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7.紬の話

 進学先に経済学部を選んだのは、店を継ぐことを望む母と、企業に勤めることを望む父――どちらの望みを叶えることになっても潰しがきくと思ったからだ。  子どもの頃から、将来のことを聞かれるのが苦手だった。呉服屋の息子だから当然跡を継ぐのだろうと思われる。進路に悩む必要がないことを羨ましがられる。反対に、決して大きく儲かることのない家業を継がなければならないのは不幸だという者もいた。いずれも勝手な意見だった。  絶対に継ぐものかと反発していた時期もあった気がするが、同時に道があることに安心している自分もいた。紬は何よりも、そんな自分が嫌だった。果たして本当に、主体的に自分のやりたいことや人生を考えてみたことがあっただろうか。  結局、両親どちらの期待に応えていたのかもわからない。それと承知で結婚したはずなのに、企業戦士である父は母が家業を継いでいることに納得していないようだった。紬は数年の間、父の勧め通り一般企業に勤めたが、母が体を悪くしてからはこの家を継いだ。殊勝な心掛けがあったわけではない。ただ成り行きに抗わなかっただけだ。母が亡くなって以降、父は家を出ていった。その時も、父を引き止めることをしなかった。  流されてばかりの生き方について、二十代の頃はずっと悩み続けていた。三十代になって、自分の人生は代わり映えなく続いていくのだろうという――どこか諦めのような気持ちになっていたのだ。  それなのに――突然現れたあの子は。  若くて、眩しいばかりで、自立している、まるで自分と正反対なあの子は、こんなつまらない男のことを憧れの目で見る。主人公のようだ、と言う。  始めに高瀬聖がここを訪れ、働きたいと言い出した時、当然一蹴するつもりだった。こんな怪しく得体の知れない若者を招き入れるつもりなんてない。でも、輝くような目で懸命に訴える彼を見ていたら、錯覚してしまったのだ。なにかが変わるのではないか――心が弾むような出来事が起こるのではないかと。  事実、素直で明るい彼といる時間は楽しかった。仕事柄、年長者との付き合いが多い紬にとって、聖は新しい風のような存在だった。  でも、同時に怖くなる。真っ直ぐな眼差しで見られていることは、プレッシャーだった。すぐに中身のない男だということは露呈し、彼は離れていくだろう。その時に傷付きたくない。だから深入りしないようにしようと思っていた。それなのに―― 「紬さん、こないだはすいませんでした!」  もう姿を見せなくなるかもしれない。それでいいのだと思っていたところに、この子は来た。店の入り口を塞ぐように立った聖は、何も言えずにいる紬の前に進み出た。真剣な表情と、やはり真っ直ぐなあの目をして。 「……私も、すまなかったよ。無礼な態度を取ったね。ただ今日は頼んでいないだろう。人手は足りてるから、帰ってくれるかな」  こんな方便は、この子に通じない。わかっていたが、言わざるを得なかった。彼といると惨めになる。自分の嫌なところばかりが浮き彫りになっていく。あの夏祭りの日だって、本当はもっとスマートに別れるつもりだったのに。 「紬さん。俺、紬さんの気持ちを全然考えていなかった。勝手に憧れて、盛り上がって、ネタにしようとして、すげぇ失礼だったって思ってます」 「そんなことはいいんだよ。ただ商売上、慎重にならざるをえない部分もあるから困ると言っただけで」  嘘だ。本当はそんなこと関係がない。ただ自分が辛いから。情けなくなるから。だって、俺は―― 「そういうわけだから、仕事を頼むことは出来ないよ。帰ってくれ」  背を向けて顔を隠す。聖が追ってくるのが聞こえた。もう放っておいてくれ。俺のことなんて忘れてくれ。遠ざかろうとした紬の腕は掴まれて、引き寄せられる。そのまま体を抱き留められ、咄嗟に紬は身を捩った。 「やめてくれよ……!」  その拍子に体がよろめく。