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《no side①》

黒髪黒目の子供が鏡に映っている。 鏡に映るその生白い身体には夥しい量の鬱血痕がついており、まるで何かの病に侵されているようだった。その身体の持ち主の顔は笑えばひとたび人々の心を捉えて離さないだろう美貌だが、今は酷く疲れているのか表情が暗い。 子供――弥斗は鏡をぼーっと見つめる。今弥斗がいるのは浴室で、今現在一人で入浴中だ。 弥斗が何処へ行くにもベッタリな愁が何故居ないのかというと、彼はいま食事を作っている。だから居ない。 なんの冗談かいきなり「俺がメシ作る」と言いだしたのだ。弥斗は彼の行動が誰の入れ知恵なのかなどどうでもよく、ただ一人になれる時間を得れたことに深く感謝した。 「我ながら酷い顔だなぁ....」 湯気で満ちる風呂場の鏡に向かってそう呟く。 弥斗の長い睫毛に縁取られた黒曜石の如き瞳に光はなく、闇に深く沈んでいるかのように暗鬱としていた。 その瞳が、表情が歪む。 「あ~.....死にたい。死にたいなぁ。死にたいね?死にたいよね?君もそう思うよね?」 弥斗は鏡に手をつきそう鏡に問いかける。 返事など来るはずがないのに弥斗はウンウンと頷きまた口を開いた。 「そりゃそう思っちゃうよね。だって僕、女でもないのに潮吹なんてしちゃってさ!最初漏らしたかと思ってぴーぴー泣いちゃったよ。あぁでも、僕が出したのがオシッコじゃなくて潮だって聞いた時は死にたくなったなぁ」 鏡から手を離しシャワーを手に取り、身体に浴びせる。ザァーザァーと心地よい温かさが弥斗を包み、ささくれた心が幾分マシになったような気がした。 「僕の身体....どんどんおかしくなってる。乳首も触られて気持ちよく感じちゃうし。あははははは!僕もう終わってんね!」 ケラケラと笑いながらシャワーを片付ける。 しかしその際チラリと鏡に映った自身のうなじにスンと無表情になった。 「....でも僕を、僕をΩ扱いするのだけは許せない」 うなじに手を回し、その噛み跡を消すように擦る。しかしそんな程度で消えるはずもなく、ただ肌が赤くなるだけだった。 それに舌打ちし、くしゃりと顔をさらに顰める。 「僕はβだ。それはこの世界の絶対で、変えられない事実だ。僕はβである限り普通に振る舞える」 弥斗にとって最早それだけが心の拠り所となっていた。βは、子供を孕まない。誰かを孕ませたいなどの衝動がない。この世界で弥斗が普通に過ごせるための唯一の性なのだ。 弥斗がこうも歪んだ思いを抱えてしまったのはやはり、あの記憶のせいだ。この世界の普通が弥斗の持つ記憶のせいで弥斗にとっては異常に映る。 しかしその異常が弥斗の身体を作り変えてしまった。 その事実が弥斗を恐怖させる。 「.....こんな身体になって普通に過ごす?あぁ、やっぱりこのままだと僕が僕でなくなってしまう」 ならどうすばいいのか?そんなもの答えは一つしかない。 「ここから逃げなくちゃ」 弥斗は再び鏡に手をつく。しかし今度は両手を。 そして鏡に額をつけ目を閉じ深呼吸をした。 「助けは来ない。それは絶対。泣いてシュウさんに縋っても意味は無い。優斗さん....誰かに頼るのは無理だ。やっぱり僕一人で....」 そう言いかけて―― だが弥斗はなにかに気づいたように頬を吊り上げる。 「いや、僕は一人じゃない。君が居たじゃないか」 目を開け鏡と見つめ合う。 暫く見つめ合い、そして身体を鏡から離すと浴槽へ身体を沈めた。 肩まで浸かり、伸びをする。 髪から雫がポタリと落ち、波紋を作った。 「ふんふーん♪ふふーん♪あは、あはははははっ!っと、いつも通りいつも通り」 その日は珍しく浴室から弥斗の機嫌のよさそうな鼻歌が響いていた。 しかし愁はそれを知らない。

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