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針路

 いただきます。と、各々の声がする。  普段ならば疎かにしていたが、郷に入っては郷に従え。伊織も両手を合わせて、いただきますと唱えた。  ごま油の香ばしい匂いや、お肉の焼ける音、味噌の溶けたふんわりと優しい色を見ていると、料理をしているそばから余計にお腹が空いてきていた。  柊一郎を上座に、大きく長い木製のテーブルを囲んでの賑やかな食卓。客人だからと、上座に近い場所で春人の隣に足を崩して座り、箸を掴んであたたかい丼を手に持つ。ずっしりとした重みが嬉しい。甘い豚の油の匂いと塩の強い香りが通り抜ける。  我慢ならず、早速箸いっぱいにほかほかのごはんと一緒にかき込んだ。切れていた口の中が思い出したように痛みはしたが、そんな事は二の次になるほど美味しかった。分厚く切られたバラ肉は満足感が大きく、野菜の味が出た味噌汁は優しい。  喜色満面の伊織に、一同も嬉しげに騒ぎ始めて質問大会がしばらく開催された。  学校のことや家族のこと、伊織自身の好きなものや嫌いなもの、例の事件のこと。  訊ねられるがままに答えていくうちに、話の流れは次第にそれぞれの仕事の話や現在の趣味嗜好の話へと移り変わっていった。やっと一息つけ、なかなか口までたどり着けなかったごはんを再開する。出来上がりのあたたかさはなくなってしまったが、美味しさは変わらずそのままだった。 「傷の具合はどうかな」  不意に春人に訊かれ、口の中にものが入ったまま伊織は何度も頷いた。  口元だけで涼しげに笑う春人が、いたずらっ子のように言ってのける。 「すまない、今までも充分に食べられていなかっただろうにね」 「……わかってて質問してるんですか」  ぎゅっと眉間に力を入れて春人を見上げると、少しも悪いと思っていない謝罪が降ってきた。重ねて、食べながらでもいいよと言う彼の無理難題にも、謝罪の念はこもっていなかっただろう。 「まだ痛みますけど、美味しいものの勝ちです」 「確かに。時間が合えば組内でこうして集まるけど、より美味しく感じるものだ」 「わかる気がします」  一人暮らしをする前は、家族みんなで食卓を囲むのが常だった。  それがなくなり、初めこそ料理の大変さは身にしみたものの、寂しさを感じるまではなかった。ふと、気がついた時に静かな部屋を意識すると、今実家では何を食べているのだろうとか、何を話しながらいるのだろうとか考えてしまうのだ。  決して多くはない友人たちと共にすることはあるが、それとはまた違った安心感がある。 「少し、似てる気がします。うちと」  家族の団欒を思い出しつつ春人に言えば、嬉しそうな声が返ってくる。 「君の家庭環境と似ているなんて嬉しいね。兄弟は?」 「いや、ひとりっ子です。おかげでのびのび育ちました」 「それはいい」  笑い、箸を器用に操る手元が美しい。  話をしながらも所作に乱れもなく、他の組員たちのように口に物が入ったまま話し始めたり、いっぱいまで頬張ったりもしない様が大人の男性という雰囲気を醸している。ように一大学生には見えた。  そこまで考えて、自分はどうだっただろうかと思うと恥ずかしくなる。お手本にはなれないだろう。  改めて居住まいを但し、喉を鳴らす。 「春人さんは、兄弟はいるんですか? 家族の方とかどちらに?」  一瞬、ピリッとした空気を感じた。  そう思った時には既にその気配は消え、緩やかな食事の音が続く。 「兄弟はいないよ。家族は両親だけ。どちらももう亡くなってしまったけどね」 「それは……」 「ああ、気にしなくていい」  お椀を置いて、首を振る。 「この仕事をしていればそうなることもある。それは理解しているし、涙を誘うために話したわけでもないから。畏まられると、俺の方が困ってしまうからね」  苦笑する彼に、伊織は口を閉じるしかない。深追いしていい話ではないことはわかっている。  気の利いたことも言えずにしょげる伊織に、気にした風もない春人が「そういえば」と箸を持つ手を向けた。少し、行儀の悪さが見えた気がしてかわいらしく見える。 「当面の住まいのことだけれど、頭の片隅でくらいは考えてくれていた?」  ごはんを口へ運び、こくりと頷く。  料理の手伝いをしながらも考えてはいたことだ。大きなことが一つ終わったら、今度は自分の居住場所の確保と際限なく降りかかる問題に休まる時間もない。  それでも、自分のためにと動いてくれている春人のことを思うと、少しでも彼の負担を減らしたくなるのは当然のように感じる。  そのため伊織の中での気持ちは固まっていた。 「時崎組で、お世話をして頂きたいと思います」 「ありがとう。俺としてもとてもありがたいよ。そうしたら……」 「あの! 交換条件というわけではないんですが……ここでお世話になるなら、少し手伝いをさせてもらいたいんです」 「手伝い?」  初めて伊織への怪訝な表情を見せられ、なんてことないはずなのに圧を感じて及び腰になりながらも後を続ける。 「今日みたいに、ごはんの準備だったり、家の中の家事なら少しは手伝えると思うんです。無駄に一人暮らしをしていたわけでもないので、使って貰えたらなって……」  話していくうちに春人の表情は柔らかくなっていき、尻すぼみしていく伊織の声に寄り添った。 