支えるために付いた手が、テーブルを揺らした。その上から、捨てようと思っていた書類ケースが落ちるのが、スローモーションのように見えた。  あぁ――箱が、開く。紬は、絶望的な気持ちと共に諦めが全身を満たすのを感じていた。  かん、と音を立てて落ちたケースから、中身が床に散らばった。  慌てた聖が屈んで紙を拾い、その内容に目を落とした。 「これは――小説?」  驚いた目で見上げられた時、紬の中で、なにかが吹っ切れた。 「そうだよ、私が書いたんだ」 「紬さんが?」 「書いたけど、君と違ってどこに出すこともない。二十代の頃かな、本を読むことは好きだったから、憧れていた時期があったけれど、諦めたんだ。わかるかい? 私の君への気持ちは――嫉妬なんだよ」  それが、紬がもっとも聖を遠ざけてしまった理由だった。  彼の職業だけではない。家族の後ろ盾もない境遇のなか、自分で選び、生きていけるこの子は、紬にとって眩しすぎたのだ。 「これでわかっただろ。本当に、私には何もないんだ。小説を書いてみたのも、今思えば、自分で出来ることを見つけたかったからかもしれない。普通の会社に勤めて、そこで一人前になろうともしてみた。でも、組織ってものが合わなくてね。普通の人が出来ていることすら満足にできない。私は空っぽで、中途半端な出来損ないだよ」  聖は黙っていた。軽蔑したのかもしれないが、もういっそ、それで構わなかった。 「この仕事も、自分で選んだものじゃない。私は君のように自立していないし流されてばかりだ。私なんて――君のような人が気にかけるような存在じゃないんだよ」  今度こそ背を向けて、彼から離れようとした時だった。 「勝手に、決めないでください」 「な……っ、ちょっと、高瀬くん!」  後ろからもう一度抱き留められる。込められた力は強く、逃れることができない。 「俺、紬さんの気も知らないで勝手に盛り上がって悪かったなって思ってました。でもこれは言わせてください。俺にとって紬さんは、すごい人です。あなたがなんと言おうと、俺にとっては事実です」 「……そんなこと、言われても」  引き離そうとして、腕に触れたままだった。その肌が熱い。彼の鼓動が伝わる距離。話すたびに、吐息が脳をくすぐった。 「流されてるだけって言うけど、紬さんの仕事、すごく丁寧で真摯で、本当にすごいって思うんです。俺、ばあちゃんのことをわかってくれて、救われたような気がしました」 「それは――覚えれば誰にだって出来ることで」 「そんなことない。紬さんといると安心する。信頼できる。俺は、そんなあなたを好きになったんです」  むず痒くなるような台詞。こんなもの、戯言だと一蹴できる。勘違いだって、跳ねのければいい。頭ではわかっていても、うまく言葉が出ない。だって―― 「君のような人に好かれるなんて、辛いんだ。辛いと思ってしまうぐらい、俺は小さい奴で」  だって、こんなに嬉しいことを言われたのは初めてだ。  抱き締められた体が反転させられる。覗き込むように目を見られて、逸らすことも出来ない。変わらず居心地が悪いのに――紬も聖の目を見つめ返してしまう。 「あ、あの、高瀬くん――」 「小さくていいじゃないっすか!」 「は、え……っ?」  思いがけない返事。ここはフォローが来るのだとどこかで思っていたのに。聖は底抜けに明るい顔で笑った。 「正直、そのギャップにすげぇグッときました。大人の余裕って感じの紬さんが、嫉妬したり細かいこと気にしてるの、なんというか、すげぇ可愛い」 「あ、あの、君ねぇ! 流石にそれは」  失礼だろう、という抗議を呑み込ませるように、聖の顔が近づく。まなざしが熱を帯び、とろけてゆく。あ、キスされる。そう思った時だった。 「あ!」 「あ?」  突如、閉じかけた目がぱちりと開く。驚いて紬もまばたきしていると、聖は「わかった! わかりましたよ!」とはしゃいだ。 「は、え、なにが……?」 「箱! お爺さんから預かったあの箱の答えです! 今、落っこちた書類入れを見て思い付きました!」  ――今その話をするか!? この流れで!?   ツッコみたくて仕方がなかったが、祭りの日に同じことをしたのは紬だ。興味のある話ではあるし、気恥ずかしい雰囲気を飛ばすために、紬は「なにかな?」と聖に譲った。 「紬さんは、なんで今ここに、昔書いた小説を置いておいたんですか?」 「えっ、そ、それは……恥ずかしい話だけど、君のことを聞いて思い出したんだ。それで、自分がみっともなくなって、捨ててしまおうと……」 「つまり、それまでは捨てるには忍びないけど封印していたってことですよね?」  うっ。なんだこいつ、ズケズケと。聖の言葉にダメージを受けつつ、言いたいことの察しはついた。 「つまり君は、正蔵さんのお父さんもそうだったと言いたいんだね?」 「はい。そもそも不思議だったんです。お父さんの写真には煙草入れが映っているのに、正蔵さんは実際に吸っているところをあまり見たことがないんでしょう? つまり、彼は子どもが生まれて以降は禁煙していたってことなんじゃないですかね?」  自分への戒めと固い意思を表すために、一番上等な煙草入れを封印した――というのが聖の推理だった。 「なるほど。つまりあの写真に写っていた理由と、封を二度貼った跡があるというのは」 「そう。妹さんが生まれる前の短い間、解禁していた時期があるってことです」  確かに、それなら辻褄が合う。今より遥かに禁煙への意識が低かった時代に、母子の健康を気遣いやめていたというのは、どれほど精神力が必要だったのだろう。禍々しく封印した父親の気持ちも推して知るべしだ。しかし―― 「そう断定できる根拠がないよ」 「うん。それなんですけど、根拠っていりますかね?」  聖はあっけらかんと、予想外のことを言った。 「だって、きっと正解を見つけるのは無理っすよ。もう随分前のことなんだし、これ以上情報を集めるのは難しくありません?」 「確かにそうだけど」 「これって、真相を明らかにすることじゃなくて、爺さんを安心させてやることが目的ですよね? だったらこの結末は、ぴったりでしょ!」  にかっと歯を見せて聖は笑った。あぁ、なるほど。妙に納得すると同時に、紬は力を抜いて聖の胸元にしなだれかかった。 「えっ、ちょ、紬さん……!?」 「――参ったよ、さすが作家先生だ。私にはこんな解決、とても思い付かない」 「そうっすかね……?」  心からの感想だった。すべて、聖の言うことが正しいと思う。そしてやはりこの子と自分は正反対だと紬は実感する。 「私は――確かに君の言う通り、問題を解きほぐすことは得意かもしれない。でも君のように、物語を紡ぐことはできないんだ」  ここまで違っていると、嫉妬心を湧くことも無駄な気がしてきた。はぁ、ともう一度大きく溜息を吐く。しかしそんな紬の肩を、聖は力強く掴んだ。 「でも、その物語を信じさせることが出来るのは紬さんですよ」 「私が……?」 「そうっすよ。だって紬さん、初対面なのに爺さんに頼まれたんっすよね? それだけ人を信用させる人柄だってことですよ。俺だったら絶対そんなの無理!」 「――仮にそうだったとしても、今の話を思い付いたのは君だし」 「紬さん、俺の話に乗っかってください。主人公なんすから!」  今度は手を握られる。それは初めて会った時と似ていた。  あの時手を取られ、何かが起こるかもしれないと思った。たとえば自分が、物語の主人公になるような。 「……君の言う通りかもしれないな」 「えっ、それじゃあ……!」 「君の話に、私は乗る。どうやらそれが一番、幸せになれそうだしね」 「紬さん!」  その時、表に聞き慣れたエンジン音が響いた。千秋が迎えに来たのだ。今日は店を閉じて倉庫の片付けをする予定だった。 「さぁ、仕事だ。もしよかったら――手伝ってくれるかな?」  おずおずと見上げた真っ直ぐな瞳に、明るい光が宿った。 「もちろんです!」

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