの煙草入れが何のためにあるのか、なぜあのような仕舞われ方をしていたのかはわからないんだってさ」  弥永もまだ断定的なことを言うのは避けているらしい。とはいえ、早めに片を付けて不安を取り去ってやりたいのだそうだ。聖も一緒に考えようと腕を組んでみたが、それと同時に腹が鳴った。 「あっ……やべ、お腹減ってて」 「ははっ、言わなくてもわかるよ。とりあえず、なにか食べようか」  いくつかの露店を周って、チープで懐かしい食べ物を選んだ。焼きそばに焼き鳥、水飴にチョコバナナといった定番の味を、意外なことに弥永も楽しんでいるようだ。そういえば、この祭りは毎年恒例だと聞いた。弥永は昨年までは、誰と来ていたのだろう。  先日の件があったから酒は控えた方がいいのではと思っていたのに、弥永は「はい、高瀬くんも」とプラカップに入ったビールを渡してくれた。屋台の灯りを受けて黄金色に光る冷たさの、その魅力には抗えない。乾杯をして喉を潤しながら――もしかしたら、しっかりしているように見えるこの人は、案外酒の力を借りたいタイプなのかもしれないとふと思う。 「紬さん」  大胆になっていたのは聖も同じだった。喧噪が遠のく。屋台の行列は終わり、ぽつぽつと外灯だけが並ぶ味気ない道路に出たのはわざとだった。人波を名残惜し気に振り返った弥永の仕草が、動揺からだったことはわかっている。けれど聖は気付かないふりをした。 「高瀬くん――」 「ちょっと休みましょうよ。歩きながら飲むと、回っちゃうでしょ」  今日は背負えませんよ、と言ったら弥永は目を逸らした。あの晩のことを覚えている証拠だ。  二人揃って道路脇に腰を降ろす。大人がすることではないかもしれないが、今夜だけは特別だ。目の前を過ぎる陽気な人たちは、誰も彼も自分たちのことしか見えていない。誰も俺たちに気付かない。  夏の始まりの夜風が通り抜けた。 「紬さん――俺、今日、誘ってくれて嬉しかったです」 「……誘ってくれたのは、君だろう」  とっくに空になっているカップを、弥永は傾けていた。今縋れるものはこれだけだとでも言うように。聖は手にしていたカップを置いた。話すべきことを伝えるために。 「あの――俺、言わないといけないことがあるんです。実は、俺は」 「君が――作家だっていう話かい?」 「……知ってたんですか」  二の句が継げずにいると、俯き気味の弥永の目だけがこちらに向いた。視線が絡む。しかし、何も読み取れなかった。祭りの人工的な灯りに、目が眩んでいるからだけではない。 「呉服屋の話を書こうと思ったの?」 「あ、いや――そういうわけじゃ」 「文豪らしい格好がしたい、とか」  問いかける声に抑揚がない。怒っているようには聞こえないのに、妙に静かだ。弥永の感情が読めない。予想外の反応に、聖はどう切り出せばいいのか迷った。 「……紬さんが」 「俺?」  俺――この人の、素の反応。  それなのに、何を思っているのかがわからなくて。読めなくて。 「紬さんが――すげぇ、かっこよかったから。最初に言った通りです。あなたに、興味があったんです」 「小説のキャラクターになりそうって?」 「紬さんは主人公みたいって、思ってて――」  言葉を繰ることを生業にしているのに。こんな時に、気の利いた台詞の一つも浮かばない。感じたままをぽろぽろ零しても、弥永は表情を変えなかった。ただ、静謐なせせらぎような瞳の奥が、ほんのわずかに揺らいで、濁った。 「そんな理由だったのか」 「え、そんなって――」 「君の事情について、俺は気にしないつもりでいた。でも、それなら――言ってほしかったな」  初めて聞く、弥永の率直な言葉だった。 「妙に期待をかけられても、困る」 「――ごめんなさい」  やっぱり――失礼なことだったんだ。  視界が狭まる。喉が詰まるように苦しくて、一言謝るのに精一杯だった。わかっていたのに、浮かれてばかりで先延ばしにしていた自分のせいだ。何も言えずにいる聖を後目に静かに立ち上がった弥永は、「悪いけど」と振り返った。 「そういうことならお門違いだ。