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第14話
「で、どこのホテルがいいとかあるの?」
「えっ?」
「場所。どこでもいいなら、僕が何回か使ってるホテルがあるんだけど」
「う、うん、でもあの……ほんとに今すぐ行っちゃう?」
「だって君が誘ったんじゃない」
「そう、だね……うん、頑張る」
「頑張るって……ところで君はどっちなの?」
「どっちって何が?」
「いや、ネコかなあと勝手に思ってるんだけど、違う?」
「ネコ?うん、好きだよ。何、俺、ネコっぽい?」
相手の態度を若干不審に思いながらも、泉が使ういつものホテルに行き着き、部屋をとった。このホテルは部屋のランクに関わらず浴槽が広いのが泉の気に入っているポイントの一つだ。泉はまず荷物を下ろしてからバスルームの灯りを点けに行った。
「シャワー浴びるよね?僕が先に入ってもいいし、君が先でもいいけど。それとも一緒に入る?」
葵はまだ部屋の入口にぼんやりと佇んでいたが、泉の質問に表情を強張らせた。白石の店を出てからというもの様子が変だった。わずか三十分前の積極的な態度はどこにいったのだろうか。
「どうしたの?」
「ねえ、ごめん、やっぱり云う。あのさ……実は、初めてなん、だよね」
「何が?」
泉は最初、言葉の意味が分からなかった。
「え、まさか、ホテルの部屋が?」
「あ……それもあるけど」
「まあとりあえず、ジャケット脱いだら?」
そう云って泉は葵の肩に触れようとした。手が触れないうちに、葵はぱっと身を引いて怖気づいた表情で泉を見上げてきた。
「何、どうかした?」
葵は黙っていた。彼の方からあれだけ積極的に声をかけてきておいて、今更慣れない素振りを演じているのだとしたら間が抜けている。
「どうしたの?何か気になることでもあるの?」
「だから……俺、初めてだからさ」
そこで泉は相手の言葉の意味をやっと理解した。
「え、初めてって……そういう意味?ちょっと待ってよ。誘ってきたの君の方だよね?」
「そうだけど……あの、途中までは大丈夫、できる、って俺も思ってたんだよ。でもちょっと今……ほんとのこと云っといた方がいいかなって考え直して……こういうこと、どうやって始めたらいいのかも分かんないしさ」
「何それ……」
泉は脱力し、呆れた。
「だってやったことないなんて云ったら、泉さんは絶対相手にしてくれないと思ったから」
「その通りだよ。君、セックスの経験はないのね?悪いけど、そういうことならやめよう。僕は帰らせてもらうよ」
美学というほどのものではないが、泉にも自分なりの道徳律がある。こういう行きずりのセックスは、経験豊富で遊びと割り切れる人間とするものだ。未経験の子とするものではない。
「ねえ、待って待って」
「何?初体験をさっさと捨てたいから、協力してっていう話なら断るけど」
「何それ?そんなこと考えてないよ」
「じゃ何なの?」
「俺、泉さんのことは好きなんだよ。一目惚れなの。嘘じゃない。信じて」
「それはどうもありがとう。大丈夫、明日には別の人を好きになってるよ」
「そんなわけないじゃん」
「君みたいな若い子の相手が好きなのは、先刻君が一緒にいたOさんだよ。葵くんみたいな若い子には優しいし、お金だってたくさんくれるよ」
その時、葵の表情がさっと険しくなった。
「絶対やだ。Oさんなんか。嫌いだって云ったじゃん。あなたに声をかけたのは、あいつから逃げたいのもあったんだもん。死んでも捕まりたくない」
「逃げる?何、どういうこと?」
「あの人、やだよ。執拗 いし、頭おかしいよ」
それから葵はどういう経緯でOと知り合ったのかを話し始めた。てっきりOがどういう人間なのか納得済みで、白石の店で同じテーブルについていたのかと思いきや、そうではなかったらしい。
葵は昨年の秋頃から自宅に近いチェーンの居酒屋で、週二回から三回のアルバイトを始めた。そこで同じ時間帯に働く年上の大学生二人と仲良くなった。初対面の時点で彼等はかなり葵に対して友好的で、すぐに仕事の帰りに呑みに行ったり、カラオケやゲームセンターなどに行ったりして遊ぶようになった。しかも、毎回彼等は葵との食事代や遊興費を全額出してくれていた。そしてつい先日、その二人からOを紹介された。
『俺たちがお世話になっている人だから』
と云われたので、葵も初めは警戒していなかった。その日、Oは若者に人気のブランドの、しかも数量限定の鞄をほんの挨拶だと云ってポンとプレゼントしてくれた。その場で先輩たちから聞かされたのは、
『自分たちの食事代や遊びにかかる金は全てOが世話をしてくれているのだ』
ということだった。彼等がOとどういう関係なのか、葵は特別疑問に思わなかったらしい。
それからもOは時々、葵が先輩たちと遊んでいる時にやって来ては、金銭的な世話を焼いてくれるようになった。
