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第11話

 三十日は海晴との、二か月ぶりの対面だった。  泉はいつもこの日が楽しみで、そして少し怖い。自分の顔を見た息子が笑わなくなる日が来るのが怖い。おもちゃを受け取らなくなる日が怖い。パパと呼ばれなくなる日が怖い。その兆候の訪れを少しでも遅らせるために、泉はこの一日を息子と密に過ごす。  待ち合わせのパターンはいつも同じだ。場所はいつも決まった公園で、息子と妻は先に到着している。息子が大型遊具に夢中になっている隙に、夫婦は必要最低限の事務的な会話を交わすのだ。  この日も二人が先に到着しているのを、泉は少し離れたところから確認していた。  泉に気づくと樹里は素っ気ない表情で、海晴の着替えが入った手さげを泉に渡した。互いに挨拶はしない。本当はこの習慣をやめにしたいのが、彼女の表情から毎回ありありと伝わってくる。 「明日の夕方、いつも通り夜に送って行くから」 「もう少し早く帰してもらえない?明日は大晦日で忙しいし」 「突然予定を変更するのはなしだって前にも云っただろう」  泉はそれ以上何も聞く気はないという態度で妻に背を向け、ロープと丸太の吊り橋を渡っている息子の元へと歩き出した。妻はそれ以上、追っては来なかった。  結城に話した通り、泉は今も樹里を嫌っているわけではない。多少付き合いにくいところはあっても、彼女は基本的に感情豊かないい母親だった。けれど一度決めたことに関しては梃子でも動かない頑固さがある。それに泉が思いつかないところで頭が回るので、本当は敵に回したくない相手でもあった。  妻が息子を連れて出て行った日、気が動転した泉はなりふり構わず彼女の実家へ押しかけ、力尽くで海晴を取り戻そうとした。あんなに取り乱したのは人生で後にも先にもあの一度きりだ。 『今ここであの子を連れて行ったら、あなた、未成年略取罪になるわよ』 『勝手に子供を連れ去ったのはそっちだろ。何を云ってるんだ』 『分かってないみたいね。後で自分で調べたら?とりあえずもう遅いからお引き取り下さい』  もう少しで妻の頬を張る寸前だったところへ、二階で眠っていた海晴が姿を見せた。 『パパー』  その甘い声に、それ以上怒りを露わにすることなどできなくなって、泉は無理に笑顔をつくった。海晴の前でことを荒立てたくないのが大きかったが、根底では自分に非があることを理解していた。それに妻の気が変わってくれることを願っていた泉は、この件に関してはそれ以上何もしなかった。何もできなかった。妻もすぐには離婚調停の申請をしてはこなかった。恐らく離婚調停の際に、子供を育てる上での経済的な基盤がしっかりしていない、という理由で親権を譲渡しなくてはならないといった事態を避けたかったのだろう。それまで彼女は残業の少ない企業の社員食堂で働いていたが、今は知り合いのつてでに転職をし、新しい会社で商品・メニューの開発の業務に就いているという。  海晴はしっかりとロープを掴み、一歩一歩足許を確かめながら前へ進んでいるところだった。泉が呼びかけると、息子はすぐに父親に気づいた。 「あ、パパだぁ」  驚きと嬉しさを混ぜ合わせた表情で、海晴はそう叫んだ。その声色と表情に泉は安堵する。これだけで今日の面会も成功だと思える。  吊り橋からすべりだいに移り、くるくると降りて来た息子を泉は抱き上げた。少し重くなった気がする。 「パパ、何でいるの?」 「今日はパパと遊ぶ日だよ。この前はお病気で会えなかったから、今日はいっぱい遊ぼうね」 「うん、いいよー」  泉が何気なく振り返ると、妻の姿はもうなかった。  改めて見ると、息子は新しいダウンジャケットを着ていた。靴も、新幹線の絵柄が入ったものだ。どちらも去年は持っていなかった。妻の現在の収入がどれほどかは分からないが、今は実家で生活をしている。彼女の両親も、生まれた時から海晴のことを溺愛している。結婚していた時は婿にも親切な人たちではあったが、夫婦の離婚を執り成そうという態度は一度も見せたことはなかった。自分たちが今の状況になってからも電話の一本すらなかった。徹底して夫婦の問題には口を挟まない人たちだった。  一通り、公園内の遊具で遊び終えた後、泉は近くのファミリーレストランでランチをしようと海晴に提案した。 「ホットケーキとバニラアイスを頼むのはどう?それともバナナとチョコのパフェがいい?」 「えーママはそういうの、いつもだめって云う」 「パパといる時はいいんだよ。何でも好きなのを頼みな」  公園を出る前に、敷地内の水道で手を洗った。凍てつくような水道の水で手早く小さい手を洗ってやる。タオルハンカチでその手を拭い、少しでも寒くないように両手で包み込んで息を吹きかけた。海晴はくすぐったがって逃げようとする。  子供の肌は柔らかい。この小さな手にしか届かない部分が自分の心の中にはある。  海晴。こんな自分に神が与えてくれた生涯の宝、最高の試練。  この子ともう一度暮らしたい。この子が家に戻って来てくれたら、自分は今度こそ残りの一生を父親として生きよう。そして、二度と男の肌を求めたりしない。  息子は日曜日の朝にテレビでやっている戦隊シリーズもののオープニングを歌い始めた。一年前までは嫌でも毎週歌を聴かされ、歌詞を憶えたものだが、泉はもう歌えない。