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普通に過ごすということ

 平日は変わらずに大学へ行くことになる。  大学生活後半戦を楽に過ごすため、二年の現在でもできるだけ講義を受けるようにはしている。平日を休みにする者もいたが、伊織は自分の興味のある講義を取り、平日も休みはなかった。  代わりに、一日に詰め込む数を変えて、講義が多く入っている日や一つの講義で終わる日なんかを作ることにした。  今日は、その一つだけに当たる講義の日。  この為だけに学校へ行くのもバカらしいと友人に言われたりもしたが、聞いていて楽しい講義を受けに行くのは苦ではない。  教授が黒板に背を向け、配られた資料の説明を始める。メモを取りながら、何気なく窓の外を見る。  この講義室は、窓が丁度校舎前に向いているため、学生たちの行き来を見ることができる。校門を入ってすぐの場所にはコンビニが併設されていて、たまに学生でないであろう人たちが利用しているのも見かけた。  今は、午後の柔らかな太陽の光が校舎を覆っている。  その校門前に、目立つ車が止まっていた。思いがけず、ビクリと自分の肩が震えるのがわかる。高級車ではないが、真っ黒の美しいボディーが太陽光に照らされて光っていた。  確かに、後期分の講義の予定を話してはいたが、いつからそこで待っていたのだろうか。  そわりと心が動いたとき、伊織の思いを察したかのように授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。教授が締めの挨拶をするのも聞き流し、素早く荷物をまとめると講義室を足早に出た。  講義終わりの廊下は人でごった返していて、エレベーターにも列が作られる。伊織はそれを避けて、階段へ真っ直ぐに向かった。下りる分にはこちらの方が早い。  教科書の入ったリュックを揺らしながら一階へと下り、自動扉を潜り抜けて校門へと走る。何人かの生徒が遠巻きに校門外の車を見ているようで、気まずさを覚えながら伊織は近づいて行った。  やはり、思った通りの人物が出迎えてくれる。 「タキ!」 「あ、お疲れ様です伊織さん。すみません、早く着きすぎちゃって…」  車の前で立っていたのはタキ。普段通りの柄シャツにスラックス姿で、人懐っこい笑みを浮かべて謝る。 「それはいいんだけど……待ってるときは、目立つから裏の駐車場にって言ったのに」 「あ、いっけね、忘れちゃってました……」  すみません、と再度頭を下げるタキに、伊織は謝罪はとりあえず大丈夫だからと伝える。皆が見ている前での目立つ行動は避けたい。  時崎組に引き取られてから数日が過ぎ、大学への送り迎えをしようという春人の提案が実施されたのはすぐのこと。電車で登校するという伊織の言葉を押さえ、必要な時間帯に車を使えるようにと講義の時間割を聞かれて今に至る。  運転手は、その時々によって変わりはするものの、概ね仲の良いタキに当てられていた。春人の気遣いなのであろうが、校内では密かに、伊織に送迎車が来ると噂になってしまっている。少ないが、友人たちにも理由を聞かれたものだ。  当たり前だが本当の理由など話せたものではない。  が、上手い言い訳を思いつくこともできずに、笑って誤魔化すことしかできなかった。そのため、友人たちとは校内で過ごすくらいしか接点がなくなってしまったのは悲しくもある。  とにかく、この場から早く移動しようと伊織が車へ近づこうとしたとき。 「伊織、その人誰なの?」  背後から声をかけられてしまう。  初日にも同じことがあったので、車は裏にと言っていたのだが……。こうなっては仕方あるまい。  振り返ると、先程同じ講義に出ていた友人の一人が立っていた。 「佐伯、一人なの? 友達はまだ講義があるんだっけ?」 「俺が先に訊いたんだけど」  肩にかけたカバンをかけなおし、腕を組んで伊織とタキを交互に見やる佐伯。一年のとき一番に仲が良くなったこともあり、休み明けから突然に送り迎えがつくようになった伊織のことを訝しんでいた一人だ。  