15 / 60
第15話
そこへ電話の音が横槍を入れた。葵の携帯電話だ。画面を見るなり、彼は舌打ちをした。
「先輩だ。もー……先刻からずっとメッセージ来ててさ、どこ行ったんだって……」
「とりあえず電話出たら?話すだけ話してみなよ」
「……うん」
渋々といった様子で葵は携帯電話を持ち、バスルームの方へ移動した。扉の向こうに姿を消す寸前、ひょこっと顔を出すと不安げに、
「ねえ、お願いだから帰らないでね」
と念押ししてきた。
「分かったから」
葵がいなくなった後、泉は煙草に火を点け、黒い革張りのソファに腰を下ろした。テーブルの上の灰皿を手許に引き寄せる。
非常に面倒な子に関わってしまった。
斜め向かいの椅子に、葵が持っていたボディバッグが置かれている。よく見るとパスケースがついており、それが閉じたファスナーに雑に挟まっていた。
リールストラップのそれを、泉は何とはなしに伸ばして引っ張り出してみた。予想通り、中には通学の印がついた定期券が入っている。そこに記載された区間を見た時泉は、変だな、と思った。定期券に記されていた降車駅は双葉大学の最寄り駅とは全く違う駅だったのだ。路線も異なるし、距離も遠い。パスケースの中にはもう一枚カードが入っている。定期をずらして見てみると学生証だった。
それによると葵は双葉大学の学生ではなく、政治経済学部などでもなかった。泉が聞いたこともない大学の文学部の学生だった。更に、併記されていた生年月日で彼が歳を誤魔化していることも判明した。
その時、バスルームで電話をしていた葵が戻って来た。
「だめだ。こっちの話、全然聞いてくれない。すごい怒られた。憶えてろよ、とかいって脅されたんだけど」
「葵くん」
「ん?」
「君、双葉大の学生だって云ってたよね?」
そう云って泉はリールストラップを伸ばして学生証を見せた。
「あっ」
「あと生年月日見たけど、君、まだ十八じゃない」
「勝手に見ないでよっ」
「ねえ、本当に僕を気に入ってくれてるなら嘘を吐くのはやめてくれない?」
「いいじゃん、別に、大学や年齢ぐらい」
泉は煙草を灰皿に押しつけ、立ち上がった。
「十八だったら酒と煙草はまだ早いよね。白石の店で年齢確認されなかったの?」
「そこはOさんが何とかしてくれて……っていうか、何?一歳や二歳違ったからって、そんなに変わらないって。第一、みんなやってるよ、こんなこと」
「君があと一歳でも若かったら、こんなところに連れて来た僕は捕まるんだけど」
泉はかけたばかりのジャケットとコートを順に羽織っていった。
「それに、僕はすぐに『みんな』を引き合いに出す子は好きじゃない。君の態度を見てると嘘を吐いてることを全然悪いと思ってないみたいだしね。大変な目に遭ってるのは分かったけど、僕にはどうしようもないよ。はいこれ、タクシー代。これで足りるよね」
「えっ」
慌てる葵をよそに、泉は財布から一万円札を取り出して、寝台の上に置いた。
「気をつけて帰って。じゃあね」
「ねえ、やだよ、待って」
葵は素早く泉の前に回り込んで来た。
「お金なんか要らないって云ったじゃん」
「もうそれで関わらないでくれって云ってるの。君も知らない大人からこれ以上あれこれ説教されるのめんどくさいでしょ。だからさよなら」
「待って。ごめん、ごめんなさい。謝る」
その声は必死さを露わにしていた。
「もう嘘は吐かないから。あの……俺、いっつも誰かに怒られるまで気づかなくて……何て云うか、『このぐらい、いいや』ってしたことで、周りに迷惑かけること、よくある。本当にごめん」
そう云って葵は頭を下げた。だぼっとしたコーデュロイのズボンの膝を両手で掴んでいる。大きめのトレーナーの上に更にだぶだぶのジャケットを着ている所為で、細い体が更に華奢に見えた。謝るのが遅すぎるとは思ったが、思いがけずこの若い子の素直な態度を見て、泉の良心は少し揺り動かされた。けれど会ったばかりの自分に対し、どうしてこの子がそこまで必死になるのか、泉はまだ腑に落ちない。そんなに今、一人になるのが不安なのだろうか。
葵は尚も一万円札を泉に返そうとした。
「……ほんとに、これは返す」
「いいよ、もう」
「これをもらったら、あなたに信じてもらえない気がする」
そこには幾分か毅然とした響きがこもっていた。泉は少しこの青年を見直した。彼の中にもちゃんと美学があるのだと感じられた。泉は一万円札を自分の財布に戻し、今度は携帯電話を取り出した。
「……白石に連絡をとってみるよ。あと、もう一本煙草を吸ってもいい?」
「うん」
泉はまだコートは脱がなかった。そして寝台ではなく、テレビの前に置かれた黒い革張りのソファに腰を下ろした。
「あのね、これは頼みなんだけど、金輪際、白石の店で呑むのだけはやめて。二十歳未満の客に酒を提供したことが分かったら、店側が罰せられるって知ってる?」
泉の質問に葵はおずおずと頷いた。
「大学名にしてもさ、嘘を吐いてまで自分を良く見せようっていうのはどうなのかなって思うけど」
「大学は……だってうちの学校、Fランなんだもん。俺、そんな頭良くないしさ。勉強だって嫌いで……でもうちの母親、自分が高卒だからか、昔っから俺にはとにかく大学に行けって云ってて。それで入れるとこ入っただけで」
「僕は大学名なんて訊かなかったよ。君が初めから勝手に嘘を吐いたんだ」
「ごめん、少しでも泉さんに相手にして欲しかったんだよ」