「組の中でやりたいことがあるなら構わない。近くに誰かしら組員は置くようにするから、何かあれば頼るといい」 「あ、ありがとうざいます!」 「いや……それに、君の作る美味しいものが食べられると思うと俺も嬉しい」  さらりと誉め言葉をよこされ、慣れない伊織はただ茫然とするばかりで言葉にならない。自分の力だけではなく、タキやタケミヤの力添えもあってできたことでもあるが、春人の口から自分へ向けた直接の言葉は心をくるぐる。柊一郎に褒められるタケミヤの嬉しさというのも、こういうものなのかもしれない。確かに、得も言われぬものを感じる。  ぽかぽかとあたたかくなる体は、きっと食事での発熱とはまた違ったものであろうことはわかった。  ほのかに色づいていく頬を隠すため、そっと下を向いて顔を背け、どうにか髪でごまかせやしないかと目論んだが失敗に終わる。  そっと指が伸びてきて、横髪を掬い上げ耳にかけられた。長さが足りない髪が幾本も元の場所へはらりと落ちていく。耳の輪郭をなぞるように冷たい指先が触れ、ハッとして春人を見た。  柔らかな笑みとぶつかる。 「あれ、上手くかからないね」  君が動いたからかな? と首を傾げる春人に 「髪留め、買います」  と答えるのが精一杯だった。 「邪魔になるようならその方がいいかもね。それで、住居のことに戻るけど」  ドキドキもやもやと胸の中で争いが起こっているとは思いもしていないであろう春人の声に耳をすませ、上手く首が動かせないまま伊織はぎこちなく胡坐をかいていた足をもぞりと動かした。 「昨日は俺の家に来てもらったが、どうだろう。もし君が嫌でなければ俺の部屋を使ってほしいと思っているけれど」 「……でも、それって春人さんの迷惑になりませんか?」  自分の家に他人を居座らせるとなると、共有スペースが増えてしまうことになる。今まで一人で使用していたあらゆるものを、言ってしまえば無期限で貸し出すようなことになってしまうのだ。ちょとした備品だって買い足すことも多くなるであろう。  更に、昨夜は別室で春人は就寝したと言ってはいたが、まさかベッドが二つあるわけでもあるまい。一部屋に伊織のワンルームが入ってしまうからと言って、一人暮らしの部屋にベッドは二つ必要になることはない。とすると、彼が寝た場所を想像し、きっと優しい春人ならばそのことを苦とも思わさぬ態度で伊織をベッドへ押し込むだろう。  また、今となっては距離も近く話してはいるが、春人は時崎の若頭。裏の世界に明るくない伊織からしても、頭とついているのならば、そこそこの役職なのではないかと思う。会う組員皆、春人には頭を下げていく姿もよく目にしている。そんな人の家に泊めてもらっても問題ないのだろうかという疑問も出てくる。  そのことを悪く思うような人間はここにはいないだろうが、伊織が頻繁に出入りしているところを見られでもしたら春人に危害が及ぶかもしれないと、気になりだしたら止まらない。自分自身もだが、周りが穏便に過ごせる方法があればそれが一番だ。  そんなこと、この業界の人に言っても笑われないか知れないが。  不安げな伊織の表情をどうとったかはわからないが、春人は普段の調子を崩すことない。 「何も迷惑に思うことはない。部屋もあるし、君が来てもいいように準備はしてあるつもりだ。俺の家が窮屈に思うようなら、若手ばかりだがこの組にいてもいい。……少し、気は進まないが」  少しと言うが、かなり嫌そうに言葉が濁る。  伊織が来る準備を進めているという言葉もずるいと思った。  そんなことを言われてしまったら、返答する答えは絞られてしまうというのに……。  それさえも春人の思うままなのか、伊織は逡巡した後、ゆっくりと同意を示すよう頷いた。 「春人さんにお世話になろうと思います。様子見でも、いいですか?」 「ああ、問題ないよ」  ほっとしたように肩が下がった。  若手のみのこの家より、自分の目に届くところに置いた方が効率がいいと思ったのだろうか。もしくは、こちらに寝泊まりする方が危険が多いのかもしれない。とにかく、理由はどうあれ今後もお世話になることになるのは違いない。  自分の能力が使えるものかはわからないが頑張ろうと強く決意した。 「これから、よろしくお願いします」  手にしていた箸と丼を置いて、周囲に悟られないよう小さく頭を下げた。  それを見た春人も同じように両手を空にして、居住まいを正す。 「こちらこそ、よろしくお願いします」  膝に手を添えて恭しく頭を下げた春人と、顔を上げた時に目が合った。  なんだか少しむず痒く、照れを紛らわせて笑ってみれば、目を細めて微笑む春人が見れた。これまでに見た彼の、どの微笑よりも本物だった。  見とれたのも束の間、見合いでも始めたのかと柊一郎から言われ、彼と一緒に会話が盛り上がっていた組員が二人を囃し立てる。  伊織は慌てて否定をしたが騒ぐ男たちの耳には届かず、昼だというのに宴会かと見まごうほどのドタバタに、とうとうノジマの鋭い声が飛んだ。そんなことも日常茶飯事なのか、ぶつぶつ文句を言いながらも素直に引き下がっていく面々に、春人は苦笑を漏らす。  大変にぎやかな昼ごはんは、心にも体にもよく沁みた。

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