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第9話

「お邪魔します」 「どうぞ、上がって。あ、コートは預かるね。すぐ暖房つけるから」  妻と子供が家を出てから、泉は寝室を一階へ移動した。十六畳のリビングダイニングの隣には、引き戸を挟んで六畳ほどの和室がある。そこに寝台と、スーツやシャツを掛けるちょっとしたハンガーラックを置き、基本的には一階で日常生活を送っている。下の階に寝台があるのは、月に一度、帰って来た海晴が遊び疲れて昼寝をする時にも目が行き届く。  立ったまま、開け放された和室へ視線を向けていた結城の傍へ、泉はビールの缶とグラスを置いた。 「僕みたいな人間は一人暮らししちゃいけないよね。たまには人を招かないと、どんどんだらしなくなっちゃう」 「いえ、きれいなお住まいだと思います。広い」 「そう?買って五年ちょっとなんだけど、きれいに見えてるなら良かった」 「はい、とても。あと、近くに大型スーパーありましたよね。ドラッグストアなんかと一緒になってる」 「ああ、あそこはちょっとしたショッピングモールなんだよ。中に子供用品店とかスポーツ用品店とか、あと百円ショップなんかも入ってるから、生活用品は大体あそこで揃えられるね」 「いいなあ。こういう生活環境、憧れます」  緊張を隠すためなのか、結城の声は不自然なほど明るかった。泉が注いだビールに結城は頂きます、と云って手をつけた。 「まあでも、一番の決め手は小学校が近かったからなんだよ」 「そうなんですか?」 「うん、大きい道路を通らずに学校に行けるから、海晴が安全に通学できるかなって思って」  その言葉ののちに、泉がほんの少し寂しさを匂わすと、結城の眼に同情の気配が満ちた。 「ごめんね、こんな話を聞かせるつもりで来てもらったわけじゃないから。日本酒とかワインもあるけど、どうかな」 「あの、泉さん」  結城はビールが半分ほど残ったグラスをテーブルに置くと、全て分かっているのだという表情をして泉を見据えてきた。その瞳が放つ磁力に、泉は自分が理性から引き離されていくのを感じた。 「今日、泉さんに誘ってもらって、本当に嬉しかったです。今日だけじゃなくて、この前のラーメンの時も。普段……会社なんかでも、俺、人から話しかけてもらうことなんか滅多にないんです。こうやって誰かの家に来たのだって、ほんとに何年ぶりだろうってぐらいで……口下手で、気の利いたことも云えないし、なのに、仲良くしようって云ってくれて……泉さんにはすごく感謝してます。それを、ちゃんと云っておかなきゃと思って」  結城が初めて自分のことを俺、と云ったのが泉の印象に残った。 「なに、そんな改まって。いいんだよ、こっちこそありがとうね」  泉は微笑んだが、結城はまだ云い足りないことがある様子だった。 「……食事の時、奥さんが出て行った理由を話してくれましたよね。親友と寝たからだって」 「ああ、うん……そうだね」 「俺も……泉さんと同じです」  結城の表情には意を決した雰囲気があった。 「同じ?」 「はい……先刻は云えなくてすみませんでした」 「それは……結城くんも、男と寝たことがあるってこと?」  泉の問いに結城は、はい、とごく小さな声と共に頷いた。 「だから、泉さんに抵抗なんか全然ないんです。むしろ……」 「……うん」  泉は待っていたが、結城はなかなかその先を云ってくれない。  ただ、眼の前の男が何を云おうとしているのか、泉にはもう分かっていた。この態度で拒絶しているとは誰であっても考えないだろう。  泉が肩に触れると、掌の下で結城はかすかに身を固くして、恐る恐る視線を上げた。  泉は相手を安心させるように微笑んで、煌々としたリビングの照明を消しに行き、代わりに寝台の傍にある間接照明を点けた。温かなオレンジ色の光が室内を優しく照らす。  同性が自分を受け入れてくれる。いつもこういう場になると、自分は恵まれているなと泉は思う。なかなか大っぴらにできない類の恋愛であるにも関わらず、こんな経験を何度もできるなんて自分は幸せ者だ。もし人生における幸福の分量が決まっているとしたら、妻子が出て行ったことは人生の釣り合いを取るための宿命のような気さえする。  泉がキスをしようと顔を近づけた時も、結城はじっとしていた。 「大丈夫?嫌じゃないの?」  念のためしたその問いに、結城は控えめに頷いた。  結城の唇は冷たく、ビールの味がした。舌を差し入れてみると、結城は一瞬息を詰めたが、やがておずおずと舌を動かして泉のそれに触れてきた。  服の下に手を這わせ、夏の雨のようなぬるい肌に触れる。結城は一旦唇を離すと、自分から服を脱ぎ始めた。これからする行為に結城が協力的であることが泉は嬉しかった。  ニットに続いてシャツを脱ごうとした結城の手を泉は制し、代わりに(ボタン)を外しにかかった。泉はシャツを脱がせるのが好きだ。他の服ではどうということもないが、シャツだけはどうしても脱がせてやりたいという欲求が生まれる。釦を一つ一つ外している時に相手の表情を盗み見るのが好きなのだった。やがて淡いオレンジ色の燈の中で、結城の肩の稜線が露わになった。 「眼鏡、いいかな?」  結城の了解を得てから、泉は結城の眼鏡を両手でそっと外した。初めてレンズを通さずに向けられた結城の視線は、芳しい強さで泉の胸を突き刺した。  結城が主体性を示したのはその直後だった。今度は結城が泉の服を脱がせにかかった。慣れた手つきでベルトを外し、スラックスの前を開けると、泉が何か言葉を挟む間もなく性器に触れ、フェラチオを始めた。  