10 / 60

第10話

 泉がシャワーを浴び終えてリビングへ戻って来た時、結城はバスローブ姿で壁の高い位置にある作りつけの棚を見上げていた。 「あちらは、みんな息子さんが作られたものですか?」  そこには去年、海晴が保育園で製作した、クリスマスリースが飾ってある。けばけばしい色のモールが巻き付けられていたが、一年経って半分ほど取れかかっている。その横には、同じく息子が新聞紙を丸めて作ったハロウィンのかぼちゃの置物や、ほとんど読めない字で書かれた七夕の短冊が置いてある。画用紙で作った鯉のぼりは一番上の鯉の目が剥がれてしまっていた。  セックスの後でシャワーを済ませても、くだけた言葉遣いをせず慎ましい態度の結城に泉は好感を持った。事前と事後で振る舞いが変わらないことに誠実な人柄を感じた。初めて自宅に連れて来たのが、この男で良かったと思った。 「うん、そうだよ。全部去年作ったものだね。一緒に暮らしてた時は子供が作ったものって置き場に困ったけど、今は捨てられなくなっちゃった」 「みはるくんって、海が晴れる、って書くんですね」  七夕の短冊を見て結城は云った。短冊には子供本人の書いた字で、願い事と名前が記載されているが、解読不明な字を書く子も多いため、保育士が管理のために端に薄く鉛筆で名前を書き直している。  結城は慈しむように作品たちを眺めていたが、決して手に取ろうとはしなかった。自分が触れていいものではないと考えているようだった。 「うん、夏っぽい名前でしょ?でもあの子が生まれたのは実は冬でね、二月なんだよ」 「そうなんですか。でも、素敵な名前ですね」  今年の二月、誕生日を一緒に祝った十日後に、海晴は妻に連れられてここを出て行った。何も知らなかっただろうに、急に身の回りの何もかもを置いて住み慣れた家を出ることになって何が起きたのか全く分からなかったはずだ。さぞかし動揺したことだろうと思う。それも全て、元を辿れば自分が悪かったのだ。  自分を気遣うような結城の表情が眼に入り、咄嗟に泉は話題を変えた。 「そう云えば、結城くん、下の名前は?」 「えっ」 「ほら、仕事の時、名刺のやりとりはしなかったし、メッセージのプロフィールも苗字だけになってたから気になってさ。ちなみに僕の名前は道隆(みちたか)だよ。道路の道に、法隆寺の隆。長ったらしいから苗字のまま呼んでくれていいんだけど、一応ね」 「……結城朔矢(さくや)です。朔は……始まりの意味で、後は弓矢の矢です」 「へえ、きれいな名前だね」  寝台に座っていた泉は、結城を隣へ招いた。 「ここで一緒に寝るんで大丈夫かな?あ、歯ブラシは使い捨てのやつがあるからあげるね」 「いえ……私、まだ電車がある時間だし……帰ろうかと」 「ええっ」  泉は少し大袈裟に落胆した声を上げた。 「そんな、まだ体つらいでしょ?会社は休みに入ったんだし……朝早く用事があるわけじゃないなら、泊まって行ってよ」  結城は躊躇っていた。 「先刻も云ったけど、帰りは好きな時間に車で送るから遠慮しないで。こんな寒い中帰ったら湯冷めしちゃうって」 「……分かりました。ありがとうございます」 「うん、待っててね。今、二階から寝間着を持って来るから」 「泉さん」  二階へ行こうとした泉を、結城は思いつめた表情で呼び止めた。 「すみませんでした。私……あまりうまくなくて」 「何が?」 「あの、先刻の……あれぐらいしかできなくて」  俯きがちに結城はそう云った。一瞬の後、彼がセックスのことを云っているのだと分かった。 「何云ってるの。気持ち良かったって云ったじゃない。結城くんこそ、体、大丈夫だった?」 「はい」  改めて考えてみると、何故この男は自分のような、五つも年上の、出会ったばかりの男の誘いに応じる気になったのだろう。慣れないふりをして遊んでいるようにはとても見えなかった。好奇心や気紛れとは違う、もっと複雑な何かがこの男の中に沈潜している気がする。  もしかしたら、この男も自分と同じなのかも知れない。誰かの体温を借りることでしか紛らわせない、冷たい喪失感や苦しみを抱えているのかも知れない。消えることのない不安や孤独から、一時でも眼を逸らしたいあまりにここへ来たのかも知れない。気持ちは分かる。こんな殺伐とした世の中にいれば、何かに自分を委ねたい夜が誰しも必ずある。信じられる愛が傍にあればいいが、それを持たざる者は耐え忍ぶか、不安ながらも賭けに出るしかないのだ。 「実は僕が結城くんに声をかけた理由の一つはね、最初に会った時に、あ、もしかしたら自分と同じかも知れないな、っていう勘が働いたからだよ」 「え……そうだったんですか?」 「まあ、その勘が正しかったとしても、君が僕を相手にしてくれるかは別問題だったんだけどね。でも頑張って誘ってみて良かった。ありがとうね、うちに来てくれて」  泉は親しみを込めて結城の手に触れた。結城はほんのわずかにその手を握り返し、澄んだ黒い瞳で泉を見上げてきた。 「いいえ、私の方こそ今日、ここに来て良かったと思っています。