何度目かの時、葵は先輩たちに騙されて、ホテルのラウンジでOと二人きりにされたことがあった。Oはホテルの部屋の鍵をカウンターに置き、
『階上 に付き合ってくれるなら、葵くんにはもっと色々してあげられるんだけどな』
というようなことを云って膝から上を撫でてきた。そこで葵はやっと眼の前の男の歪んだ粘質的な性欲が自分に向けられていると気づいたのだった。あまりにも遅すぎる。もちろんその場はうまく逃げきったが、それ以降もOは葵に執拗に迫った。
今日、葵は例の二人の先輩たちに三人だけの集まりだからと聞いてやって来た。だが白石の店に着いてみると、そこにはOがいた。強引にOの隣に坐らされ、散々面白くもない冗談や不愉快なボディタッチを受けた。
「先輩たちのことも、もう信じられないよ。全部Oさんからもらった金でお前に色々奢ってたんだから、Oさんに恩返ししろよ、みたいなこと云ってきて」
「無茶苦茶だね。でも分かったよ。多分その先輩たちはOさんから、可愛い子を見つけたら自分に紹介するように、って常々から云われてたんだろうね。君がOさんになびけば、その子たちは何かしら報酬がもらえるんだと思うよ」
「今、泉さん、俺のこと可愛いって云ってくれた?」
「真面目に聞きなさい」
「聞いてるよ。で、どうしたらいいと思う?」
「普通に、同性の相手はできませんって云ってみたら?」
「云ったけど……聞いてもらえなくて」
「へえ。まあ、Oさんて結構執拗いタイプだって聞くからね。もう諦めて一回ぐらい寝てあげたら?」
「ふざけ、絶対無理。俺、初めてだって云ってるじゃん」
「女の子じゃあるまいし、初体験なんて案外さっさと捨てちゃった方が楽になれるよ。一時間か二時間、じっと我慢してればその先輩たちみたいに面倒見てもらえるじゃん。それとも、最初の相手は女の子がいいとか?」
「違うけど、ほんとにやめて。Oさんなんて全然好きじゃない。見た目もそうだけど、碌に話しもしないうちからべたべた触ってくるし、執拗いし、変な説教してくるし、俺の連絡先勝手に登録してるし、やたら強い酒ばっか勧めてくるし。そんな好きでもない相手とエッチなんかできるわけないじゃん」
「怒らないでよ、ごめんごめん」
「ほんとに、マジで気持ち悪い。大体あの人、俺たちみたいな年頃で、ちょっと見た目が気に入れば誰でもいいんだよ。それに一番嫌なのが、何て云うんだろ……金にもの云わせるっていうの?」
「お金になびきそうだもんね、葵くんは」
「何それ、ひどい」
軽い調子の泉に対し、葵は真面目に訴えていた。事情はよく分かったし、彼の云っていることには同意もできたが、正直泉にはどうでも良かった。Oに何をされそうになっているにしろ、この子の振る舞いがそうさせているのだろうと思った。
「だってさ、初対面の僕に気安く声をかけてきて、こんなところまでついて来るぐらいだもの。誰だってそう見るよ。それで初めてだとか、一目惚れだとか云われてもねえ。何がほんとか分かんないっていうか」
笑いながらチクリと云った泉に対し、唐突に葵の表情が和らいで、照れた笑みが唇に浮かんだ。意外な反応だった。
「泉さんには頑張って話しかけたんだよ。泉さんはOさんなんかとは全然違う。それぐらい、俺分かるもん。フィーリングってやつだよ。初めて見た瞬間から、あーいいなあって思った」
ストレートな感情表現は、この子の武器なのか、素顔なのか。泉は分かりかねていた。この子のことは信用していない。出会ってからここに至るまで、彼は泉の信用度を上げる行いを一つもしていない。だが恥じらいを隠したその笑顔は、まだ成長しきっていない無垢な部分のようにも見えた。
「……まあ、本当にOさんが嫌ならしばらくは逃げ回るしかないんじゃないかな」
「そうする。ほんと、あの人に次捕まったら監禁でもされかねないよ。やっぱOさん、先輩たちから俺が経験豊富っていう風に聞いてるのかも」
「えっ?」
「エッチの話になった時さー……ノリっていうか……先輩たちの前では雰囲気的にほんとのこととか云えなくて、話盛っちゃったんだよね。俺、彼女も何人もいたし、その上で男も試したことあるよー、みたいな」
「はあ?」
泉は開いた口が塞がらなかった。
「ちょっと、それだよ。Oさんに君が簡単に応じるだろうと思われている原因は。君、したことないんだよね?話盛ったとかじゃなくて、まるっきり嘘じゃん、それ。何でそんな嘘吐いたの?」
「えっ、だって経験ないなんてバレたらダサくない?」
この子は莫迦なのか?勉強のできる莫迦なのだろうか。
男なら誰しも性的虚栄心は持ち合わせているとは思うが、それにしてもひどい嘘だし、それを厄介な相手に信じ込まれている。明らかにそれがこの事態の原因だ。若く、性に奔放な態度に、生贄を探し求めている人でなし共 が眼をつけたのだ。
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