突然やってきたその舌の感覚と熱に、泉は落下するような感覚に近い快感を覚えた。  自慰とセックスは違う。自分の手でも射精することはできるが、やはり性感帯というのは、他人の手によって目覚めるものだと思う。泉はこの男の躊躇のなさに途惑いながらも、性器を中心に体が熱を帯びていくのを心地良く感じ、背中がとろけそうになっていた。  このままではまずい。  そう思いながら眼を開けた時、泉は結城の眼尻に涙が溜まっているのに気づいた。結城は喉の奥も使って泉のペニスを愛撫していた。その涙は彼の必死さの表れだった。結城は今、楽しんでいるのではなく、自分を退屈させないように必死に奉仕しているのだとその時分かった。 「そんなに焦らないで」  泉は結城の髪を撫でた。彼を押し止めることも、自分の腰を引くこともしなかったのだが、結城は気まずそうに口淫を取りやめた。 「……すみません」 「何で謝るの?とっても気持ちいいよ。でも僕にもさせて欲しいな」  そう云って泉は結城を立ち上がらせると、二人で寝台へ移動した。そして自分の性器を愛撫してくれた唇にキスをして、結城の体を抱きしめた。  泉はすぐに結城の性器に触れることはせず、まず上半身から丁寧に愛撫を始めた。結城の首筋に唇を這わせると、ほとんど消えかかっている香水の匂いに気づいた。  あまり目立たない喉仏と、鎖骨。筋肉がつきすぎておらず、細くても筋張っていない体が泉は好きだった。  薄茶色の茱萸(ぐみ)のような胸の先端に吸いつき、舌を這わせてみる。相手によって、そこは既に性感帯になっている場合もあるが、ただくすぐったいとか、痛いと云われたりするだけの場合もある。乳首が尖り膨らむのと同時に、結城の下半身も反応を示し始めた。相手の急所を探し当てる悦びが、初めての相手とのセックスにはある。先に大胆な行動に出たのは自分はなのに、結城はいざ触れられる側になると、落ち着かない様子で声が漏れるのをひどく恥じらっていた。心は羞恥で一杯なのに、体がはっきりと淫らな反応を示しているという相手の状態が、泉の昂奮を誘った。 「最後までしていいかな?したことはあるよね?」  ローションを用意しながら泉が訊ねると、その問いに結城は消え入りそうな声で、はい、と答えた。 「でも……本当にここしばらくはしてなくて」 「分かった。じゃあ痛いとか、嫌だなと思ったらすぐに云ってね」  泉がローションを塗り込むために秘所に触れた刹那、結城が息を押し殺す気配があった。ただ、羞恥で身を強張らせていても性器はちゃんと反応していた。 「……あの」 「うん、なに?」 「後ろ向きでも、いいですか?」 「いいよ」  優しく泉は答えた。多分、恥ずかしいのだろうと思った。初回のセックスはなるべく相手の希望に合わせてあげるのが泉の方針でもある。  結城の背中はとてもきれいだった。首筋に色の濃いほくろが一つだけある。シャツを着た時、ぎりぎり襟に隠れる位置だ。背を向けていても、彼が緊張から呼吸を潜めているのが分かった。この男は常に恐れをもって生きている気がする。ほんの束の間でも、それを和らげることができるだろうか。  ローションの助けを借りて、ゆっくりと泉は結城の体に侵入を試みた。緊張で強張っている外側とは裏腹に、結城の後孔は入口でわずかな抵抗を示しただけで、そこを過ぎると逆に呑み込むように泉を受け入れた。熱く柔らかい粘膜にペニスが包み込まれていく。駆け上がるようにやってきた快感の波があっという間に泉の全身を支配した。思っていたよりも早く余裕を奪われてしまい、泉の中に焦りが生じた。快楽の淵を見誤っていた。 「痛い?」  結城は初め、声を出さずに首を振った。 「……大丈夫です」  敷布(シーツ)の上で握り込まれた手が震えている。それを見た時、泉はそれまでよりもっと強く、この男に優しくしてやりたいと思った。それから早く彼を導いてやらなければと決意した。  泉は掌にローションを追加して、結城の前の性器を握り込んだ。 「んっ……」  くぐもった甘い悲鳴に心を疼かされ、まず泉は親指で亀頭をぬるりと刺激した。結城の体に挿入したままの恰好で、掌で竿を握り緩急をつけて扱いたり、優しく先端を指でいじくり回したりと、相手の昂奮を引き出すために、自分が気持ちいいと思うような刺激を結城に与え続けた。  泉の中には意地があって、初めてのセックスで相手より先に達してしまうことは、何としても避けたかった。それなのに泉の中では既にどうしようもない渇欲が働き始めていた。結城と繋がっていると性欲と快感がとめどなく湧出され、それを無心で追いかけたくなる。久しぶりだからなのか、この男との肌の相性がいいからなのか、この時はあまり考えられなかった。欲望のままに腰を打ちつけたい気持ちをぐっと抑えて、結城を追い詰めていくことに神経を注いだ。やがて、乱れた呼吸の合間に上擦った切ない声をあげて、結城は限界を訴え始めた。 「だめ……あ、敷布が……」 「いいよ、平気だから」  それから間もなく結城の体が痙攣して、吐精するのが分かった。結城の内側が、恐らく本人の意志とは無関係にうねり、泉の性器を締めつけてきた。ついに堪えきれなくなった泉は蓄積した情欲を発散させるため、結城の体の奥深くへ更に押し入った。まだ落ち着きを取り戻していない結城の体の内側を、突き上げたり掻き乱したりしている間、泉の耳には途切れ途切れに絞り出すようなかすかな嬌声が聞こえていた。

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