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第8話

 デザートが運ばれて来たタイミングで泉は席を外し、電話でタクシーを呼んでおいた。その帰りに会計を済ませて結城の元へ戻った。 「ねえ、これからうちに来ない?」  そう訊ねた時、結城は一昨日の夜、食事に誘った時と全く同じ反応をした。眼の動きを硬直させて、息を詰めて泉を見上げている。 「タクシーを呼んであるから。車で行けばすぐの距離だよ」 「……そんな、突然お宅にお邪魔したらご迷惑じゃ」 「迷惑だったら誘わないって。明日予定ないって云ってたよね?ビールでも呑みながらゆっくり話そうよ。誰もいないから気兼ねしなくていいし」  後半は自虐的に笑って云った。 「はい……あの、でも」 「あ……ごめん、もしかして嫌だった?」 「ちが、あの、嫌なんかじゃ、ありません」 「良かった。結城くんとは話しててとっても楽しかったからさ、つい、名残惜しくて」 「私も、楽しいと思ってます。泉さんみたいに優しい人、なかなか出会えないし」 「ありがとう。僕も結城くんみたいな人は好きだよ」  泉の言葉にますます追い詰められた様子で結城は俯いた。 「大丈夫。帰りはちゃんと送ってあげるから」  店を出てタクシーに乗り込むぎりぎりまで、結城は迷っていた。行けばどういう可能性があるかを分かっているのだ。相手の表情の翳りを察していながら、泉は素知らぬ態度で店を出る支度を始めた。恋愛には賭けの瞬間が必ずある。この相手が欲しいと思ったら、悪者にされる覚悟で主導権を握らなければならない。  だが泉は直感的に、うまくいくのでは、と思っていた。今夜、この男が手に入る気がしていた。結城が今も尚、迷いを見せているのがその理由だった。全くその気がない人間であればまず迷ったりしない。何とかして誘いを断ろうとするか、友達としてなら、という予防線をはっきり引くはずだ。ひょっとすると、心の奥底では、怖がりながらも自分と同じものを求めているのではないか。そう泉は思った。もしも、ここまできて土壇場で逃げられたら、自分の感覚が鈍ったことを恨むよりほかない。そして結城とは、二度と連絡をとることはないだろう。 「平気?酔っ払ってない?」  タクシーに乗り込んですぐ、泉は訊ねた。 「……少し」  その後の車内で、結城は終始無言だった。緊張と、心を整えて静謐な決意をつくり出すための沈黙だ。泉も運転手に行き先を指示した後は窓の外を眺め黙り込んでいた。ここまできて闇雲に声をかける必要はないと思った。  狙った相手を自宅に連れ込むのは初めてだ。いつもは後々面倒なことにならないよう、馴染みのホテルを使うことにしている。だがタクシーを呼ぶ前に、ホテルに電話をかけ空き状況を確認したところ、今夜は全室満室とのことだった。  年の瀬の空気には、きっと人肌恋しくなる成分が含まれている。きっと自分もその空気に酔わされている。スムーズに計画が進まない運の悪さに抗うかのように、こうして自宅にまで向かおうとしているのはその所為だ。そうでなければ何をこれほど急ぐ必要があるだろう。  会って二度目の相手をこれほど強引に誘うのは、本来の泉のスタイルからは外れていた。狙った相手を一度目か二度目の逢瀬で仕留める速攻型のテクニックは、泉の肌には合わない。二十代の頃に何度か試みたことはあるが、失敗も多いし、やはり相手が男であろうと女であろうと、ある程度の親しみや信頼を獲得してからでないとセックスは楽しめないものだと実感した。心を開いていなければ体もうまく開かない。  ただ、初めから相手がその気だった場合は別だ。最近はそういったチャンスにばかり甘えていたな、と泉は思う。鬱屈した感情を紛らわせるために、手っ取り早く温もりが欲しかった。プラトニックな付き合いを楽しむどころか、相手のセクシュアリティや好みを推し量るのさえ面倒になっていて、同じ指向を持つ学生時代からの友人を頼り、顔の広い彼に紹介や仲立ちを頼むようになっていた。深月ともそれで知り合った。  けれどもちろん、何もせずに与えられたプレゼントが心をとらえ続けることはない。ありがたく包みを開きはするが、満たされるのは一時だけだ。ここまで能動的になれたのは久しぶりだった。多分、結城の性格が良くて、何より自分を傷つけない相手だと確信が持てたから大胆になれているのだな、と自分の行動に納得する。  だがそれでも、一抹の不可解さは残った。見えない何かに誘われるように、性急な行動に駆り立てられる自分がいる。車窓から外を眺めている間、ずっとそんな感覚が拭えなかった。

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