正直、泉は説教をしている自分に少々途惑っていた。誰かを叱るのは慣れていない。きょうだいはいないし、後輩や部下には迷惑をかけられるものと考えている。最初から期待しないので叱る気も起きないのだ。そもそも誰かを叱るということは、自分を棚上げしないとできない行為だと思う。十八の時の自分がそれほど高尚な若者だったかと問われれば、否というほかない。人はかつての自分の過ちを、あるいはどんな風に生きていたかを都合良く忘れることで、自分の子供を含め誰かを叱ることができるのかも知れない。
海晴のことはもちろん叱れるはずもない。月に一度しか会えない愛息が少しぐらいやんちゃをしたとして、どうして叱ることができるだろう。
「泉さん?ねえ、俺のこと許してくれる?」
「……うん」
海晴の甘い笑顔を思い出していた泉は、ほとんど無意識にそう返答してしまっていた。
「良かったぁ」
「あ、ええと……会ったばかりの僕にどう思われるかなんて、そんなに気にする必要ないよ。それより、バイト先の先輩二人に対して、どうするかを気にした方がいいと思うけど」
「それこそどうでもいいよ。俺が今気にしてるのは、今日泉さんに抱いてもらえるかどうかってこと」
何の計算もなく云われたその言葉に、泉は再び当惑した。
「何云ってるの?したことないって、先刻云ってたじゃない」
「うん、そうだよ?だから俺の初めては泉さんにお願いしたいわけ」
「ちょっと待って。君、本当に初めて?また嘘吐いてない?」
「泉さん相手にもう嘘は吐かないよ」
そう云って葵は泉の隣に滑り込むようにして坐った。
「ねえ、わりと本気で泉さんを好きになりそうなんだけど、いいかな?」
「えー……」
「付き合ってる人がいるなら邪魔はしないから。俺が勝手に泉さんを好きになる分にはいいでしょ?初めてのセックスの相手が泉さんみたいな優しい雰囲気の人だったらいいなあって、ずっと思ってたんだよ」
「ねえ、待ってって。自分が若いからって、年上の相手がみんな喜ぶと思ったら大間違いだよ」
「そんなこと思ってない。これでも真剣なんだって」
それから今度はごく控えめな声で云った。
「ほんとのこと云っていい?二か月前に泉さんをあの店で見かけた時、どうしてか、眼が離せなかったんだよ。見た目も好みだったけど、それだけじゃなかった。うまく云えないな。直感って云えばいいのかな。ずっと待ってた人がやっと来てくれたみたいな。一目惚れとか云ったけど、もしかしたら運命ってこういう感じなんじゃないかなって思った。今までそんなの信じたことなかったし、冷静に考えても泉さんみたいな人は年上すぎるだろって思ったけど……その日、あなたの隣には別の人もいたしね。でも今日もう一度あなたに会って、ああやっぱりこの人だ、って思ったんだ。それで、勇気を出してあなたに話しかけに行ったんだよ」
「もう一度冷静に考えよう。初対面の若い子とホテルに入るのを躊躇わない僕みたいな大人が良い人間なわけないよね?」
「別に良い人間じゃなくていいよ。ここまでついて来たのは泉さんが良い人だったからじゃなくて、好きだと思ったからだもん。俺の眼に狂いはなかったよ。先刻みたいに怒られても、あなたのこと好きだもん」
「……君は誰に対してもそんな風に性急で直球なの?」
「せいきゅう?」
「いや、いいよ」
「俺のこと莫迦だと思ってる?」
泉は口を噤んでいた。
「分かってるよ。自分が莫迦だってことぐらい。でも、今云ったことは本気だから。今、云っておかなきゃ、後で云っとけば良かったって思っても遅いもん」
泉は葵の眼を初めてまともに見つめた。この子の云っていることは正しい、と思った。そして家族が出て行った日のことが蘇った。
昨日までふとした瞬間に湧き出る愛を、その場で息子に伝えられる距離にいたのに、今日はもう誰も帰らない暗い部屋に一人。薄氷が割れ、孤独と虚無と喪失の冷水に落ちた。この若者も、ある日突然、父親が目の前から消えた痛みを未だに潜在意識の底に抱えたまま生きている。
「ねえ、お願い。付き合ってくれなくていいんだよ。そういう相手は他にちゃんと探すから。お願いだから、このまんま帰んないで」
その切願に、息遣いに、若い命が脈打っているのを感じた。薄暗いホテルの一室で、彼の眼と唇がささやかな光輝を放っているように見えた。
結城ならこんなことは云わないだろうな、とふと泉は思った。
自分からは何も望まないのがあの男だ。彼はこの世の中にある全てに期待していない。そもそもあの男は、自分から何かに手を伸ばすということを知らないのではないか。
葵は、結城とは熱量が違う。
自分と同年齢の同じ性的指向を持つ大人の大半は、きっとこういう若い子を相手にしたいと思うのだろう。葵の鎖骨から首のあたりを見て、肌のきれいな子だなと泉は思った。それにしても、今の若い子はこんなに細いのが普通なのだろうか。
母親の背中だけを見て育ち、母親の腕の中の広さしか知らないで育ったために、こんな細い体になってしまったのかと思う。この子は父親に思いきり抱き締めてもらうのを待っている。
息子にしてやるようにそっと髪を撫でてやると、陶然とした表情で葵は泉を見上げてきた。
この子が望んでいるような父性が自分の中にあるかどうかは別としても、ここまでひたむきに自分を見つめてくれる瞳には、少しぐらいは誠意をもって応えなければと思った。
ともだちにシェアしよう!