泉さんに救われたような気がしてる」  その静かな言葉は水のように泉の中へ流れ込んできた。泉はその流れに心を明け渡すまいと抗った。たった一晩でそんな風に感情の防護壁が揺らいだのは、初めてのことだった。  翌朝、泉は結城を車で送って行く途中、スターバックスのドライブスルーに入った。 「あの、送って頂いてる上に朝ご飯まで。すみません、ありがとうございます」 「ううん、結城くんが甘い珈琲も好きで良かった。僕もたまに飲みたくなるんだよね。あ、もう一個のサラダラップ、好きだったら持って帰ってよ。エビとアボカドのやつ」 「えっ、いいんですか。嬉しい」  結城が素直に喜んだ声を聞いたのはこの時が初めてだった。ちょっとしたことだが、計算のない素直さが感じられて泉の気持ちが和んだ。  遠慮深い結城が朝早く何も告げずに帰ってしまわないかと、泉は朝六時頃から何となく眼を覚ましていた。セックスが終わっても一緒にいたいと思った相手は久しぶりだったな、と結城の無心の寝顔を見つめながら思った。  その後で、冷蔵庫に何もないことを思い出した。妻がいなくなってからというもの、料理をしない泉は日々、本当に最低限の買い物しかして来ない。結城がスターバックスを好きだと云ったので今回は良かったが、いい加減、納豆ご飯とチーズトースト以外のメニューを憶えなければと思う。  泉が一番家族を恋しく思い、ああ一人なんだな、と実感するのは、決まって朝だ。昼食や夕食は、これまで外で済ませることも多かったが、結婚してからの八年間、朝食だけは必ず家族三人でとっていた。  もう子供の声で目覚めることもなければ、台所から卵焼きや味噌汁の香りが漂ってくることもない。  休日の朝には、その人間の幸せが現れる。そんな感傷に浸ると、助手席に座っている結城と、余計に離れがたくなってしまう。 「ねえ、結城くん」 「はい?」  その時、泉は昨夜見た、結城の背中の白さと首筋にあったほくろを思い出していた。 「正直、僕はそんなにいい人間じゃない。分かるでしょ?家族の話で同情を引いて、家族で暮らしてたあの家に君を連れ込んで、子供の話をした後で君とセックスできる。ひどいと思わない?」  こういう云い方はずるいと思いながらも、引き返すなら早い方がいいという考えから泉はわざと自虐的な質問をした。信号で停車し、結城を見つめて微笑む。結城はあまり間を置かずに口を開いた。 「それをひどいと云う権利は私にはありません。昨晩も云った通り、私は泉さんに救われたんです。正式に離婚されていないことも、あの家に以前、ご家族と住んでいたことも分かった上で、あなたの誘いに応じたんです。私だって、そんなにいい人間じゃない」  結城の住まいは、築三十年以上は軽く経っていると思われる木造二階建てのアパートだった。  各部屋の扉の外には、ガス給湯器と洗濯機が並び、それぞれの住人が無造作に掃除用具や自転車を置いていたり、窓の格子に雨傘を掛けていたりした。全体的にあまり日当たりの良い立地ではなく、外階段は錆び、外壁にも塗料の剥落や黒カビが目立った。湿気を含んだ石塀の脇で、泉は車を停めた。  はっきり云ってこんなところに結城を置いて行く気にはなれなかった。  結城はそんな泉の心情を見透かした様子で、 「ぼろくてびっくりしたでしょう」  と云って少し笑い、礼を云って車を降りた。泉はすぐに窓を開けた。運転席側に回って来た結城はまだ微笑んでいた。 「こんなところまで、わざわざすみませんでした」 「ううん、こっちこそ。また連絡するね。風邪ひかないで」 「はい、泉さんも良いお年をお迎え下さい」  笑顔で別れるはずだった。けれど窓を閉めようとしたその瞬間に、泉は気づいてしまった。車を見送るために、数歩後退りした結城の眼元に憂いと諦めが混じった孤独が香ったことを。口許の笑みはまだそのままだったが、その笑顔はうわべだけのものになっていた。  泉は車を発進させるのをやめて、結城の名前を呼んだ。 「はい?」 「今度はドライブに行こうか」 「え?」  結城は不思議そうな顔をしてもう一度近づいて来た。 「正月休みの間はどこに行っても混雑してるからさ、一月第二週目の週末とかどうかな?」  言葉の真意が分からないといった風に佇んでいた結城は、はっとして鞄を探り始めた。 「あ、ええと……ちょっと携帯のカレンダー確認しますね」 「一月の十四、十五かな。どっちが都合いい?」 「ええと……両方空いてます」 「そう?良かった。じゃあどこに行くかはまた相談しようね。結城くんの好きなところに行こう」  結城の瞳はとても意外なことを云われたというように揺らめいた。それからほんの少しの光と潤いを湛えて、はい、と頷いた。  昨晩、自分のことを真っ直ぐに見上げてきた黒い瞳。その繊細な輝きに、既にこの時、泉の心の一部は支配されていた。結城は物静かで控えめでありながら、水のようにかたちを変えて確かに泉の中へ流れ込んできた。泉はその流れに心を明け渡すまいと抗った。たった一晩でそんな風に感情の防護壁が揺らいだのは、初めてのことだった。

ともだちにシェアしよう!