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第7話

「結城くんはどうなの?結婚とか」  多分ないだろうと思いながらも念のため泉は訊ねた。探りを入れておくには自然なタイミングだ。だが結城は水を向けられたことが意外だったのか、喉を詰まらせたのかと思うような動作で呑んでいたレモンサワーのグラスを置いた。 「いえ、私はまだ」 「そうなの?じゃあ独身同士、今後も仲良くしようよ。結城くんさえ良ければ」 「ありがとうございます」 「良かった。大人になると友達になれそうな人ってなかなか見つからないからさ。結城くんて誠実そうな雰囲気あるし、実は結構陰でもててると思うけどな。君がその気になればすぐ彼女できそう」 「泉さんこそ、お一人なんてもったいないと思います」  少し笑いながらそう云った直後に、結城はさっと顔を曇らせた。離婚していない人間に、無責任な発言をしたと後悔しているのだ。 「すみません、余計なこと云って」 「ううん、嬉しいよ。ただ、僕はもうしばらく女性はいいかな。まだ正式に離婚したわけじゃないのもあるけど、僕の方は妻が嫌いになったわけじゃないしね」 「……きっと素敵な奥様なんでしょうね」 「うーん、まあ僕は結婚を後悔したことは一度もなかったよ。樹里は……あ、彼女、樹里って名前なんだけどね、大学の一年後輩だったんだ。栄養士をやってる。昔から責任感が強くて、しっかりしてたな。子供のことになると、ちょっと神経質になるところがあったけど」 「えっ、泉さん、お子さんがいらっしゃるんですか?」 「息子が一人ね。海晴っていうんだ。今は五歳で保育園に通ってるよ」  泉の携帯電話のロック画面は息子の写真だ。それを手渡すと、結城の表情が今日一番明るくなった。 「かわいい」 「子供は好き?」 「はい。社会人になってからは特に。うちの会社の近所にも保育園があって、散歩に出て行くところとかたまに見かけるんですけど、本当に癒されるんです。息子さん、笑った感じが泉さんに似てますね」 「ほんと?嬉しい。周りからはさ、親子三人でいると『息子さんは奥さん似だね』って云われることの方が多かったから」  泉は結城から返却された携帯電話を受け取った。 「……海晴くんは今、樹里さんと一緒に?」 「うん、今じゃ海晴との面会は月に一度だけ。今年の二月に入ってすぐだったな。いつも通り仕事を終えて帰ったら、もう家には誰もいなかったんだよ」  結城は口を噤み、次に何を云うべきか考えている様子だった。 「ああ、ごめん。こんな話されても困るよね」 「いいえ、ただ……きっと寂しいだろうなって」 「うん、まあね。でも仕事もあるし、何とか毎日やってるよ」 「……そうですか。海晴くんもきっと、お父さんが恋しいのを我慢してると思います」 「ありがとう、結城くんは優しいんだね」  結城は、そんなことない、とでも云うように小さく首を振った。それから飲み物に口をつけた後で、再び泉と視線を合わせた。悲しそうな眼をしながらも、口許だけは努めて微笑もうとしていた。  結城のつつましい情の深さに、何より息子に思いを馳せてくれたことに、泉は心の端を掴まれた気がした。もし結城が女だったら、きっと男たちが放っておかなかっただろうな、と思う。この男の不器用な生き方が透けて見えて、思いきり優しくしてやりたいような、痛いほど抱き締めてやりたいような、胸につかえる熱情を感じた。  恐らく、全く意識せずにテーブルの上に置いているであろう結城の左手に、泉は自分の右手を重ねた。  初めはどうしたのかと、結城は不思議そうな表情を浮かべていた。だが泉と視線を合わせるうちに、その表情に途惑いとかすかな恐れが垣間見えた。ちょうど泉のすぐ背後を、店員が通り過ぎていく気配があった。 「泉さん……あの」 「嫌なら振り払えばいいのに」  あくまで軽い調子で泉は云った。結城はもう一度泉を見上げ、掴まれていない方の右手で泉のそれを軽く押さえながら、そっと下の左手を抜こうとした。丁寧な手つきだった。だが泉は空いていた左手を更にその上へ重ねて離れないようにした。 「高校時代からの親友と寝たのを、妻に知られた。それが、彼女が息子を連れて出ていった原因だよ」  結城が言葉を失う気配があった。自分の両手の下にある微かな震えを泉は感じ取った。 「そうそう。僕は男とも寝るから。どちらかと云えば、同性との経験値の方が多いかな」  あっさりとそう打ち明け、泉は両手を放した。結城は泉を真っ直ぐに見つめていた。若干、呆気にとられた雰囲気があった。 「ごめんね。急に情報量が多くて、びっくりしたよね」 「……いえ」 「抵抗ある?僕みたいな人間に対して」 「いいえ」  今度ははっきりと聞こえた。彼にしては少し強い声だった。 「泉さんと話していて、薄々そうじゃないかとは感じていましたから」 「そうか。それであんまり驚かないんだね。分かる人なんだ?」  結城が更に何か云おうと口を開きかけたその時、店員がやって来て、食後のガトーショコラをお持ち致しますか、と訊ねた。泉は承知し、済んだ皿を下げてもらうよう頼んだ。店員が立ち去ったところで結城は、 「きっと、何か理由があったんですよね?」  と呟くように訊ねてきた。 「え?」 「親友の方と……そうなった理由です。泉さんが平気でご家族を裏切るような方だとは思えませんから」 「ありがとう。でもそんなに僕を買い被らないで。単純に魔が差しただけ、って云ったらどうする?」 「それなら、もっとずっと前の段階でそうなっていたと思います。お相手の方は高校時代からの親友だって、今仰いましたよね」   一歩も退かない清廉な瞳を向けてくる結城に泉は少し途惑っていた。  つい先程まで、逐一自分の言葉を点検するかのように慎重だった男は、どこへ行ってしまったのだろうか。  自信のなさからくる揺らぎが、今の結城にはなかった。 「間違っていると分かっていても、他にはどうしようもない瞬間って誰にでもあると思います」  ああ、この男にも、抗えなかった運命というのがあるのかも知れない。  降りかかった苦難に、手も足も出ず負わされた傷痕が、今も体に残っているのではないか。背中にではなく、きっと胸に。その傷の痛みのあまり、時間と共にその傷痕を隠すため身を縮こめるあまり、あんな寂しく痛々しく孤独な背中になってしまったに違いない。この男の後姿の歪さに、自分の魂は共鳴している。一体何が、あの悲しい背中と、これほどに澄んだ瞳をつくり上げたのか。

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