君の期待には応えられない」 「弥永さん、待って」 「俺は主人公って器じゃないんだよ。君が思っているようなことはなにもないんだ」  去り際の言葉は、どこか哀しげに聞こえた。  小さくなるその背中を、引き止めることが出来ない。  遠くの喧騒は変わらず賑やかで、一夜の宴は続いてゆく。変わったのは、右隣にあの人がいないことだけ。  ざらつく気持ちが零れそうになるのを必死に呑み込もうと、地面を探った時――聖が空にしたカップが消えていることに気が付いた。去り際に、弥永が捨ててくれたのだ。そんなさりげない気遣いを、〝彼らしい〟と感じてしまうほど、あの人に惹かれている。  いっそ、この想いをそのまま伝えれば良かったのだろうか。  渦巻く悔恨と同時に腹の底から湧き上がるのは――これまで知ることのなかった寂しさだった。  ※  ※  ※ 「はぁ――それでこんなところでベソかいてんのか」 「かいてませんよっ!」  いつまでも座り込んでいるわけにはいかない。重い腰を持ち上げかけたところに通りかかったのが刀根だった。弥永は聖といると思ったらしい。「あいつは?」と問われて「さぁ」と濁したら、おおよその事情は伝わってしまったようだ。ただ刀根は先日と同じで、さりげなさを装いながらも本気で気に掛けてくれる。きっとそれは聖に対してではなく、弟のように思っている弥永を心配してのことなのだろうが。 「悪ぃな、あんたの職業を調べてあいつに喋ったのは俺だ」 「なんとなく気付いてました」  刀根の咥えたキャメルの先から登る煙につられて視線を上げる。七夕というにはいまいちな曇り空だったことに今更気が付いた。 「なんで俺がわざわざあんたの相手してるか、わかるか?」 「え、そ、それは――」 「紬が妙にお前の話をするんだ、楽しそうにな。怪しい奴じゃねぇかって心配になるだろ。それで、様子を見てた」 「あ、怪しかったですか」  どうだかね、と刀根は煙草を揉み消す。「怪しいというより、危なっかしいって思ったかな」という言葉と一緒に煙を吐き出した。 「この間、俺は言っただろ、あいつもただの男だって」  聖は頷いた。意味が理解できなかった分、印象的だった。 「傍目には物珍しく映るかもしれねぇけど、あれは恵まれたボンボンでも、粋に暮らす風流人でもない。親の家業を継がざるをえなくて、やむなくやってるだけなんだよ」  やむなくやっている。  それは――考えてみたことがないことだったと聖は気が付く。弥永の仕事ぶりは丁寧で、鮮やかで、聖はただそれを憧れの目で見るだけだった。 「俺はお前の生い立ちは知らねぇが、若いのに一人で食ってくにはそれなりの苦労があるってのはわかる。でも、あいつはお前のことが羨ましかったのかもな」  そうなのだろうか。弥永が自分を羨んだり、気に掛けるような理由はないと思う。だって、救われたのは聖だ。好奇心から始まった関係だが、弥永の優しさに、一緒にいる時の楽しさに、聖は天涯孤独の痛みが薄らいでいくのを感じていた。  でも、今思えばそれは一方的な見方だったかもしれない。弥永には弥永の思いが――生き方と苦悩があるはずなのだから。 「ま、そういうわけだから、悪いのは紬だ。あいつの度量がちっちぇえんだよ」 「っ、そ、そんなことありませんっ! 紬さんすげぇ優しいですし、悪いのは俺で」  思わず腰を上げかける。その勢いに、刀根は小さく笑った。 「三日後だったかな、あの倉庫の整理頼まれてんだ。人手が足りねぇ。来いよ」 「えっ、あの……でも、俺」 「その浴衣分は働けっつってんだよ」  荷物運び一回じゃ済まねぇぞ、と刀根は立ち上がり、去っていった。  三日後。その時自分が弥永に対し、何を伝えるのか、どうなっていくのか、想像もできない。でも、このまま立ち消えてしまうことだけは嫌だった。今度はきちんと向き合いたい。彼の在り方を消費するためでも、自分の孤独を癒すためでもなく――この想いを伝えるために。 

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