ああいった番組は約一年で秋に代替わりしてしまうため、今では番組も歌も似たような別のものになっている。歌えない父を息子はにこにこしながら見上げている。それが切ない。  車の中で数日遅れのクリスマスプレゼントを手渡すと、海晴はぱっと顔を輝かせた。 「プラレールだ!」 「そうだよ。レストランに行った後で、相模原のおじいちゃんとおばあちゃんの家に行こう。そこで一緒にやろうか」  泉は車で一時間ほどの実家へ海晴を連れて行った。泉の両親もまた、唯一の孫である海晴を溺愛している。面会の度というわけではないのだが、今回は年末なので両親にも孫の顔を見せてやりたい。  玄関で出迎えた泉の母親は、待ち望んでいたという様子で海晴を抱きしめた。 「こんにちは海晴くん、久しぶりねえ。ああもう、相変わらず可愛いんだから」 「おばあちゃん、靴脱ぐ」 「ああ、そうよね。ごめんね」  息子の自分に対して淡白なわりに、孫には超がつくほど母は甘い。母ほどではないが、父もおおよそ似たような感じだ。 「あとでケーキでも買いに行きましょう。おじいちゃんが一緒に行くって云ってるから」 「やったー海晴、チョコのケーキ欲しい」 「えっ、先刻チョコのパフェ食べたよ?」 「いいじゃないねえ、何でも好きなのを選んで来なさいね」  流石にパフェにケーキとなれば、樹里にも一言伝えておこう、と泉は思った。  夫婦どちらの家の両親も大事という妻の態度は、今も一貫している。樹里は海晴に「おじいちゃんおばあちゃんに会えて良かったね」と声をかけているようだし、昔から祖父母が息子を甘やかそうが叱ろうがそこには介入しない。  あれだけ普段うるさく云う食べ物に関しても、海晴が小さい頃から彼女は義両親に対して一言も強制しなかった。もちろん、泉の両親は彼等なりに気を遣って色々訊ねてはくるのだが、それにしても妻はよく我慢していると思い、泉は一度、実家からの帰り道で食べ物について訊いてみたことがある。 「だって子供には甘やかす時も必要だからね。ちゃんと歯磨きをして、普段の食生活で帳尻を合わせればいいの。私の両親だってそう。私たちも含めて、この子を可愛がりたい大人が六人もいるのよ。四六時中どこでもかしこでも教育方針を一貫するなんて、土台無理」  彼女は泉の両親について一度も悪く云ったことがない。変に自分を主張したりもしない。義実家に出向く時は、いつも控えめな服装を心がけ、盆正月の帰省や墓参にも面倒臭がることなく笑顔で参加していた。  そういう妻だったからか、両親も樹里を悪く云わない。運命の歯車さえ狂わなければ、自分たち家族は今もうまくやっていたと思う。  泉の母は、不器用に靴を脱ぐ孫を見守りつつ、息子の方を見て、少し悲しげに笑った。 「今年はもう会えないと思ってたから安心したわ」 「うん、ちょっと急で悪かったんだけど」 「大丈夫よそんなの。いつでも連れて来て。ねえ、海晴くん、今日は夜ご飯何食べたい?」 「海晴、カレーがいい。カレーライス大好きだもん」  それから間もなく泉の父が姿を見せた。 「おう、来たのか」 「おじいちゃーん」 「おお、何かいいもん持ってるなあ。これは何ですか?」 「プラレールですっ」  その日、母はカレーを作り、父は近所の洋菓子店に海晴を連れて行き、ケーキを買って帰って来た。二人とも海晴の拙い話に、辛抱強く付き合って笑い、パズルや折り紙で遊んでくれた。  辛抱強さが泉の両親の美質だった。泉の父は朝から晩まで働く企業戦士で、母は自宅で洋裁の仕事をしながら主婦をしていた。二人とも、生まれてこのかたヒステリックに怒鳴り散らしたことなど一度もないというような人たちで、泉が友達と悪さをして学校側から呼び出しを喰らおうが、通信簿の成績がオールAだろうが、両親は揃いも揃って実に淡々としていた。一時期、泉は本気で、自分は実は養子か何かで、それほど愛されていない子供なのではと思ったほどだ。  けれど、子供をもってみて、泉はあの平穏な毎日にどれだけの両親の忍耐があったのかを知ることになる。子供に過大な期待をせず、過保護や過干渉などといった視点から遠く離れ、したいことをさせて、淡々と育てるなんて、なかなかできることではない。  おかげで泉は両親に甘えかかることもなく、委縮することなく、自分で必要なものを選び取ることを覚えた。結婚をしたのも、子供をもったのも、泉は決して年齢的に早い方ではなかったが、それらについてもあれこれ云われることはなかった。  ただ、二十八歳の時、一度だけ母から、 「紹介したい相手ができたら連れて来なさい。お父さんも私も、どんな相手でも驚かないから」  と云われ、どきっとしたことがある。ひょっとすると両親は、自分のセクシュアリティも含め、全てを分かっていて結婚を急かさないのでは、と思ったからだ。だとしたら結婚したい相手だと云って樹里を連れて行った時、父があれほど上機嫌だった理由が、無事に孫が生まれたと聞いた母が電話口で涙した理由が、泉には痛いほど分かる。やはり人並みの幸せほど、親を安心させ、喜ばせるものはないのだと思う。  両親は無断で海晴を連れ去った嫁の悪口は云わないが、海晴を絶対に手放すなとも云わない。両親はただ純粋に孫の成長を見守りたいだけなのだ。泉も自分の罪を重々承知しながら、辛抱強い両親のささやかな希望を、奪いたくないと常々思っている。

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