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第13話

 その青年が泉に声をかけてきたのは、常連客に呼ばれた白石がカウンターを離れてから数分後のことだ。 「ねえ、お兄さん。白石さんの友達でしょ?ここ座っていい?」  先程の赤い髪の青年だった。彼はにこっと笑って携帯電話をカウンターの上に置くと、泉の隣席に腰かけた。 「こんばんは」 「……こんばんは。ん?初めまして……だよね?」 「うん」 「……え、何か用?」 「うん、お兄さんに話しかけに来たの」  会話の最中、ずっと青年はにこにこしていた。頬杖をついている手はビックサイズのトレーナーの袖に隠れてほとんど見えていない。ストリート系ファッションというのだろうか。スケートボードが似合いそうな、若い子らしい服装だった。泉の好みではなかったが。  青年は(あおい)と名乗った。 「結構長い時間、お兄さんのこと見てたんだけどな。あっちの席から。でも全然気づいてくれないんだもの。でも先刻ちょっと眼が合ったよね」 「そうだっけ?」  泉が煙草を取り出すと、 「あ、お兄さん、ラーク吸ってるの?一本ちょうだい」  と青年が箱へ手を伸ばしてきた。泉はさっとそれを取り上げて訊ねた。 「君、二十歳(はたち)超えてる?」 「当たり前じゃん」  その返答に不自然さを感じなかった泉は、自分の煙草を一本手渡し、火を点けてやった。 「ありがと。ねえ、お兄さんさあ」 「悪いけど、そのお兄さんていうのやめてくれるかな」 「えーじゃあ名前教えてよう」 「泉」  溜息混じりに泉は答えた。こういう子が目の前に来ると溜息を吐きたくなるような年齢になってしまった。 「いずみさん?女みたいだね」 「苗字なんだけど」 「へえ、かっこいい」 「どっちなの?」 「ねえねえ、俺、泉さんと仲良くしたい」 「何で?」  拒絶を含んだ引き気味な笑いを浮かべてそう云うと、葵はわざとらしく肩を落として口を噤んでみせた。その表情に可愛げがあると思っているのなら、今すぐ考え直せと云ってやりたかった。 「俺、前も泉さん見たことあるんだよね」 「え?いつ?」 「去年。十月か十一月だったかな。背の高いイケメンと呑みに来てたよね」  それから少し声をひそめて、 「俺、分かるから。この店ってたまあにそういう人いるよね。白石さんもそうでしょ?それから泉さんも」  と云った。まだ幼さが残る若い子がそんなことを云うものだから、泉は内心動揺した。だがそんなことはおくびにも出さず、酒を口に運んだ。 「……君は学生?」 「うんそう。双葉(ふたば)大の二年だよ」  双葉大といえば、全国でも名の通ったミッション系の大学である。歴史は古く、都内にキャンパスを二か所構えており、ロンドンにあるような煉瓦造りの大きな校舎が有名だ。高校時代、泉は友人たちとオープンキャンパスに行ったことがある。結局、親友のレベルに合わせて志望校を変えたため、受験はしなかったが、広く開放的な芝生が魅力的だったのを憶えている。  この赤い髪の青年も、見た目はどうあれ、頭は悪くないということなのか。  というのが、大学名を聞いた時の泉の率直な感想だった。  学部によって多少違うが、基本的に偏差値が六十ぐらいでないと双葉大への入学は難しい。自分が見学に行った時から二十年以上経っているが、今もそれほど偏差値は変わっていないはずだ。 「双葉大なら僕の友達にも同級生がいるよ。学部は?」 「政治経済学部」  ちょっと誇らしげな風があった。 「へえ、学科は?」 「学科?」 「双葉の政治経済学部なら、確か三つぐらい学科があるでしょ」 「……うん」  葵は云い淀み顔を伏せた。個人的なことをあまり答えたくないのかと泉は理解した。 「ああ、いいよ。だから何ってわけじゃない。それより、テーブルに戻った方がいいんじゃない?君、Oさんの連れでしょ?」 「んーいい。俺、Oさんのことよく知らないし。バイト先の先輩二人に連れられて来ただけだから」 「じゃあ、その先輩たちと一緒にいた方がいいんじゃないの?」 「別に、どうでもいいもん」 「だって僕のことなんて、Oさん以上によく知らないでしょ」 「てゆうか、俺Oさん、ぶっちゃけ嫌いだから。つまんない自慢話ばっかでさあ」  声色を変えて毒づくと、葵は再びぱっと笑顔を向けてきた。 「それにほんとに俺、泉さんのことは前に見かけた時から気になってたんだ。