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ベルの世界 #16

 身支度を整えて靴下の中を出た雪雄と一星は、ツリーの頂上近くまで来ていた。  というのもツリーに巻かれた綿の最終地点にまで辿りついてしまったからだ。  途切れた綿の少し先には、赤いリボンがあしらわれたベルのオーナメントが金色の輝きを放っている。  ヒイラギの世界から一星の胸ポケットの中でずっと熟睡していたらしいブレッドは、こっくりこっくりと半ば舟をこぎながらベルのオーナメントを指差した。 『んー。天使ちゃん、あそこー』 「おい本当に大丈夫かよブレッド」 『だいじょーぶ。ねむいだけー』 「天使といい、ブレッドといい、このツリーには睡眠障害を起こす何かがあるのか?」 「でも俺たちにはそんな効果ないしな」  一星と一緒に首を捻っていると、ブレッドは「ユッキー」と小声で雪雄を呼んだ。 「どうした?」 『なんだかむずかしい顔してる。ぼくのお手て食べていいよ』  ポケットから差し出された小さく指のない手に、ふと笑みが零れる。  ジンジャーパウダー抜きのジンジャーブレッドマンを子供の頃はよく食べた。父がショウガ嫌いな雪雄のためにわざわざ一から作ってくれたのは忘れがたい思い出だ。  ブレッドが自分はジンジャーパウダー抜きだと言った時、そのことを思い出して胸が苦しくなったが、なぜだか今はほわりと胸が温かくなった。 「俺が食べたらお前の手がなくなっちまうだろ」 『いいんだよー。ぼくはクッキーなんだから。一口も食べられない方がかなしいよ』 「手の先ぐらいなら食ってやってもいいんじゃないか?」  口の端をゆるめた一星も奨めるので、じゃあ一口だけと頂くことにした。  ぱきっと割れた茶色の欠片を口に含む。クッキーのさくさくとした触感と、ほんのりとしたココアの甘味が口いっぱいに広がった。噛めば噛むほど、中に入っていたミックスナッツの風味が鼻を通り抜ける。  もうよく覚えていないけれど、父の作ってくれたブレッドマンもこんな味だったような気がした。  素朴で優しい味を舌の上で最後まで味わい、静かに飲み込む。 「うん、すげえ美味かったよ」 『ほんと? えへへ。うれしいなー』 「俺にもくれるか?」 『えー? 元気なのにしょうがないなあ、イッセーは。特別にもう片方の手をあげる』 「すまない。ユキと同じものが食べたくてな」 『イッセーはユッキーが好きなんだね』 「ああ、愛しているからな」  げぼっと雪雄の喉から妙な音が出たが、幸福で満ち満ちた笑顔を向けられては悪い気はしなかった。  そうして二人は並んで真っ白な綿の先に立つ。ベルのオーナメントから少し上に視線をずらせば、天使の座っていた陶器の台座が主人の帰りを待っていた。  雪雄の横からすっと手が差し出される。 「手を繋ぐか?」   悪戯っぽく笑う一星に、迷わず「ああ」と頷いて手を取る。  また断られると思っていたのか、一瞬目を見開いた一星は、じわじわと甘いものを噛み締めるように笑った。 「行こう」 「ああ」  掛け声と同時に足元の綿を蹴り、ベルの中に飛び込んだ。  通り抜けた瞬間、澄みきったクリスマスキャロルが響き渡る。  清らかなソプラノの歌声は二人が降り立った石造りの礼拝堂によってヴェールに包まれたように反響していた。  正面の薔薇窓のステンドグラスからは光が差し込まず、この世界が夜であることを告げている。優雅なアーチを描く天井のヴォールトは、佇む者に空間をより広く厳かに見せた。  まっすぐ敷かれた深紅の絨毯。その両脇に位置する側廊には祈る信者のための長椅子ではなく、天使の彫像が花道を作るように立ち並ぶ。  少年にも少女にも見える彫像の唇は、歌に合わせて動いていた。どうやらクリスマスキャロルはこの天使たちが歌っているらしい。  しかし何より目を引いたのは、それより奥に見えるものだった。  どちらが何を言うでもなく、互いに握った手に力が入る。真っ赤な絨毯を踏みしめ、天使の彫像に見守られながら、二人はゆるやかに歩を進めた。心が洗われるような歌声を背にして、雪雄と一星は目の前のものを見上げた。  通常の礼拝堂ならばあるはずの祭壇はなく、代わりに鎮座していたのは、あのスノードームだった。  ――お父さ~ん。ツリーだよ、ツリー!  ――こら、ユキ。葉っぱを引っ張るのはやめなさい。家のツリーじゃないんだぞ。  ――へへへ  スノードームの映像はありし日の雪雄の過去だった。  幸せを詰め込んだような父子は、クリスマスツリーの光を一身に浴びている。  叱られても悪びれる様子のない子供の雪雄と、仕方なさそうに窘める生前の父の姿。  ――こーの、悪いやつめ。  帽子の上からガシガシと頭をかき混ぜられても雪雄は楽しげに喚くだけだ。  ――やれやれ、子供の頭をそんなに強くかき回すなんて。父さんはボーリョク的だな。  ――あっ、言ったなー? あーあ、今日は帰ったらユキのために焼いたクッキーを食わせてやろうと思ったのに。そういう態度を取るんじゃあ、お預けだな。  ――えっ、ショウガ抜きのクッキー!? やだーっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさーい!  ――はは。お前、現金な奴だなー。  ああ、と雪雄の胸に凍りついていた何かが溶けていくのが分かった。  父が亡くなってすぐの頃はまだその顔がどう動くのか鮮明に覚えていた。だというのに、中学に上がるまでには思い出せなくなっていた。あんなに面白かったサンタ姿の父が記憶の中にぼやけていく。  確かにあったはずの幸せまで消えていくような気がして――だから雪雄は焦るようにして年上の男と関係を持ったのだった。誰かの腕の中にいると仮初の安堵を感じられるから。  時が経つにつれ、そのことすらも忘れてしまっていた。忘れてしまえば、父を忘れてしまう恐れから逃れられる。けれど。 「ああ……」  嗚咽混じりの声に、顔を上げてギョッとする。  隣に立つ一星がスノードームを見つめたまま、ぼろぼろと滂沱の涙を流していた。 「なんで一星が泣いてるんだよ!?」 「ぐ、う……仕方ないだろう。あれは俺の救いだったから」 「救い?」  その話は聞いていない。  先を促すと、乱暴に涙を拭った一星は鼻を赤くしながら気まずそうに顔を歪める。 「俺の家庭環境は言っただろう。正直、今まで生きてきて犯罪に手を染めることを考えたのは一度や二度じゃない」  その言葉に息を呑む。  しかし理解はできた。彼の立場を思えば、周りに刃を向けたくなってもおかしくはない。

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