更に言えば、彼自身は好んでいなかったようだが、例の伊織へ借金を肩代わりさせた“友人”が学校に姿を見せなくなったことも気にしていた。  詳しい話はなにも知らないが、彼がいなくなった時期と、伊織の送迎のタイミングが重なったことに何か感じたらしく、よく声をかけてくれている。  伊織にとっては冷や汗ものなのだが。  現在もその立場に立たされている伊織は、曖昧な笑顔を張り付けながらどうしたものかと考えを巡らせる。 「ごめん佐伯、ここに車止まってると邪魔になると思うからさ。また今度」 「そう言って、最近は講義終わったらすぐに帰ってるだろ。しかも運転手付きの車で」  言って、タキのことを睨みつける佐伯。  タキはと言えば、ニコニコとした表情は鳴りを潜め、冷たい無表情が佐伯を見つめ返していた。民間人に手を出すことはないが、相手が何者かを知らないで突っかかっていく友人に、伊織の背中をひやりと冷たいものが這う。 「なぁ伊織、一緒に帰ろう。たまにはさ、どっか寄って帰ろうよ」 「……このあと用事があってさ、行かなきゃいけないんだ」 「……その用事ってなんなんだよ」  苦々しいセリフと共に、佐伯は一歩伊織に近づく。  タキがいつでも動けるように足の置き場を変えたのがわかった。 「少しの時間も、俺と二人で話すことはできないの? そんなに大事な用事なのかよ」 「佐伯……」  何を言ったものかと戸惑う伊織に、佐伯は歯を軋ませるように噛みしめ、視線を地面へ落とした。 「……悪い、言い過ぎた」 「佐伯、ごめん」 「謝んなよ。俺が悪いんだ」  何も悪いことなどない。心配をして、踏み込んできてくれる友人など、そうそういない。  けれど、そういった人にこそ関わってもらいたくないのだ。  それじゃあ、とだけ言葉を残して佐伯は背を向け歩き出した。一人家路へとつく彼の背中を眺め、伊織は言いようのない気持ちに襲われていた。  どのように言い表したものかもわからない。  のろのろと進む佐伯は一度として振り返ることなく、すぐに角を曲がって消えてしまう。  最期まで見送った後、伊織はタキに扉を開けられる前に、自ら後部座席へと乗り込んだ。リュックを脇に置き、シートに背中を預けてスモークガラス越しに空を見た。まるで自分の心を映すかのようだと思う。  運転席にタキが乗り込むと、しばらくして車が発進した。  沈黙が車内に充満していたが、言い難そうにタキが口を開く。 「俺のせいですよね……本当に申し訳ないです」  バックミラー越しに目を合わせると、眉が下がったタキの表情が見て取れた。情けないほど悲しそうで、できるだけ笑顔を取り繕って伊織は答える。 「大丈夫、前から言われてはいたんだ。俺が話せたらいいんだろうけど……」 「若から聞いているとは思いますが、監視下であればご友人と会うことは許されてますから」  それは伊織も本人から言われてはいた。  全ての動きが制限されるわけではなく、春人も伊織のことを思って提案してくれていることが分かる。  佐伯にも理由を話せば、監視がいたとしても会ってはくれるだろう。自分が置かれている状況を話しても、優しい彼と付き合いを続けることはできるかもしれない。  けれど、優しいが故に彼なりの正義感があるため、大人や警察にでも話をしてしまえばどうなるか。表向きは事件の収束になるかもしれないが、警察との癒着があったら、佐伯に報復がいったらと考えると、そうもできなかった。  もう、画面越しで傷つく友人の姿を見たくはなかった。 「ねぇタキ、もしできたら一緒にどこか寄ってくれない?」  突然の提案にタキは驚いたようだったが、快く承諾してくれた。 「どこ行きますか? 学校からは離れた方がいいですよね」 「時崎組のシマの中にしよう。ちょっと甘いものが食べたい」 「わかりました」  微笑むタキに少し心が安らぐ。  彼も伊織の表情の変化に気が付いたのだろう。お互いに探り合いながらも、ぽつぽつと他愛ない話をしながら、車の揺れに身をゆだねていた。

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