これって一目惚れだと思うんだよね。ねえ、泉さんて恋人いるの?それともこの指輪、結婚してるとか?」  いきなりだな、と泉は思った。どうやら自分はこの若い子の今夜の標的にされているらしい。計算などまるでしていないような振る舞いと距離感の近さ、そして愛嬌は、この青年の武器なのだろう。若い子らしい戦法だった。  だが初対面の、しかも明らかに年上の人間に敬語も遣えない赤い髪の学生に泉の食指は動かない。  泉も二十五、六歳ぐらいまでは学生と付き合うのも悪くないと思っていたが、自分の社会的責任が重くなるにつれ、だんだん社会経験のない若い恋人のペースに付き合うのがしんどくなってきたのだった。仕事の重みも知らない十九、二十歳の学生に、 『定時なのにまだ上がれないの?』  などと訊かれると途端に興醒めする。アルバイトのように時間労働ではないのだということをいくら説明しても理解できない。今でも泉は年下好きではあるが、付き合うなら最低でも三十歳以上の相手と決めている。 「ありがとう。でもごめんね。僕には今、付き合ってる子がいるからさ」  なるべく優しい声で興味は持てないという態度を示した。こういう子は脈なしと分かれば即撤退するだろうと思っていた。だが葵は引き下がらなかった。 「そうなの?じゃあ俺とは、付き合わなくていいから遊んでよ」 「遊んで、ってどういう意味?」 「えー?分かってるでしょ?」  そんなことを話しながら臆面もなく顔を見つめてくるので、いよいよ泉は、これは厄介な相手に捕まったな、と感じた。常連客の中にも顔見知りがいないわけではないが、こんな時に限って誰の姿も見当たらないし、白石もなかなか戻って来ない。目の前にいる若者の興味をどう逸らしていいのか分からず、その後も延々と求愛に付き合わされる羽目になった。  葵はとびきりの美男子というわけではなかった。背が低く、瞳が大きいので小動物を思わせる雰囲気があるが、鼻は高いとは云えず、口も少し大きい。逆に耳は小さすぎる気がする。安っぽい香水の匂いが彼の全身にしみついていた。  葵は長すぎる袖を引き上げながら、モスコミュールやカルーアミルクなどの甘い酒をちびちび呑み、初対面の泉相手にあけすけに自分のことを話してきた。 「二歳の時に父親と別れたきりでさあ、その所為か、歳の離れた人ばかり好きになるんだよね」  そう明るい表情のままそう云われた時、この若者を邪険にできない気持ちが泉に芽生えた。  正直云ってそれ以外にこの若者に対して感じるものは何もなかったが、遊びとはいえ一緒に来た仲間から外れて、自分の気を引くために一生懸命愛想を振りまいている彼をこのまま置いて行くのは忍びなかった。一晩くらいなら、経験豊富な若者のお遊びに付き合ってもいい。  泉は白石の戻りを待たずに席を立って会計へ向かった。葵は後をついて来る。 「遊ぶっていうのは寝台の上でってことでいいんだよね」 「うん」 「訊いておきたいんだけど、お金が欲しいの?」 「えっ違うよ。そんな風に見えたならショックなんだけど」 「そう。付き合ってる相手とかは?いない?」 「さあ、それはどうでしょう」 「大事なことだからちゃんと答えて」  その時、葵の携帯電話が着信音を発した。途端に彼は落ち着きのない様子を見せ始めた。その様子を不審に思っていると、葵は、 「ねえ、早くここ出よ」  と、どこか急いた口調で誘ってきた。 「一緒に来た子たちに一言云って行かなくていいの?」 「いいって」  葵に半ば急かされる形で店を出ると、そこに泉の見知った顔があった。  深月だった。眼が合った瞬間、泉の名前を呼びかけそうになったのか、彼の形のいい唇がかすかに動いた。だがすぐに、泉の後ろにいる葵に気づき、声には出さなかった。深月の顔を見た泉は、何だ、元気そうじゃないか、と思った。少なくとも泉と別れたことが辛くて、身なりも整えられない、といった様子ではなさそうだ。  泉は視線を逸らして歩き始め、深月が見ているのを知っていながら、店から少し離れたところで葵と手を繋いだ。 「えっ?どしたの、急に」 「ん、何となく」  手を握られている間、葵は途惑いながらも嬉しそうな笑みを浮かべて従順について来た。  人通りの多いところまで来ると、泉はさっさと葵の手を放した。

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